明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



自分で制作した像を自分で撮影する面白さの1つに、顔が拡大されることがある。十字路で悪魔と取引したといわれるロバート・ジョンソンを作った時のこと。この人物は長らく写真が発見されず、レコードジャケットは常にイラストであった。昔写真が発見された、と雑誌に一カット載り、そのガセ写真を元に、どこの馬の骨ともしれない男を途中まで作ったことがあったが、後に発見された写真は、さすがにクラプトンやストーンズがレパートリーにした曲の作者であった。片目に白い濁りがある、という証言とも一致していた。この人形はかなり小さめで、帽子の下の顔の部分は5センチほどのものだったが、接写レンズを使って撮影してみたら、私が意図していない表情をしていた。作者が想定を超えた意思を持って(写った。といったら良いだろうか。悪魔と取引をして演奏技術を身につけた。といわれるくらい急に変わったらしいが、そういえば十字路で悪魔を待っているような顔だ、とさらに撮影した。こんなことが起きるのなら写真を撮影する意味がある。以来、こういうことが起きるのを心待ちにするようになったし、起こしやすくする工夫もしている。 今回、河童の三郎は、どうしようもなくダメな妖怪、というつもりで作っていたが、つい先日。柳田國男の翁に人間どもに対する仇討ちを願う表情が、撮ってみたら、私の想定以上の真剣さで、“お前、その顔違うだろ?”なにしろ娘の尻を触ろうとして怪我をしている。その仇討ちを願い出るには表情が純真過ぎると思ったのである。しかし考えてみたら、馬鹿だからこんな顔をするのだ、と思い返したのであった。妙な話であるが、自分で作った三郎に教わってしまった。

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何かに化かされたか、しゃもじやすりこぎを持って踊りだしたり、妙なことをしてしまうので、これは神様に障ってしまったのかもしれない、と笛吹きの芸人、その女房と連れの娘三人が、奉納の踊りを踊る。それを見た河童は喜こび、すっかり機嫌をなおし郷に帰っていく。その逆転があまりに急で、それまでのペースからすると、鏡花が残りの紙数が少ない事に急に気づいたのではないか、といいたいくらいである。 人間に腕を折られた河童の三郎は、娘のふくらはぎを思いだす時こそ楽しそうだが、あとは終始、人間に対する仇討ちに執念を燃やしている。それがここで一変する。もっともただの人間同士の喧嘩とは違う。その踊りも、人間が信心深いからこそ三郎に効果があり、姫神も許してやれや。ということになるのであろう。神様に守られた人間達という事情が大きく作用する。よって大逆転の場面は雷に打たれたようなインパクトが必用であろう。そうでないと、直後に水に流した三郎を穏やかな表情で郷へ返してやれない。 このインパクトが必用な場面を、見開き2ページで描く方法が見つからないまま後回しにしてきたが、ようやく形が見えてきた。ここで使うつもりだった太鼓を叩くウサギ。昨日暑さのせいで撮影ができなかった。撮影に使わなかったら、こんなバカバカしい物はない音の出ない太鼓は、もうひと場面、使えるカットがあった。私はウサギが撮れなくて良かった、と思うまで、後悔の種は潰しておくことにしている。

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いよいよ新たに作る物がなくなってきた。鏡花の描く異界の住人は、妖怪じみているといえば女顔のミミズクくらいで、あとは鎮守の杜の妖怪なのか単に獣なのか判然としない。白ウサギが太鼓を叩く、というくだりがある。重要なシーンではないが、昨年ボロ太鼓を入手してしまっている。見た目こそ古びていてイメージぴったりだが、叩いてもほとんど鳴らないジャンクな物である。撮影に使うこともなく、ただ残るとしたらこれほどムカツクものはないであろう。目の前の小学校にちょうど白ウサギがおり、それをボランテイアで世話をしているSさんにお願いするはずが改装工事に入ってしまい、どこかのPTAが引き取ってしまったとかで撮影ができなくなっていた。それならということで、本日ウサギに触れられるという西葛西の行船公園にいくことにした。撮影中、ウサギを支えてもらうため、助手としては最低のKさん。ヒマだけが取り柄である。しかし例によって朝っぱら飲んでしまってロレツが回っていない。汗をかいているので酒臭いったらなく、車中隣の女子高生が席をかえる始末。親戚にこんなのがいたら嫌だろうなあといつも思うのである。 炎天下を歩いてたどりつくと、暑さのため動物と触れあうコーナーは中止。たしかにこれでは無理だろう。かき氷を食べて帰る。 無駄な1日になってしまったが、唯一、重要なシーンなのに、どう描くか浮かばず、後回しにしていたカットが昨晩より収まりがつきそうな気配である。二日間不明だった携帯電話も無事戻った。



