おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

2月12日(振替休日)。向島百花園・梅まつり。満開の梅。福寿草。メジロ。

2024-02-13 20:09:55 | 向島百花園

今日、全国各地で4月上旬の気温に。

昨日、今日よりは寒かったですが、それでも、向島百花園は、けっこう梅見物の人達が訪れていました。そんな午前中。

向島百花園・梅まつり開催中。

「白加賀(しろかが)」。

                   {「紅冬至(べにとうじ)」。

「紅千鳥(べにちどり)」。 

                             鮮やかな紅色。

白梅、紅梅と色とりどりで満開。                 

     

「東京スカイツリー」。      

 

福寿草(ふくじゅそう)。

メジロ二羽が梅の枝に。 

飛び回って花の蜜を吸っています。

                    

花から花へ、枝から枝へ、梅の木から他の梅の木へ。目まぐるしく飛び移るメジロ。

                  

見知らぬ中型の鳥が木の枝に。

近所の公園の花壇も満開の花々。

             

                     

          地元の方々が丹精込めて育てています。

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JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その5。「和田浦駅」・フェニックス。全国で4か所の捕鯨基地。「南一号踏切」。「浜千鳥」碑。和田浦港。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

2024-02-12 18:06:08 | 房総東往還

内房線「和田浦駅」。フェニックスの大木。

    木の元に菜の花。

待合室で休憩。

                抽象画が飾られています。

※「道の駅和田浦WA・O!」に展示されている全長26メートルのシロナガスクジラの骨格標本。

ここ南房総では、17世紀頃から小型船による沿岸捕鯨が行われてきました。 そして現在でも、6月から8月に掛けてツチ鯨の漁が行われています。
シーズンになると、捕獲された鯨とその解体を見る為、各地から多くの人々が訪れます(捕鯨の予定などは、捕鯨の会社外房捕鯨さんのブログに情報が掲載されます)。
捕鯨は早朝出航し、当日の夕方は捕獲した鯨を曳航して港に帰り(当日出航の当日帰港)、鯨はそのまま熟成させるため、一晩寝かせます。
翌日の早朝、鯨の体長などの計測したあと日の明けぬうちから解体が始まります。
解体には、大きな包丁(薙刀のよう)を持った男たちが尻尾から切り落とし、手際よく鯨肉が仕分けされ、最後には地元の人をはじめとする、鯨肉の購入者に小分けして販売されます。 昔からほとんど変わらない鯨の解体作業は、ずっと鯨に親しみ、鯨とともに歩んできた和田漁港の男たちと地元民の暮らしの一部になっているようです。

(この項「」HPより)

※農林水産大臣より許可された沿岸小型捕鯨で捕獲された鯨の鯨体処理場の設置場所は、全国で4か所

北海道の網走、宮城県の鮎川、和歌山県の太地、そして南房総に位置する和田町

房総にある捕鯨基地は、これまで館山市や千倉町、白浜町へ移動してきた後、現在の和田町へと落ち着きました。

・・・調査捕鯨時代は小型捕鯨業における捕獲対象になっていなかった。調査捕鯨時代は、日本政府はIWCにおいて、沿岸捕鯨は小規模捕鯨でアラスカなどが認められている先住民捕鯨と同じであると主張して、大型鯨類に分類されてIWCの管轄下におかれているミンククジラの沿岸商業捕鯨再開を求めたが、アメリカ合衆国オーストラリア南米の反捕鯨国から、ミンククジラの商業捕鯨は認められないとする反対をうけ、IWCでの採択で承認されなかった。また、2009年及び2010年にはIWC総会で調査捕鯨における捕獲頭数の削減或いは休止と引き換えに主に日本沿岸での商業捕鯨をIWCの管理下において認める議長案が出されたが、合意に至らなかった。

(この項「Wikipedia」より)

 時刻表。1時間に上下線とも1本。

「和田町観光マップ」。

しばらく休憩した後で、街道歩き再開。「和田浦駅」前ロータリー

内房線踏切を越えます。

                      「南一号踏切」(次の駅「南三原」の「南」)。

国道128号線を進みます。 

振り返る。「→和田浦海水浴場」。 

海岸沿いには「鹿島鳴秋・浜千鳥」碑があるようです。

鹿島鳴秋(かしまめいしゅう)

東京都深川まれ。明治24年(1891年)5月9日~昭和29年(1954年)6月7日没。本名は鹿島佐太郎。20歳の時に童話に応募して入選し、清水かつららと雑誌「少女号」を刊行する。代表作は「浜千鳥」、「金魚の昼寝」、「お山のお猿」などがある。鳴秋は和田海岸を愛し、療養中の愛娘と和田海岸を訪れていましたが療養のかいなく娘が亡くなり、浜千鳥は娘を偲んで作られたとされています。
 

浜千鳥 作詞:鹿島鳴秋 作曲:弘田龍太郎

青い月夜の 浜辺には
親を探して 鳴く鳥が
波の国から 生まれ出る
 
夜鳴く鳥の 悲しさは
親をたずねて 海こえて
月夜の国へ 消えてゆく
銀の翼の 浜千鳥

(この項「房総タウン。COM」HPより)

右手の背後には岩壁が。梯子が頂上まで。

歴史があるような建物。しゃれた二階のつくり。

和田浦港。

                

     

捕鯨の時期にはたいそう賑わうそうです。 

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JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その4。往還(旧道)に復帰。「槙のつらなり」。「花嫁街道・黒滝ハイキングコース」・花嫁街道の由来。「うな陣」。和一号踏切。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

