明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



数年前、図書館で何という目的もないまま、浮世絵や日本の絵を眺めてばかりいたが、昨日は出掛けたついでに図書館に立ち寄り、手にしたのはさらに古い時代の作品集であった。勿論寒山拾得図近辺の、中国から渡来した頃の物だったりしたが、数年前は興味は、ここまで古い作品にまでは至らなかった。想像力を持って、西洋文明に汚される前のかつての日本人の視線を取り戻すことは出来ないものだろうか。 小学生の頃、百科事典ブームがあり、我が家にも来た。これを私は独占し、中学にかけて一往復は読んだ。ボディビルの項には、貧弱な三島由紀夫の上半身、シャンソンの項が不自然に詳しかった記憶がある。別刊の美術でシュルレアリズムを知り、仏教美術も知ったのを図書館で思い出した。後にこの事典を編纂したのが『虚無への供物』の中井英夫だと知る。三島がモデルを頼まれ、こんな嬉しいことはなかった。という。三島の書斎の背後に写る百科事典は、これかもしれない。中井ファンは数多いだろうが、あの百科事典を私ほど熱心に読んだ人間はいないだろう。私にとって、まさにワンダランズの入り口であり、想像力のためのデスクトップを広げられるだけ広げて貰った。実際、世界を見歩いたところで、私の想像力を伴った、あんな世界がある訳がない。最晩年、最後にもう一度読み返してお開き、というのも悪くないような気がする。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





つい最近まで、あっち行ったりこっち行ったり、紆余曲折やって来たつもりでいたが、案外敷かれたレールの上を歩いて来たような気がしてきた。棚からボタモチのように降って来た物を拾って来ただけのような感覚で、高い所の客観的存在が絵図を描いているようではあるが、あくまで自分自身の臍下三寸辺りの由来であることは間違いない。人は誰だって今日は○○が食べたくなつた、思うだろうが、概ね自然に湧き上がるものであろう。あれとまったく同じである。そこには、実はある栄養素が足りていないから、ということはあろうが、それはほとんど自覚出来ない。簡単にいえば、理由は判らなくても頭に浮かんだ物は確実に平らげて来た。そんなところであろう。あえていえば、外側に漂う香りに惑わされないよう、できるだけ嗅がないように来た。つい必要のない物に手を出してしまうからだ。一度入った物は出て行かない。頭で足りない栄養素について考えることはしなかった。ということであろう。どうせ残り少ない期間、さらに食べたい物だけを口にしていこう。 それにしても、何処かの王様に石の塔に幽閉され、算数も宿題もなく、クレヨン画用紙使い放題なんてことを夢見た幼い私だが、何だかたまたまコロナのせいで罪悪感もさほど感ぜず。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )