明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



鈴木春信の浮世絵は、典型的な日本的遠近法を用いて描がかれている。それは人物がデフオルメされているからこそ可能である。先日も書いたように、人物像だけがリアリズムでは、そうはいかない。しかし寒山拾得のような、架空の人物であれば、実在した人物のように、その実像を追求したり、ご遺族に気を遣うこともない。 私は最初にジャズ・ブルースシリーズ写真を発表した翌年に、作家シリーズに転向した。その第1回個展で、江戸川乱歩の『帝都上空』と澁澤龍彦の背景に配したクラナツハのヌードで、すでに、写真撮影のみで成り立つ造形を試みている。気球にぶら下がった乱歩は、極端な遠近感を付けて制作してあり、それをさらに広角レンズで撮った。あるポイントからしか撮影は出来ない。実際の形はというとエレファント・マンのジョン・メリツクどころでなく、そのままでは展示は出来ない。これはレンズの描写云々が及びのつかない効果を示し、被写体を自ら制作するからこそ可能な芸当であり、最初期にして、すでにその個展のタイトル『夜の夢こそまこと』を具現化していたことになる。 地方に赴任することになっている官吏であるは頭痛に悩まされていた。そこへ旅の僧である豊干が現れ、口に含んだ水を頭に拭きかけると、たちどころに頭痛は収まる。豊干が通された部屋は、当然中国風な室内な訳だが、それ自体が逆遠近法をもって作られていたらどうか?窓も、飾られている壺も、すでに歪んでいる。それを狙うレンズは、天井が存在していないかのような位置から、かつて何百年も日本人が描き続けてきた斜め45度上空からのアングルから撮影する。芭蕉あんの制作なんてことが頭にあるから、無茶なことを思い付く。 こういつては差し障りもあろうが、毎日ひたすら座りっぱなしで何かを創作する人は、多かれ少なかれマゾヒズムを抱えているものである。しばしば痔に苦しみながら。私は幸い、そちらの苦しみは無縁だけれども、長年面倒なことを思い付いては自分の首を絞め続けているのであった。


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