2024-02-11 21:15:35 | 房総東往還

往還(旧道)に戻ります。

                      右手奥に満開の桜の森。

水準点。※ 全ての水準測量の基準となる「日本水準原点」は、東京都千代田区永田町の国会前庭洋式庭園内に設置されており、東京湾平均海面上24.3900mを原点数値として測量法施行令第2条第2項において定められている。

すばらしい槙の生垣が続く。

「花嫁街道・黒滝ハイキングコース」案内板。

《花嫁街道の由来》

山間にある上三原の集落と海辺の集落との交流道、古くは塩汲みの道から生活物資の往来、学校への通学路として利用され、かつては花嫁行列もここを通って嫁いでいったことから、近年ハイキングコースとして整備され花嫁街道と呼ばれるようになった。
昔とは多少道筋は変わってはいるが、歴史は古く、今でも経文石、じがい水、猿渡り、馬井戸、駒返し、桟敷塚(馬駆け場)等の地名が残されている。
上三原集落も歴史は古く、頼朝伝説に出てくる名馬「スルスミ」を産出したといわれる磑(スルス)森集落、里見伝説の残る五十蔵集落、竹の中集落の竹は浜の漁業の必需品である満漁籠。魚樽の材料として売るために植栽され生活の糧となった。現在も竹林は多く地名となっている。

(「」より)

コース中にある「黒滝」。

ハイキングコース。右手の奥の方に。

「長者川」を越えると、

右手に大きなお屋敷。                  

左手には、モダンアート??

                   駐車場案内版。

「うな陣」というお店でした。

【古民家でいただく絶品料理◎】店内は昔ながらの木造の古民家で、広々とした店内でゆったりとした時間をお過ごしいただけます◎厳選した素材を生かした絶品料理をご堪能ください♪ (「」より)

???

「←花嫁街道・和田浦駅→」。

「花嫁街道」?  

住宅地を進みます。

軽トラの上で日向ぼっこをしているネコ。

手入れの行き届いた槙の生垣。

房総往還歩きの時、館山近くですばらしい「槙のつらなり」を見ましたが、ここもすばらしく見事です。

この先で内房線の踏切を渡ります。

左手遠くには南房総の海。

内房線「和一号踏切」。

「和」は、次の駅「和田浦駅」に関連しているようです。

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JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その3。菜の花・寒桜。「抱湖園」・元朝桜・メジロ。第二花園踏切。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

2024-02-10 19:48:12 | 房総東往還

満開の桜が間近に。

このブログを掲載したときには、早くも東京などでも「河津ザクラ」などが咲き始めた、というニュースがありましたが、このときに、今年初めて満開の桜を見ました。※東京地方も、その後、寒気が入りこみ、雪模様に。

坂道を上がっていきます。と、満開の桜並木。

散策にやってくる人も。         

  

遠く、南房総の海が見下ろせます。

ここは、抱湖園

全国的に有名な花の産地である南房総市和田町にある「抱湖園」は、当地に花栽培をもたらした偉人、間宮七郎平が開いた庭園です。元々薬剤師であった間宮七郎平は、花づくりによって半農半漁で生計を立てる民を救いたいという想いから、花栽培に取り組みました。安房で初めて花栽培に成功し、自らくわを持って山を切り開いて花木を植栽。この際に植えられた寒桜は、旧暦の元日朝に咲くことから「元朝桜」と名付けられました。毎年1月下旬〜3月末頃になると、約60本の元朝桜と菜の花が見事に咲き誇ります。

訪れた人は、ピンクと黄色の花々が一面を覆う極彩色の景色に酔いしれます。

(この項、「ちば観光ナビ」HPより)

和田町は、全国的にも有名な花の産地です。それは昔、間宮七郎平という薬剤師が和田町に住んでいて安房で初めて花作りに成功しました。七郎平は花作りによって半農半漁の和田の人々の生活が救われることを何よりも願っていました。
花作りで成功した七郎平は、次に山を切り開き、花木を植えることを考えつき自らくわをもち花園の裏山の堰の周りを開墾し、「抱湖園」と名づけ花木を植えました。間宮七郎平が植えた桜で(旧暦の)元日の朝に咲くことから元朝桜と呼ばれるようになりました。

桜とメジロ。

(この項、「」HPより)

※旧暦の元旦。今年は、2月10日(土)。

       

子供連れの家族。「いつもは、2月になってから咲き始めるのですが。」

※この日は、1月27日(土)でした。

菜の花畑。

蘇鉄。

その奥に梅、桃。

しばらく散策し、引き返します。※左の山(展望台)へ上がる道もありましたが、パス!

「第二花園踏切。」。

「花園」という地名が素敵ですね。鴨川駅からのバスに、「花園」行きという便がありますが、ここを指しているのか?

  

江見駅方向。                和田浦駅方向。

可愛らしいこけし。スイセンの花が彩りを添える。

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JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その2。鴨川市から南房総市へ。菜の花・桜が満開。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

2024-02-09 19:38:59 | 房総東往還

眼下に南房総の海が。

鴨川市から南房総市に入ります。

「またどうぞ鴨川へ」。

南房総市

南房総市は、千葉県の南部に位置する自治体である。 関東地方および千葉県最南端。南房総観光圏の観光都市。市域は森林セラピー基地、海岸部は南房総国定公園に指定されている。

本地域が位置する安房地域は718年養老2年)に上総国から分かれ、明治初期まで安房国と呼ばれていた。国府は旧三芳村に置かれ、条里制の遺構も見られる。かつては多数の荘園があり、これらは中世末まで統治者の交代を繰り返した。

