岸田劉生の『麗子像』は寒山拾得の、いわゆるアルカイックスマイルに影響を受けているという。先日、同一画面に矛盾さえなければ良い。つまり、写真の特質を生かし、寒山と拾得の無気味な笑顔に、陰影を付けて撮るのも良いのではないか。 私の大リーグボール3号だ、石塚式ピクトリアリズムだ、とひとしきりはしゃいでみると、今だからこそ、素直に陰影を駆使出来るのではないか。それは、真を写すという写真に対して、何処か腹に一物持ったまま、長年撮っていた時とは違って一皮剥け、打開策を手に入れた今なら、素直に陰影と向き合えるのではないか。 写真的な、陰影を与えられた寒山拾得こそが、今まで存在していなかった。当然、寒山拾得が、絵画のモチーフであり、西洋的絵画表現に合うわけもなく、当然、写真のモチーフにもなり得なかった。という単純な話である。 そう思うと、もう少し早くここに至っていれば、無限のモチーフが与えられ、やりたい放題だったろう。やはり“人生は夏休みのバイトの如し、慣れた頃に夏休みは終わる”ということか。 だがしかしおかげで、いくらなんでも寒山拾得は、いきなり飛躍し過ぎだろう、という思いは消滅した。寒山拾得位で間尺が合うという気にようやくなった。