明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



中央公論新社よりアダージョ17号届く。人物を2体作って画面に入れる、というのは初めから決めており、1体は当初、江戸川乱歩を予定していた。しかし、画面の中に背景の情報をいれ、後から文字も入ると思うと、乱歩を脇役として登場させるのは断念した。脇役に乱歩を使うのも粋だと思ったが、誰がみても判る顔ならともかく、ただの通りすがりに見えても残念だし、様々な要素の中で、乱歩を配してバランスを取るのは難しいと判断。老婆に変更したのである。毎回、できるだけ、初めての試みをしたいと考えているが、2体にしようと決めた理由は自分でも不明である。  私はそもそも、理由も判らないまま、何かに突き動かされてしまうタイプである。人間も草や木と同じ自然の物なのだから、内側から何か湧いてくるなら、それに委ねた方が良いと考えており、事実下手な頭を使うより結果は必ずよい。ところがそれに反して、あくまで頭で考え、計画通り進めて目的に達っする人、と見られたい見得のような物があり、理由を後付し、初めから判って作っていた、という顔をしてしまうところがある。雑記においても、後から、私はどうも、こういうことをやろうとしているな、と気付いたあたりで、当初から計画していたことである。と書いてしまう。何故そんなことになるかというと、本能優先で生きているような男が、私自身、大嫌いだからである。人に迷惑かけるのは、大体そんな輩であろう。私のアントニオ猪木嫌いのジャイアント馬場好きも、そんな所に由来しているに違いない。“嫌いな物には、必ず自分の要素がある”と教えてくれたのは友人の精神科医である。こんなこと正直いってどうする、という話だが、今日は乱歩の誕生日。  大乱歩展は未だに隅々まで観ていない、次、いつ行こうかと思っていたら、荒俣宏さんが、10/19会場で写真を撮っていた。後ろには、煙草をふかし寝転がる乱歩像。

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