戦国時代に入り、15世紀中頃に里見氏が安房統一を果たし、戦国末期に館山城を築城し、安房国統治の拠点とした。江戸時代初期、里見氏は江戸幕府により1614年慶長19年)に改易され、以降この地は旗本領、天領、小大名の領地として分割統治された。

近代に入り、1878年明治11年)の郡区町編制法施行により郡制を施行し、1897年(明治30年)に「交通の便が相互にあり且つ民族風俗に大差がない」という理由から、安房郡、平郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を合併して、昭和期の安房郡の前身となる「安房郡」が形成された。

2006年平成18年)3月20日に安房郡富浦町富山町三芳村白浜町千倉町丸山町和田町が合併し、南房総市が発足した

温暖な気候を生かしたアイリスキンセンカなどの花卉栽培や房州ビワの産地として知られ、生産量は日本一である。

日本酪農発祥の地である峯岡牧を始めとした酪農や、アワビテングサなどの漁業も著名である。全国モデル道の駅である道の駅とみうらを始め、日本最多の道の駅数である

市役所は当面、旧富浦町役場を使用するが、富浦地区は南房総市の地理や経済の中心地とはいえない。人口が最も多いのは千倉地区で、合併前まで警察署が置かれるなど外房側地区の中心地であるが、内房側の各地区や三芳地区から見た場合に中心地とはいえない。よって南房総市は、特に商業、医療などで館山市へ大きく依存し、合併前から当市全域が館山都市圏に属する。和田地区は鴨川市との結びつきも強い。

(この項、「Wikipedia」より)

南房総市のいま

  • 人口34,759人
  • 世帯16,947世帯
  • 男性16,685人
  • 女性18,074人

[2024年2月1日現在]

                   (「」HPより)

                            (「千葉県」HPより)

                          (「国土交通省」HPより)

菜の花が満開。

                 

すれ違った散歩中の地元の方から「桜が咲いて見事ですよ、ほら、あそこの高台。行ってみて下さい。この先を右に曲がって踏切を越えると、すぐですから。」と。

さっそく寄り道をします。

道の脇には桜が満開。「寒桜」。

        「黒滝―花嫁街道 ←ハイクコース→」。

踏切の手前にも桜並木。

                           左奥の丘には満開の桜。

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JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その1。特急「新宿わかしお」・「新宿さざなみ」。「南房総江見」。内房線の鉄橋。片草鞋・「綱吊り」=「道切り」。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

2024-02-08 18:25:32 | 房総東往還

1月27日(土)晴れ。いよいよ「房総東往還(伊南房州通往還)」最終日となりました。

途中、旧道を歩くだけではなく、タクシーを利用したり、バスに乗ったり、省略したところもあったりして、・・・。

それでも、11月初めから1月末まで、何とか冬の間に終えそうです。

《往路》船橋~安房鴨川(「新宿わかしお」7:25―9:36)

※その名の通り新宿駅始発。秋葉原や錦糸町を通り、船橋にも停まります。

(「安房鴨川駅」にて)

            

~江見~南三原―(バス)―館山 

※9時50分に着いた「江見駅」から「南三原駅」までは歩き。

《復路》館山~船橋(「新宿さざなみ」16:02―17:39)※この列車も新宿駅が終着駅。

(「館山駅」にて)

※今回も「大人の休日倶楽部」利用で、乗車券・特急自由席を合わせ、3割引き。

4月からは、房総半島を行き来する特急列車の自由席がなくなり、指定席のみとなるようです。その前に、というわけ。

さて、

「江見駅・江見郵便局」に下車。郵便局は閉まっています。

     「南房総江見」。

旧道に復帰します。

海方向。遠くに水平線が。

左に折れます。

洲貝川。

         内房線の鉄橋。

河口(海)方向。

しばらく進み、「国道128号」に合流します。

バス停「野田」。

「HOTEL MAKAI」。

                    ハワイアンリゾートホテル。

                   (「同」HPより)

「一期屋」。

              閉店したようです。

国道から右の旧道に入ります。

ふと左の柱に※「綱吊り」=「道切り」の一種、片草鞋が吊るされています。

地元の方にお聞きしたら、「最近は、新型コロナとかインフルとかがはやっているので、その侵入を防ぐために吊るしてある。昔からの慣習です。でも、最近は、草鞋を編む人もいなくなって・・・」と。

「道切り」の現物を初めてみました。この先の道中では、気づきませんでした。

その集落内を進みます。 

この付近の今昔。

                 現在の国道128号線は海岸沿いを通っている。(「今昔マップ」より)

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2月3日(土)。隅田公園・梅めぐり散歩道。ほぼ満開の梅。メジロ。ユリカモメ。

2024-02-06 20:21:27 | 向島百花園

雪模様の東京。昨日は、近所の高校も早めに下校させていました。

それよりも昨夜の雷。雪が降っている中で雷鳴が轟きました。こんな自然現象が起こるのでしょうか?

ビックリしました。

さて、

2月3日(土)、向島百花園から隅田公園(浅草側)へ、と歩いた時の記録を。

今日のお天気とは打って変わった日差し。

ここは、満開の梅も目立ちます。

   「東京スカイツリー」。

               

         

                      

梅の花を求めて「メジロ」が来ていました。

  

「隅田川」。

ユリカモメ。2羽が羽を休めています。

例年よりも少ない印象。

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2月3日(土)。向島百花園。梅も咲き始め、訪問客もちらほら。べにちどり・しろかが・ひとえかんこう・とうばい・・・。

2024-02-05 18:29:20 | 向島百花園

午後から雨から雪に変わりはじめた、今日の東京。2,3日前の陽気が嘘のよう。

夕方には、道路にも積もり、それでも雪が降る中を自転車に乗る人もけっこう多く、慎重な運転で。

そういう外のようすを窓越しに眺めながら、

2月3日(土)を思い返して。

この日は、朝から風は冷たいが、まあまあのお天気。さっそく「向島百花園」へ。

梅はどのくらい開花しているでしょうか?

門脇の梅。白加賀と一重寒紅。

手前の公園には、「八重寒紅」が満開。

「道知辺(みちしるべ)」。

園内の梅の満開は、まだまだ先のよう。「紅千鳥」。

この「白加賀」は満開間近。

「八重寒紅」。

日当たりなどによっても、開花時期が異なるようです。

山茶花。

「東京スカイツリー」。

「唐梅」。

日だまりと梅を求めて三々五々訪れる人々。

「うめ(月影)」。

「梅まつり」は2月10日(土)から始まります。その頃には満開になっているでしょうか?

明日、明後日の雪予報の寒さがどう影響するか? さて。

「隅田公園」の梅の咲き具合は、はたして? 隅田川・桜橋を渡って、浅草側に足を伸ばしてみました。

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立春。2月4日。飛び梅・菅原道真。春一番・キャンディーズ。春告鳥・ウグイス。雪解け・一茶。早春賦。そして、ソウタ。

2024-02-04 19:57:33 | 二十四節気

唐梅。 

旧暦では、一年のはじまりは立春からと考えられていました。

「二十四節気」も「立春」から始まります。そのため、節分や八十八夜など、季節の節目の行事は立春を起点として定められています。

立春の今日。東京地方は、朝方の冷たい雨も止みましたが、すっきりしないお天気。日本海側は大雪。東京も、明日は大雪の可能性もある、とか。

かし、梅の花が咲き始め、徐々に暖かくなり、春の兆しがところどころで見られます

※今年。暖冬の影響で桜や梅、桃などが既に咲いた地域もあります。

「七十二侯」では、

・初侯 2月4日〜2月8日頃 東風解凍 はるかぜこおりをとく

暖かい春の風が、冬の間張りつめていた氷を解かし始める頃。

春先に東から吹いてくる風を「東風」といいます。東風は「こち」とも読みます。

「東風」というと、「天神様」として祀られる、菅原道真の歌。道真が太宰府に左遷されたとき、邸の梅の花に別れを惜しんで詠んだと伝わっています。

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ(『大鏡』)

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな(『拾遺和歌集』)
 
※飛梅伝説
梅を愛した菅原道真が左遷で都(京都)から太宰府に送られる際、上記の歌を詠んだところ、梅が道真を慕い、一晩で飛んできたというもの。
 
菅原道真は平安時代に活躍した貴族・政治家・学者。醍醐天皇の時代に右大臣まで出世したが、その才能を恐れた左大臣たちに濡れ衣を着させられたあげく、罪人となり、太宰府という地方行政機関で謹慎し、そのまま都(京都)に戻ることなく生涯を遂げる。

その後、道真が亡くなった後、都(京都)では次々と不幸な出来事が起こり始める。疫病が流行ったり、清涼殿に雷が落ちたり、道真の左遷に関わったとされる者たちが次々と亡くなった。当時の人々は「これは道真公の祟りだ」「道真公の怨霊だ」と考えるようになり、畏怖の対象とされるように。

そこで、「菅原道真公の怒りを鎮めるためにお祀りしよう」ということになり、雷を落としたことから「雷神」、「天神」と信じられるようになった。

道真が亡くなった場所にお墓をつくり、そのお墓を祀っているのが現在の太宰府天満宮(福岡)。左遷されたまま都に戻れなかった道真を鎮魂するという意味で祀っているのが北野天満宮(京都)。

時が経ち、人々の記憶から道真の祟りや怨霊のイメージが薄れる一方で、道真は京都で高名な学者だったことも知られており、左遷後も自分の運命を受け入れて勤めに集中したといわれている。山の頂上に登って7日間篭りながら、自分を陥れた者たちへの恨みではなく「世の幸せと自分の無実を訴えるために祈り続けた」というエピソードも広まる。

そのため「恐ろしい祟りの神」から、少し少しずつ「学問の神」としての信仰へと変わっていった。

(この項、「・なぜ菅原道真公は学問の神様に。亀戸天神社の禰宜(ねぎ)である大鳥居さんにお話をお聞きすることができました」参照)

春一番」も、春の到来を告げる風。

春一番は、その年の立春から春分(今年は3月20日)までの間の最初に吹く、強い南風です。風を生ぬるく感じるほど、気温が上昇するのも、春一番の特徴です。
 
「春一番」というと、キャンディーズの歌声が浮かんできます。
 
 
               (「youtube」より)
                
 
穂口雄右作詞・作曲
 
雪が溶けて川になって 流れてゆきます
つくしの子がはずかしげに 顔を出します
もうすぐ春ですね ちょっと気取ってみませんか
風が吹いて暖かさを 運んで来ました
どこかの子が隣りの子を 迎えに来ました
もうすぐ春ですね 彼を誘ってみませんか
泣いてばかりいたって 幸福(しあわせ)は来ないから
重いコート脱いで 出かけませんか
もうすぐ春ですね 恋をしてみませんか
 
 
・次侯 2月9日〜2月13日頃 黄鶯睍睆 うぐいすなく

「ホーホケキョ」と、ウグイスが馴染みのある美しい鳴き声で、春の到来を告げる頃。ウグイスには「春告鳥」という異名があります。その年初めて鳴くことを「初音(はつね)」といいます。

