急に気温が下がり、身体が気温変化に付いて行けてない。寝床から出る気が起きない。先日入稿した『タウン誌深川』には芭蕉庵制作にかこつけ、亡き父の話を書いたが、小学生の頃、母にいわれて布団から出て来ない父の掛け布団をカバッとはぎ取ったものだが、日頃叱られてばかりいる仕返しをしていた。寝坊している父が悪いのだ、と。一方、母に対するし返しは、家に来たセールスマンに、ウチにはあります、間にあってます。といっている母の背後から「それウチにないよ。」嘘を付いているのは母なので、叱られる心配はない。 昨日、寒山拾得のストーリーの中に、時折陰影の有る、アツプショットを差し挟むことを思い付いた。これはメリハリも出るし、リズムも生まれそうである。数千メートルクラスの深い山並みも、自分で作るつもりだが、本物の山も使いたいし、2、3年前に、谷崎潤一郎の背景にとんでもない価格の盆栽を配したことがあるが、これはもともと寒山の住まう山々に配したいがために撮影したものであった。自然を模倣する盆栽。まさに私の趣旨にピッタリである。虚実の配分、配合こそが私の盛り上がりどころである。寒山拾得は、ここぞとばかりに炸裂裂させることが可能なモチーフだろう。 ある時から、図書館で浮世絵、ある時代までの日本画ばかり眺めて、かつての日本人の自由さに憧れが生じた。十代の頃からの友人と、戻れるなら、今の経験を持って戻りたいよな、と良く話したが、私は今の状態のまま、維新前の日本人の末席に連なりたい。もし葛飾北斎親子に会ったなら悪いことはいわない、あんな野暮なもの取り入れるのは止めろ、晩節を汚すことになるぞ、と忠告してやりたい。
