明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

一日  


『中央公論Adagio』はフリーの刊行物ゆえ、プロの論評の対象になることはないので、たよりは読者の反応である。毎号出るたび、ブログなどを検索するが、批判的な意見を目にすることはなく、内容も評判がいいようである。なにしろ毎号、粘った取材の上に書かれているのを知っている。 内容は良いのだが、一方、私の担当する表紙に関しては、ほとんどまったくといっていいほど、意見を目にすることはない。すでに16号を数え、(6号の特別号、尾崎豊のみ実写)毎号15万部も出ていながら、印象が薄いのだろうか、などと思う今日ころであったが、編集部より、表紙に関するという、初といっていいメールが転送されてきた。もっとも御意見ではなく、使用された人形に関しての質問であったが、気に留めていただいた、という意味においては十分嬉しいものである。それはベルリンはフンボルト大学所属・鴎外記念館からの、今号の森鴎外に関するもので、質問事項は材料、大きさ、制作者名、制作年、収蔵されている博物館は、というものであった。 収蔵されているのは現在のところ我が家の棚の上である。鴎外と漱石が、乱歩を挟むようにして立っている。こうしてみると黄門様の乱歩に、助さん格さんの鴎外、漱石のようであるが、これはたまたまであって他意はない。 今後も続くかぎり、少しでも印象に残るような表紙にしていきたいものである。25日配布の17号は、いよいよ杖ついて、腰の曲がった謎の婆さんが表紙に登場する。

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以前も書いたが、ビートルズのサージャントペパーズのジャケットのように、今まで作ってきた人物を1画面に集合させてみたいのだが、どんな背景にしようかと考えるうち、未だとりかかれていない。作っては画面に継ぎ足していければと思うが、撮影するたび、同質の光を当てていかなければ、同じように収めることはできない。私が乱歩の『盲獣』で制作した、盲獣の餌食になった女性達は、新しいものと一番旧いものとの間に20年近い開きがあるが、たまたま同じ部屋で、同じような条件で撮影していたおかげで、ネガを引っ張り出して合成できたのである。よって過去の作品は、たとえ写真が残っていても、条件が合わなければ合成はできない。その場合はしかたがないので、撮影日に欠席した同級生のように、楕円形に貼り付けるしかないだろう。
これは自分の楽しみとして作ってみたいのだが、たとえば私が死んだ時に、大きく引き伸ばしてもらい、それを見ながら「こんなものばかり作って死んじゃったよ」などと大笑いして、大いに飲み食いしてもらう趣向もいいのではないか。しかし一方、生前呆れられたり笑ってもらう分にはいいのだが、死んだ後笑われるというのはどうなのだろうという気もする。だったらいっそのこと、参加者全員を悲しみのどん底に突き落とすような企画を用意しておくのも良いだろう。そう簡単には思いつかないが、私の経験では昨日まで元気だったのに、というのが一番こたえたが、それは私が厭である。とりあえず蛭子能収のように、人の葬式で笑わずにいられないような人物は遠ざけておきたい。  外を吹く強風に流されたか、書き始めには思いもよらないところに着地した本日の雑記であった。

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明日7日からの『人・形展』の準備に追われているが、何処の誰が作ったか知らない、私の画像を使ったYouTube映像のおかげでニジンスキーの牧神を思い出し、急に出品する気になった。なったはいいが、展示することを考えずに作っているので、手を加えなければならない部分がある。  『牧神の午後はニジンスキーが初めて振付けた作品で、得意の跳躍が一度も出てこない。牧神が岩の上で笛を吹いていると、沐浴に来たニンフが通りかかり心魅かれる。しかし牧神を見たニンフは驚いて逃げてしまう。1人のニンフは残るが、近づくと怯えて逃げていく。ニンフが落としたベールを牧神が拾い、かき抱き頬ずりをする。ニジンスキーはベールの上に横たわった牧神に、自慰行為を思わせる演出をしたらしく、当時大騒ぎだったらしい。私の作った牧神はニジンスキーの下半身を獣に変えているが、ペニスは屹立していなければならないであろう。しかしベールを手にしていない“安静時”は、それではおかしいので、撮影の際は葡萄の葉で隠したりしたが、結局は着脱式にしたのである。ところが外した物が見つからないので、急遽新たに作った。 この『人・形展』は丸善の催事であり、来場者は様々である。つまり子供も観に来るわけである。帰宅後「パパのと違う」ということで、団欒に不穏な空気が漂ってもいけない。そこで身体の線が隠れてしまうのが残念だが、ベールで隠すことにした。ベールの素材は、かつて何か適当な布はないかと探す私に、母がこれはどうかと見つけてくれた物だったが、ニジンスキーの名誉のために、何かはいえない。

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7日より丸善丸の内店にて『人・形展』が始まる。一昨年の丸善では三島の新作を1体出品したが、今回は新作とはいかなかった。私の場合人物像が完成し、そこからの撮影がむしろ本番といえるので、作りたてを発表というのは難しいのである。そこで今回は、写真作品としては発表したが、人形自体は未発表の作品なども出品しようと考えている。たとえばジャン・コクトー。これは多少の年齢差をつけて制作した2体。 私が以前、黒人ばかり作っていたのを知っている人も少なくなったと思うが、モダンジャズのピアニスト、バド・パウエルあたりを。 先日の雑記で書いたが、私自身YouTubeで久しぶりに見たのがきっかけなのだが、牧神のニジンスキーも迷っているところである。ニジンスキーだ、ディアギレフだと騒いでいるわりに、人形の方は発表したことがない。そんなわけで、搬出前日だというのに、まだ決まらないありさまであるが、個展と違ってグループ展は、こんな統一性のない作品を出品ができるのがよいところである。

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乱歩作品で、誰が演じても不満が残る登場人物の筆頭は黒蜥蜴と小林少年であろう。拙著でも、避けるべきは重々承知のうえ、誘惑に勝てず、黒蜥蜴を人形にすることで作品化した。昨日大乱歩展に出品されている、乱歩が愛蔵した村山槐多の『二少年図』を観ていて、この少年を、赤いホッペの小林少年にすべきであった。私ならそうすべきだった、と思ったのである。  思ったところで、他の団員をどうするか、という問題がある。粘土で全員作ったとして、ポーズが変えられない人形ゆえ、撮影できるカットも少なく、労多くして、ということになるし、今時の子供を使って実写で撮影しても難しいだろう。実際、後に世田谷文学館で、世田谷の風景の中で作家像を撮影するという企画のおり、地元の坊ちゃん嬢ちゃんを集めて少年探偵団にしたてて撮影を試み、「お前らいい加減にしろ!」という目に合っている。05年の雑記(某日2、18、19。13には名張エジプト化計画のことが。
ところですっかり忘れていたが、実は昨日、大乱歩展に向かう途中の渋谷駅で、村山槐多といえば信濃デッサン館の館主、窪島誠一郎氏を見かけた。昔も一度、地下鉄で座席に坐る、氏の前の吊り革に掴まったことがある。話しかけたいのは山々であったが、私、村山槐多が好きで、槐多作って撮影しています、とでもいえばいいのであろうか。なんだそれは?いわれた方も困るだろうが、自分で口にしてあまりにつまらなそうな説明を、したくないがためにこのHPを作った私である。

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小林信彦講演会『乱歩二つの顔』今まで講演をやったという話を聞いた事がなく珍しい。冒頭、江戸川乱歩を知ってる人は?と挙手を求められる。挙げない人が相当数いたようだが、客席では生前の乱歩を知ってる人は、と勘違いしたのではないだろうか。こんな所に来て、乱歩を知らないなどあり得ないという気がするが。そのせいか、あまりマニアックな話は出ず、読んだことのある話が多かったが、乱歩の葬儀中に谷崎が亡くなったという知らせを受けた、現場の話が直接聞けて良かった。本日は動く小林信彦が観られた、ということで。 大乱歩展も、少なくともあと二回は来ることになる。そんなこともあり、まだじっくり観ていないのだが、名張市にある乱歩生誕碑のパネルに気付いた。ここには医院があり、その建物の利用も含めて検討されたはずだったが、すでに取り払われ、ポツンと碑だけが写っていた。周囲の状況を写そうにも、画にならないことになっているのではないか。かつてエジプトのピラミッドなどの世界の景観の大パネルを街中に配置し、この旧い街を訪れた人々に、世界を巡った気分を味合わせようと考えた名張市である。 その後、池袋に向かい、その名張市よりみえている中相作さんを囲んでの恒例の大宴会に参加し木場に帰る。昨日同様T屋に寄って飲みなおそうと思ったら休み。T屋は永代通りから一本奥まった、通りから見えるか見えないかの所にあるが、これはキッチンの絶妙なところに置かれたゴキブリホイホイのようなものではないか?どんなに飲んでもつい寄ってしまう。  大人しく帰って、新保博久さんにお借りした、カラーの乱歩の映像の入ったDVDを観る。カラーは還暦祝賀会の赤いジャンパーを着ているのと地鎮祭。やはりスチール写真でカラーはないのか。カラーフィルムも普及した最晩年は、体調も優れず、写される機会も無くなっていったということであろう。新保さんの話では、ご家族の収蔵写真を探せば、プライベートでのカラー写真はあるかもしれない、とのことであった。