『源氏物語』初音の巻に明石の君から姫君に寄せた歌があります。

年月を松にひかれて経る人に今日鴬の初音聞かせよ

  長い年月、姫君の成長を待ち続けている私に、今日はせめて鶯の初音を聞かせてください(お便りを下さい)。

※その年に初めて聞く「夏告鳥」=ホトトギスの鳴き声は、「忍音(しのびね)」。

江戸時代には、鳴き声から「法、法華経」と聞きなされ、「経読鳥(きょうよみどり)」という異名もつけられました。

ところで、「梅に鶯」という言い方がありますが、「梅にウグイスが来る」ということではありません。梅は春の訪れを告げるように咲き、ウグイスは春の訪れを告げる鳥として共に親しまれました。この二者は待ちわびた春の訪れを告げる理想的な取り合わせなのです。そこで、万葉の昔から「梅に鶯」の組み合わせを歌に込めました。

: 梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林に鴬鳴くも

: 春されば木末隠りて鴬ぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に

: 鴬の音聞くなへに梅の花我家の園に咲きて散る見ゆ

: 我がやどの梅の下枝に遊びつつ鴬鳴くも散らまく惜しみ

これらの歌は「梅にウグイスが来る」という内容というふうにとらえられますが、実は、ウグイスは鳴き声は聞こえるが、姿を見せることはほとんどない鳥です。

実際、梅の花の蜜に寄ってくるのは、メジロです。「向島百花園」でたくさん梅の花にとまっているのを見たことがあります。2019年2月。

鶯色をした小鳥がたくさん集まっています。メジロ。

      

                      写真は「Wikipedia」より借用)  

鶯は、ふみなどにもめでたきものにつくり、聲よりはじめてさまかたちも、さばかりあてにうつくしき程よりは、九重のうちになかぬぞいとわろき。人の「さなんある」といひしを、さしもあらじと思ひしに、十年ばかりさぶらひて、ききしに、まことにさらに音せざりき。さるは、竹ちかき紅梅も、いとよくかよひぬべきたよりなりかし。まかでてきけば、あやしき家の見所もなき梅の木などには、かしがましきまでぞなく。よるなかぬもいぎたなき心地すれども、今はいかがせん。夏・秋の末まで老いごゑに鳴きて、「むしくひ」など、ようもあらぬ者は、名を付けかへていふぞ、くちをしくくすしき心地する。それもただ、雀などのやうに常にある鳥ならば、さもおぼゆまじ。春なくゆゑこそはあらめ。「年たちかへる」など、をかしきことに、歌にも文にもつくるなるは。なほ春のうちならましかば、いかにをかしからまし。

(『枕草子』「鳥は」より)

あらたまの 年たちかへる 朝より 待たるるものは 鶯の声  素性法師

※去年初春、都県境歩きをしている時、川崎市麻生区でウグイスの姿を発見、鳴き声を聞きました。

      電線上のウグイス。

春を告げるものには、鳥のほか、魚などもあります。たとえば「春告魚(はるつげうお)」はニシン(地方によっては、メバルなど)。

昔、ニシンは春になると産卵のため大量に浜へ押し寄せることから、“春告魚”と呼ばれていました。その姿が消えてからおよそ半世紀が経ちましたが、ここ何年か「ニシンふたたび!」、「資源の復活か?!」といった文字や言葉を見聞きするようになってきました。

しかし、近年の漁獲の盛期は冬で、春になるとニシンは姿を消してしまいます。なぜ、“春告魚”が“春去魚”となったのでしょうか?

それは、昔のニシンは「北海道サハリン系群」と呼ばれるグループであったのに対して、近年になって獲られるようになったのは「石狩湾系群」というグループであるためです。(系群とは、それぞれ異なった生態を持つグループで、別々に増減します)

つまり、この2つのグループは、産卵のために沿岸へ来遊する時期が異なるのです。

4~5月に沿岸にやってくる北海道サハリン系群は、回遊の範囲がとても広く、その分大きな資源になることが出来ます。

これに対して、2~3月に沿岸にやってくる石狩湾系群は、回遊の範囲が宗谷湾から岩内湾に限られているため、それほど増えることができません。近年の漁獲量は2千トン前後ですから、残念なことに、今回の“復活”では、昔ほどの大豊漁(最高で97万トン)となることは難しいようです。

(この項、「道総研」HPより)

・末侯 2月14日〜2月18日頃 魚上氷 うおこおりをいずる

春の暖かさで湖や川の氷が割れ、氷下で泳いでいた魚が氷の上に跳ね上がる頃。

※春になって、積もっていた雪が解(と)け始めることが「雪解(ゆきどけ)」。
雪解は、特に北国の人たちにとっては、たいへん待ち遠しいものです。

雪解というと、小林一茶の句が。

雪とけて村一ぱいの子ども哉(かな)

50歳で永住を覚悟し、故郷・信濃国柏原(現在の長野県信濃町)に帰ってきた時の句。
 
暦の上では春を迎えていても、雪国ではまだまだ寒い日が続く。
しかし、降り積もった雪が少しずつ解けはじめて、ようやく春の気配を感じることができる日がやってくる。冬の間、じっと家の中で過ごしていた子どもたちがいっせいに飛び出し、今までどこにこんなにたくさんの子どもがいたのか、と。
 
それでも、これから先は、寒の戻りはあっても、「冬来りなば春遠からじ」あるいは「冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかず、みず、冬の秋とかえれることを。」とあるように、春の到来、ぬくもりを感じる日も増えてきそうです。
 
そういえば、次第に日が落ちる時間が遅くなってきたような。帰宅時。西に傾く陽を浴びて影が長く伸びるようになってきました。
 
「早春賦」も忘れてはならない名曲です。
 
「早春賦」は、1913年(大正2年)に発表されました。吉丸一昌(よしまる かずまさ)作詞、中田章作曲。

 長野県大町市から安曇野一帯の早春の情景をうたった歌とされ、旧制長野県立大町中学(長野県大町高等学校の前身)の校歌の制作のために訪れた吉丸が、大町、安曇野の寒さ、そして春の暖かさを歌った歌です。
 題名の「賦」とは漢詩を歌うこと、また、作ることをいいます。

春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

氷解け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か


 作詞の吉丸一昌は、東京府立第三中学校(現両国中高校)教諭(当時の教え子の中には芥川龍之介もいた)の経験もありました。その関係で、今も歌い継がれている「東京府立第三中学校・両国高校」の校歌(石原重雄作曲)を作詞しています。
 
そして二十四節気の2番目が「雨水」。2月19日(月)です。
 
ところで、今日のソウタ。さて、顔はどこでしょうか?
 
         ???
 
こっちは、あんず。コタツの中。
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節分。2月3日。追儺(ついな)・鬼やらい。豆まき。鬼ごっこ。柊鰯。恵方巻き。

2024-02-03 20:28:55 | 世間世界

梅の花が咲き始めています。(「向島百花園」正門横)

          しろかが。        ひとえかんこう。

 2月3日は「節分」。そして、明日は「立春」。

東京地方、2月1日は、3月下旬並みの暖かさ。あちこちで桜が開花。しかし、昨日の午後からは一転、大陸からの強い寒気の影響で、2月らしい厳しい寒さが。そして、今日は風もなく、穏やかな天気。しかし、明朝は雪模様になるとか。目まぐるしく変わる2月初めのお天気です。

日本海側や北海道は、寒波の影響で猛烈な吹雪。交通や水道等、日常生活にもそうとう支障をきたしているようです。大地震に見舞われた能登半島地域は、まだまだ厳しい冬が続きそうです。

さて、

「節分」とは「季節を分ける」という意味。そのため、季節の変わり目として二十四節気の「立春」・「立夏」・「立秋」・「立冬」の前日が節分となります。したがって、「節分」は春・夏・秋・冬ごとに4日あったわけですが、その中でも春は新年の始まりでもあることから、「節分」というと、立春の前日を指すようになりました。

古代中国で行われていた疫病を追い払うための「大儺(だいな・たいな)」という儀式が日本に伝わって、「追儺(ついな)」として宮中の年中行事として定められ、新年の前日である大晦日(旧暦12月30日)に行われるようになりました。

追儺は「鬼やらい」とも呼ばれ、お面をかぶって衣装をつけ、神に扮した方相氏(ほうそうし)と呼ばれる役目の人が、目に見えない邪鬼を追い払うという行事でした。

※「儺」という字には「はらう」という意味がある。

 平安時代の末になると、追儺の行事が変化し、それまで鬼を追い払う役目だった方相氏が、逆に鬼に見立てられて、群臣らに追い出されるようになりました。

その後、豆を投げることが追儺に取り入れられて、「鬼は外、福は内」と唱えるようになったようです。

さらに時代が下って、現在のように立春の前日(節分)に行うようになりました。

※「立春」と「元旦」とは一致しない。今年、旧暦の元旦は、2月10日(土)。

豆を投げるようになったのは、「魔を滅する=魔滅(まめ)」からだとも、 また、「魔物の目をめがけて豆を投げれば、魔を滅ぼす」ことから、「魔目(まめ)」=「豆」とも言われています。さらに、炒った豆を使うのは「射る→炒る」という語呂合わせから、と。

現在の節分の豆まきには、大豆を用いることが一般的です。

民俗学では、現在の「鬼ごっこ」の起源が、この追儺・鬼やらいにあるといわれています。

 節分の日には、豆まき以外にも、炒った豆を神社やお寺に納めて無病息災を願ったり、厄除けのために炒り豆を食べたり、最近ではあまり見かけませんが、焼いた鰯(いわし)の頭を柊(ひいらぎ)の小枝に刺した「柊鰯」を門口に飾って邪気を追い払う風習があります。

柊鰯

柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないという(逆に、鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすとも説明される)。

奈良県奈良市内では、多くの家々が柊鰯の風習を今でも受け継いでいて、ごく普通に柊鰯が見られる。福島県から関東円にかけても、今でもこの風習が見られる。

(この項、「Wikipedia」より)

紀貫之の「土佐日記」(平安初期)には、

元日、なほ同じとまりなり。・・・おしあゆの口をのみぞ吸ふ。このすふ人々の口を押年魚もし思ふやうあらむや。今日は都のみぞ思ひやらるゝ。「九重の門のしりくめ繩のなよしの頭ひゝら木らいかに」とぞいひあへる。

※「なよし」=ボラ(鯔)。「ひゝら木」=ヒイラギ(柊)

とあるように、相当古くからの風習のようです。「鰯」ではなくて「鯔」だったようですが。

この風習に由来する言葉で、「鰯の頭も信心から」というのがあります。「一旦信じてしまえば、どんなつまらないものでもありがたく思えるということ」。かなり皮肉交じりの成句ですね。

平安・鎌倉から長く続く「節分」の風習は、その中身が変化しつつも残したい行事の1つです。

「追儺より四方拝につゞくこそ、面白しろけれ。晦日の夜、いたう暗きに、松どもともして、夜半すぐるまで、人の門叩き走りありきて、何事にかあらん、ことことしくのゝしりて、足を空にまどふが、曉がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年のなごりも心細けれ。亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都には無きを、東の方には、猶することにてありしこそ、あはれなりしか。」(『徒然草』第19段)

「尹大納言光忠卿、追儺の上卿を勤められけるに、洞院右大臣殿に次第を申し請けられければ、「又五郎男を師とするより外の才覚候はじ」とぞのたまひける。かの又五郎は、老いたる衛士の、よく公事に慣れたる者にてぞありける。」

(『同』第102段)

・・・

 また、近年、節分に恵方(今年は「東北東」)を向いて「太巻き」を丸かじりすると、願い事が叶い、無病息災や商売繁盛をもたらすという行事がはやっています。

これはもともと大阪、関西地方で行われていたもの(らしい。起源は定かではない)が、広島県の某コンビニ店で「恵方巻き」と名付けて売り始め、さらに他のコンビニでも大々的に宣伝、販売されるようになって全国に広まった、とか

「恵方巻き」は、かなり売れ筋の商品となり、コンビニのヒット作になったわけです。他のスーパーなどでも盛んに売られています。

ただ、食べきれないで廃棄したりなど、「食品ロス」が問題になりました。

最近は、予約制などしているようですが、今年ははたしてどうか? 

このところの大幅な物価値上げ。巻物の中身にも、影響が出ているようです。

当方。ささやかな豆まきとささやかな数の豆を食べることにします。

鬼夜叉」(新潟県佐渡市・北雪酒造)神保町の酒屋さんにて。 

※ラベルを逆さにすると鬼の貌から仏の顔になるとか。                  

そして、いよいよ明日は、「立春」。

「向島百花園」。

今年の「梅まつり」:2月10日(土)~3月3日(日)

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JR内房線「安房鴨川駅」~「江見駅」。その9。フェニックス。内房線「江見駅」・「江見駅郵便局」。郵便列車「クモユニ74012」。(「房総東往還」を歩く。第9日。)

2024-02-01 20:24:32 | 房総東往還

右折すると、「江見駅」。その角にあるおうち。

南国風の大木。フェニックス(Phenix)カナリーヤシ :

古代エジプトの想像上の鳥で、不死鳥と訳される。フェニックスはアラビアまたはフェニキアに住み、史実タキトゥスによれば、500年毎に太陽の都ヘリエポリスを訪れ、生命の終わりが近づくと香木を山と重ねて火をつけ、自らを焼き、たえなる歌声とともに死に至るといわれている。そしてその灰の中から蘇るのが次代のフェニックスであり、同時に二羽のフェニックスはこの世に存在しない。

ギリシア語のフォイーニックスは、フェニキア、紫、ナツメヤシの三つの意味を持つ。そこで、生地はフェニキア、王者の色としての紫の色を身にまとうといい、勝者のシンボルとしてのナツメヤシと同一視される。

「江見駅」・「江見駅郵便局」。

  • 2019年令和元年)7月1日:鴨川市への乗車券類販売委託(簡易委託)を解除し、終日無人化
  • 2020年(令和2年)8月31日郵便局と一体化した駅舎に建て替えると共に、江見駅郵便局(日本郵便)に乗車券の販売や列車の案内業務等を委託
  • 2021年(令和3年)4月27日:農産物集荷場「JRE農業ステーション江見駅」を開設

日本郵便が駅業務を受託している安房鴨川駅管理の業務委託駅。平日の郵便局営業時間内は当駅舎内にある江見駅郵便局が駅業務の取扱を行なっている自動券売機は設置されておらず、ICカードチャージ機、簡易Suica改札機、乗車駅証明証発行機が設置されている。また駅舎(局舎)内にはゆうちょ銀行ATM水洗式トイレ(男女別)が設置されている。

  • 2018年(平成30年)6月12日:「日本郵便とJR東日本の地域・社会の活性化に関する協定」に基づき、当局業務と江見駅窓口業務の一体的な運営を開始すると発表。郵便局が駅業務を請け負うのは当局が全国初の事例である
  • 2020年令和2年)8月31日:江見郵便局が当駅舎内に移転し、江見駅郵便局へ改称

駅内(局内)。

左にある棚・窓口が江見駅。

郵便ポスト。  

かつてあった郵便列車「クモユニ74012」をモデルにした、とのこと。

クモユニ74形 

1962年(昭和37年)に登場した日本国有鉄道(国鉄)の郵便荷物合造電車である。

1950年(昭和25年)の東海道本線東京口の客車列車電車化により湘南電車80系が投入されるのに合わせて、80系と連結する鋼製郵便・荷物電車としてモユニ81形(1959年の称号改正後はクモユニ81形)が登場していた。1962年には同線区の新性能化により近郊形電車111系が投入されることになったが、クモユニ81形では111系との併結が不可能なため、111系と併結可能な新たな郵便荷物電車が必要となった

当初は111系をベースとした新性能郵便・荷物電車(クモユニ111形)を新製する案、また当時101系の投入で余剰となっていた72系の車体に乗務員室や側引戸を新設する案が検討された。しかし前者は1M方式の主制御器などを開発する必要があったこと、後者は種車の台枠の老朽化が著しく亀裂などの兆候も見られたことから、最終的には72系の台枠を補強して全金属製車体を新製することになった。このような経緯から登場したのが本形式である

クモユニ74形は他線区の郵便・荷物輸送の電車化にも投入され、線区による併結車種の違いから東海道本線東京口用の0番台、名古屋地区用の100番台、東北・高崎線用の200番台に区分された

