明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



寒山拾得に関しては、寒山詩にも踏み込まなければならないが、やはり序文の面白さである。最後ゲラゲラ笑いながら去ってしまう寒山と拾得。置いてけぼりにされるのは、作中の閭丘胤だけではない。この後味こそが寒山拾得である。数年前、三遊亭圓朝が眠る谷中の全生庵の圓朝旧蔵の幽霊画公開のおり、巨匠連の幽霊画像と共に私の圓朝像を展示させていただいた。余談であるが、記念に展示姿を撮影させていただいたのだが、期間中、幽霊画のなにかを吸い込んだか、ソニーのα7はピントは合わない、露出もヘン、1カットも、まともに撮れなかった。私自身も、急にカメラの扱いが判らなくなった。搬出の際、全生庵が臨済宗の禅寺だと初めて気が付き、これは寒山拾得をやれ、ということか、と玄関先で対応いただいたお坊さんにいずれ寒山拾得を制作しますと、口走っていた。いっそのこと座禅会にでも参加して住職に教えを請いたいところだが、肝心なことはあくまで自分の中から取り出した物で制作するのがルールである。 寒山と拾得は、実は文殊と普賢菩薩なのだという。金魚に名付ける人間いれば、会社に付ける人もいる、また原発に名付ける人さえいる。私は本来人間も自然物。その自然物が作ったといことでいえば蟻の作った蟻塚も人間の作った原発も変わりがないといえよう。だがしかし。自然物である私は、草木同様、へそ下三寸辺りから聞こえて来る声に従っていれば、頭で判らなくとも結果は必ず良い。頭を使って作った物にロクな物はない、と早々に気付いたからである。それは廃れて久しいオイルプリントを写真の素人である私が独学で実験を始め、周囲には反対されるし、何より私自身が人形も作らず何をやっている。とハラハラしていたが止められなかった。今はオイルプリントを手がけてはいないが、あの経験が有形無形、直接間接、今の私を作るためにどれだけ貢献しているか計り知れない。 余計な頭を使ってヘンな物を作らないように、今は金魚を眺めている。座禅するより楽で楽しい。

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