芭蕉庵は当初の予定よりサイズダウンしたことにより、古池まで作ることができそうである。思ったイメージで作れるのかは、まだ判らないが、作ったことがない物は常にこんな調子であり、お馴染みであって、どうということはない。東屋などを建てている映像など観ているが、実際と違い、屋根は後回しにするべきであろう。 さっそく金魚飼育が役にたった。庵と芭蕉の樹、古池を独立して作り、現場の状況に合わせレイアウトを変えられるようにするつもりだが、その間を鑑賞魚用の砂、小石、各種で埋めようと考えた。池は樹脂を使おうと考えているが、庵をちょっとでも高くして、周囲を砂で埋めて隠せば、池を少しでも地面より低く見せられる。催事により、設置場所を変える場合にも状況に合わせてレイアウトを変えればよい。砂の掃除は必要となるけれども。我が家の水槽は砂を使っていないが、入れようか、と各種の砂を見ていたところであった。掃除を考えて、入れるのは止めたが。 これで、寒山拾得制作に向け、金魚を眺め暮らす、という自分でも良く判らない奇策に対しての罪悪感がちょっと減った。こういう屁理屈を重ね、二年後の個展会場では、始めからこうなることを計算して金魚を眺めていたのだ、計画通りである。という顔をする予定である。 新潮社の森鷗外作品の朗読CDの中の『寒山拾得』を聴きながら水槽を眺めた。金魚により役割が決まっているので目で追いながら聴く、これは想像以上に面白い試みである。勝手に泳ぎ回る寒山や拾得を眺めながら、朗読に合わせて、想像力でこちらが脳内に物語を描いて行く。私という特殊な想像力による変換装置をお貸しできない以上、あまり他人様にはお勧めしない鑑賞方法だが。
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