(この項、「Wikipedia」より)

歴史

起源については、明治時代鉄道開業初期にまでさかのぼるといわれており、正式な開始は1872年(明治5年)6月13日となっている。当初は単に郵便物を運ぶための手段であったが、1892年(明治25年)には、専用の車両が作られ、車内で郵便物の仕分けなどを行うようになる。以来、全国に郵便車が走り、東京駅上野駅大阪駅など主要な鉄道駅では郵袋(行き先別に仕分けした郵便物を収納した麻袋で、「票札」というあて先郵便局のタグがついていた)、小包の積み下ろし作業が行われ、各地に郵便物を運んでいた。郵便車は各鉄道郵便局の職員が乗り込んで、郵便局としての機能の一部を持ち、車体側面に設けられた投函口[注 2]と駅のポストに投函した郵便物では、あて先方面に向かう郵便車内で消印が押されることが多かった。この消印を「鉄郵印」と呼ぶ。

専用の郵便車は、戦前は逓信省、戦後は郵政省が所有していたが、荷物車あるいは座席車またはその両者との合造車も多く存在し、合造車の場合は国鉄など鉄道事業者が所有していた。車種としては客車が多かったが、クモユ141形電車など電車気動車にも存在した。郵政省の予算で製造するため国鉄の車両より設備がよく、特に車両冷房については同時代の旅客車両よりもいち早く取り付けられたものが多かった[4]。これは、車内で作業する職員の発汗による郵便物の汚損を防止するという目的があり、その構造上窓が少なく郵便物が飛ばされてしまう可能性があるため開閉式の窓も取り付けられず、前述の発汗によって水性インクで書かれた宛先が滲んでしまい判読不能(=配達不能)が相次いだことから冷房装置の取り付けが必須であったという背景もある。

鉄道郵便には主に3つの種別があり、職員が郵便車内で郵便物を区分けし集配最寄駅で郵袋、小包を積み下ろしする取扱便、職員は乗務するが区分け作業を行わず集配最寄駅で郵袋、小包を積み下ろしするだけの護送便、職員が乗務せず施錠したまま郵袋、小包を運ぶ締切便に分けられていた。

鉄道郵便車を使った輸送は、戦後の1970年代まで国内の郵便輸送の主役で、幹線や亜幹線に郵便車を連結した列車が多数運行されており、郵便局の立地も鉄道輸送に対応していた。例えば東海道本線では神戸方(下り)の先頭に郵便車が連結されたため東京・名古屋・京都・大阪の各中央郵便局はそれぞれの駅前の神戸方に立地しており、郵便車での受け渡しが便利なようになっている。

郵便番号体系も鉄道輸送を前提とした設計がなされ、今も一部にその名残がある。事例としては、田原本局奈良県磯城郡田原本町)が王寺局(同北葛城郡王寺町)より分岐した枝番になっている、愛知県北設楽郡豊根村富山(旧富山村)は静岡県浜松市天竜区の水窪郵便局の枝番で現在でもJR飯田線を経由し集配を行なっている、小牛田局宮城県遠田郡美里町)から古川局(同大崎市)へ分岐していた、などがある。

1971年昭和46年)をピークに飛行機高速道路網の発達でシェアを落とし、1984年(昭和59年)1月末を以て取扱便の休止、1986年(昭和61年)9月限りで残されていた護送便・締切便も休止となり、郵政省が所有していた鉄道郵便車は廃車された。これにより郵便車を使用した鉄道郵便輸送は全廃となり、コンテナ締切便(当時は全国で14便)が残るのみとなった[5]。郵便輸送全廃に伴い廃車となった郵便車のなかには、郵政省所有だったため転用が利かず、クモユ143形や一部のスユ15形の様に製造から4年しか使われなかったものもある。郵政省としても自省の国有財産を鉄道車両だからといって無償・格安で国鉄に譲渡するわけにはいかず、国鉄も翌年に分割民営化を控えており、特定地方交通線や荷物輸送の廃止などで車両が大量に余剰となっていた時期である。また、転用に際しては扉や窓の増設、座席や冷暖房装置の取り付けなど多額の改造費がかかるため、国鉄も引き取るメリットが存在しなかった[注 3]

なお、その後の事情の変化(瀬戸大橋青函トンネルの開通など)により、2009年平成21年)現在では日本貨物鉄道(JR貨物)のコンテナ貨物列車によって、航空禁制品[6]ならびに特に速達性の要求されない郵便物が鉄道輸送されている[7]。また、宅配便業者の一部は貨物鉄道を使用しており、佐川急便日本貨物鉄道(JR貨物)によるスーパーレールカーゴのようなチャーター便も存在している。

2006年(平成18年)、新越谷郵便局(旧:郵便事業新越谷支店)が鉄道コンテナ輸送の利便性を考慮して越谷貨物ターミナル駅の至近に開局し、その立地を生かして2007年(平成19年)以降は冊子小包等の大量差出の引受を担当している。

内房線、外房線各駅で見かけるポスター。

こ線橋から。右に駅舎・局舎。

駅の西側には山並みが。

        

  内房線下り線ホームにて。

駅と郵便局が一体化している、JRとして全国初(唯一)の「江見駅郵便局」を訪れたのは、ラッキーでした。

ただ、郵便局の受付には10人ほど来ていましたが、駅の乗客は小生1名でした。

次回は、「江見駅」から「南三原(みなみはら)駅」まで歩き、そこから館山まではバスで移動しようと、・・・。

そうすれば、「伊南房州通往還(房総東往還)」を終了、船橋~館山の「房総往還」と結びつくことになります。

             

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