明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



寒山と拾得を作る前に、まずは豊干を作ろうと思う。色々な意味で基準になるだろう。とりあえずは頭部が出来れば、出来たも同然。放っておいて、次に誰かを作るも良し。普段、虎に乗っている豊干。虎をどうするか。数年前の、個展としては始めて石塚式ピクトリアリズムを披露した青木画廊に、かつて虎を見たことがなかった絵師の虎の味を出すために、近所のトラ猫を撮影し、顔のわずか一部に動物園の虎の模様を貼り付け『月に虎図』とした。唐突だと思いながら、その思い付きに我慢が出来ず出品したが、かなりなフライング。何でこの中に虎がいるんだ、という話しだが、思えばあの時には、寒山拾得にすでに向かっていたことになる。ただあの時点では、陰影を無くす、と言いながらも、つげ義春『ゲンセンカン主人』の女に、行灯の光を当てる誘惑抗しがたく、改宗したなら、すべてを改めるべきだ、という融通の利かなさで、身をよじって苦しんでいた有り様であった。今はというと、好き勝手やってるくせに、そんなことで悩むなんておかしいだろ、と欲望の赴くまま。一つの画面内に矛盾さえなければ良しとした。よって『三島由紀夫へのオマージュ椿説明男の死』では、市ヶ谷で11月の光が当たっていたり、弓張り月のように浮世絵のように陰影なかったり。 と今書いていて、寒山と拾得も、ポイントとなる、何らかの場面では、普通に陰影を表すカットがあっても良いだろう。例えば例の無気味な笑顔を寄せ合う二人のアップなど。

 

 



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それにしても今までずっと成り行き任せで行き当たりばったりで来たが、不思議なことに、誰かに仕組まれたような、何やら絵図を描く、客観的存在を信じそうになる。頭で考え企てたことが、ことごとく思い通りに行かず、熟慮の末に励んだことが無駄になる。何故だか理由が解らないが、やらずにはいられない衝動に任せると、そちらの方が必ず結果が良い。ということに気付いたのは幸いであった。以来、自分の衝動を信じることに決めた。何で寒山拾得なんだ?と未だに思っては?それいるのだが。 谷中の全生庵に、三遊亭圓朝旧蔵の幽霊画と共に圓朝像を展示して頂いた時、石塚式ピクトリアリズムの第1作が圓朝で、全生庵が、臨済宗の禅寺だと気付いた時、これは来たなと思い、対応の坊様にいずれ寒山拾得を手掛けると告げた。今年5月のふげん社の個展のトークショーでも、確信ないまま次は何を?の声につい寒山拾得と言ってしまった。 ふげん社は、寒山拾得の拾得が、じつは普賢菩薩である、というところから来ていると知る。こんな偶然はただ事ではない。一回目の『三島由紀夫へのオマージュ展男の死』の会場を探していた時、前年に紹介されて、会場を見に行っていた場所が、先代社長が、三島が事件に使用した刀“関の孫六”を三島にあげた人物だと知る。そこで大地震がおき、待たされたあげくに交渉すると、”何をやつても良いが三島だけは止めてくれ“といわれ、実現しなかったが。開催ギャラリーの偶然という意味では、ふげん社に匹敵するだろう。私なんぞが表層の脳で考えていたら、間違いなくこういうことは起きない。そこでひょっとして、と計算したら、初個展からちょうどきりの良い40周年であることに気付く。ここまで来ると、あまり驚かなくなって来る。



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