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2時から始まるが、乱歩に持たせる煙草、下に置く灰皿、本2冊を配置しなければならないので、早めに向かったつもりが思ったより遠く、すでに関係者の挨拶が始まっていた。ここは99年の荷風展で荷風像を展示して以来である。あの時の内覧会では、安岡章太郎さんと写真を撮ってもらった。 乾杯の後、乱歩の令孫平井憲太郎さんにご挨拶する。憲太郎さんにはアダージョで宮沢賢治を作ったとき、夜空に銀河鉄道を走らせるため、岩手軽便鉄の模型をお願いして手配いただいた。 戸川安宣さん。メインビジュアルに使われた作品は、もともと東京創元社のムック本の仕事で、戸川さんの計らいで、乱歩邸土蔵内で撮影したものである。 当館館長でもあり、今回土蔵の乱歩にタイトルを付けて頂いた紀田順一郎先生。(『夜ぞ来たる』ポール・モーラン「夜ひらく」やブロムフィールド「雨ぞ降る」の連想とのこと)ポスターの評判が良いと伺う。思えば、東京創元社の紀田先生の著作の表紙作品を担当させていただいて以来のご縁だが、当初有り物の人形を使って、というのを紀田先生ご意向の荷風以外は、オリジナルで作らせていただいた。当時内容に即した人物を作り、“解釈”を見せられるような仕事を一度してみたかったのである。あの頃は合成を使わず片手に人形、片手にカメラの時代である。『古本街の殺人』の背景には戸川さん。  会場に展示された、煙草を手に寝転がって妄想する乱歩像と、乱歩のスケッチを基に制作した写真作品『D坂の三人書房』を記念に撮影。D坂は横に乱歩のスケッチが展示されていて感慨も深い。 会もひと段落すると会場には封も開けられていない『黒蜥蜴』や『怪人二十面相』が残っている。名張の中相作さんと空ける。二十面相はその人物同様少々甘く、悪党加減、酒、ともに黒蜥蜴に軍配。 その後中さん、新保博久さんと、近くの喫茶店、渋谷のラーメン屋でビール。新保さんには以前から気になっていた、カラーで写された乱歩の写真の存在を伺うが、何かの会で写された写真が1カットあったかどうか、だそうである。三重県名張の中さんには、東京下町酒場御用達の三重の焼酎『キンミヤ』のことを伺ったが、中さんすら存在を知らないと訊き驚く。県民に内緒にする理由があるとは思えないが。 その後隅田川を越えて木場に戻り、安心してT屋にて痛飲す。

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以前から1カット欲しいと思っていた天才ダンサー、ニジンスキーのオリジナルプリントをオークションで落札した。これはプレス用の写真である。今年2月、同じような客船上で撮られたガラス製ネガが出品されたが、同じ船に乗り合わせた素人が撮影したもので、出回らない、ということにおいては、比べようのない貴重さであったろう。ネガそのものということもあり、とても手の届く物ではなかった。 落札したプリントで私が興味を持ったのが、1916年という撮影年である。同性愛の相手だったディアギレフの支配から逃れるように結婚をし、ディアギレフに解雇されることになったニジンスキーであったが、その後団長を兼務し、アメリカツアーを敢行することになる。しかし団員を掌握し、組織する能力など持ち合わせておらず、不本意な結果に終る。その心労もあってか狂気の兆候を見せ始めるのだが、表情を見る限り、アメリカに向かう船上であったかもしれない。偶然だが、件のガラスネガと同じ船上なのは、ニジンスキーや娘、妻などみても間違いがない。ニジンスキーを囲む取材中と思しき連中の中に、撮影者がいるかもしれない。  アメリカでは、カール・ストラスというドイツ系ユダヤ人に、牧神に扮した姿や、ティル・オイレンシュピーゲルを撮影されるが、特にティル・オイレンシュピーゲルを撮影したのは、おそらく4×5インチ用の、ストラス自らパテントを取得し販売した水晶レンズで、私は何かの縁と入手していた。つまりこれから、そのレンズで待ち構える、ストラスのいるアメリカに向かっているのかも、と想像すると私には感慨深いのである。
ところで、ついでにニジンスキーで検索していたら、何処の誰かは知らないが、私のHPの画像に富田勲の音楽まで使って、こんなものを作った人がいた。ご苦労にも程がある。
Nijinsky's artwork



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