先日久しぶりに会った幼馴みは、昨年ころ鬱だった、という。真面目というのは万病の元とはいわないまでも、鬱の元ではあるだろう、知っている限り、そこはかとなく、こうあらねばならぬ、という何某かを皆抱えているように見える。いや、それは当然の話であって、むしろそれをまったく持たずに生きようという方が難しいことかもしれない。 私はというと先日のブログでバラしてしまったが、何が出来ない、苦手だ、不得手だ、という時、その後に(その代わり人形は作れる)というのがくっついていて。正確にいうと、その代わりというより“そのおかけ”と思い込んでいるので、自分を卑下しているようで、その実は笑っている、という、内緒にすべき演技プランをバラしてしまった。最も、読者数を考えると、影響ないだろうし、そもそも一般人には、それがどうした、という事柄であり、何故そんな事で笑っていられる。という話であろう。だからこそ私も内緒にしていた。欠点がすべて自分の利点に駆り出されている、と思い込んでいるお目出度い人間が、鬱になることは無さそうである。かつて植木等が笑いながら歌い演じた男と目出度さは変わらないかもしれない。私の世代は怪獣映画と2本立てで、必ずあの常に躁状態の奇妙なサラリーマンか、いつまでも大学に居残り続ける男を観ることになった。 寒山拾得は、芭蕉庵が完成するまでは、何もせず金魚をただ眺めるだけに留める。わずかな光量の星を観る時に、ピントの外れた目の端っこで観る方が見えるという。金魚を観ていれば、芭蕉庵が完成する頃には概要が見えているだろう。なんて何の確証もないのにいってるのも、お目出度いせいであろう。
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