圓朝はデビューから鳴り物入り道具仕立ての芝居噺で人気者となる。庶民としては芝居見物よりお手軽に芝居を観た気になれる。歌川国芳の内弟子となり画工修行もした圓朝は舞台に配す背景の画を自ら描いた。さらに役者の声帯模写が評判だった。そのレパートリーの中には河原崎権十郎時代の“劇聖”九代目團十郎があったという。色めき立つ私。 後の井上肇邸での團十郎、菊五郎の天覧歌舞伎には圓朝も出席している。平行して読んでいる数種の圓朝伝にはまだこの二人の関係は出て来ないが、圓朝は芝居にコンプレックスを持っていた、という説は目にした。芝居噺の旗揚げより14年後に弟子に道具を譲って素噺に転向するが、圓朝は芝居というより團十郎をライバル視していたのではないか?お互いリアリズムを追求し、新たな境地を追い求めた。生年を調べてみると圓朝(天保10年1839年4月1日)團十郎(天保9年10月13日)。男はいい歳して学年でいうと俺の方が、などとよく口にするが、これはあまりにも近い。
アートスケープ 展評『深川の人形作家 石塚公昭の世界』
HP