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私は常に完成作を作者に見てもらうことを念頭に制作している。たとえ作者がすでに亡くなっていようと。それはイメージの問題である。 潔癖性の鏡花は、自分がもっとも苦手であろう、ヌラヌラエボエボと生臭い河童を主人公に、書く分には安心とばかりに清めた原稿用紙に向かって書いたことであろう。なんだか嬉しそうである。(もっとも豆腐の腐の字を嫌い豆府と書くのだが) 今回、主な素人役者衆のスカウトの場となったK本のおかみさんは、長い生き物が大嫌いである。蛇はもちろん、ウナギだろうがドジョウだろうがすべてNGである。なにしろ目がマジだから、出入り禁止になりたくなければ冗談も何もいってはならない。今回作中、真っ赤な蛇が娘のふくらはぎに食い込み巻き付いているカットがある。実際の撮影風景は間違いなく笑える場面であるが、そのページを破いたりかつての検閲のように、墨で塗りつぶすわけにはいかないにしても、何か印をつけて、ページを開かぬよう、前もっていっておく必用があるのはいうまでもない。それをし忘れた時のことを考えるとゾッとするくらいである。 あと一場面。編集者と話し合いながら、どう描こうか決めかねているカットがある。さすがの私もここに至れば話の流れ、全体のバランスなど考慮しつつ悩んでいるわけだが、そんなさなかであった。難しい場面を創作した鏡花に対し少々癪に触ったこともあり、ばい菌恐怖症の鏡花の大嫌いなハエを、河童の三郎に止まらせることを思いついたのは。 しかし本日、1つ打開策を思いついた。まだどうなるかは判らないが、この案で打開できるのであれば、何匹か蠅を減らしてあげてもよいと思っている。

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編集者には「石塚さんは1カットを完成させようとするから」とよくいわれたが、メリハリだ流れだとかいわれても、短編とはいえ小説一冊をビジュアル化するのは始めてである。私には長い。そもそも“及ばざるくらいなら過ぎたる方がマシ”というタイプである。すべてを名場面にすべく、等しく力を入れるしか私にはすべがない。たしかに書籍の場合、全編この調子であったら読後にもたれてしまうことは必至であろう。そこをなんとかするのが編集者ということになる。 私が初期のジャズ、ブルースをテーマにしていた頃、もっとも影響を受けていたのがブルーノート盤のレコードジャケットである。デザイナーのリード・マイルスのおでこや胸元でバッサリなどの大胆なトリミング。撮影者のフランシス・ウルフとはしょっちゅう喧嘩だったそうだが、リード・マイルスの大胆なトリミングなかりせば、フランシス・ウルフのショットがいかに名作だとしても、ここまで残ることはなかったろう。信じがたい話であるが、マイルスがジャズファンでもなんでもなかったことも客観性に寄与していたのかもしれない。 当初、何日もかけた場面が次々カットされ、憮然とした私であったが、切り替えもまた早い。編集者の客観性に納得してみれば乃木大将とステッセルである。 あとはフィニッシュに向けただ制作するのみである。未だ打開策が見つからない場面が1つだけあるのだが。

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先週編集者より、あと一週間でおおよそできていないと困るといわれていた。なにしろ肝心の鎮守の杜の姫神様、翁、河童のパートができていなかったから当然である。姫神様の着彩を終えたのが昨日であった。 そんな時、良い物が手に入ったとメール。K本で一杯だけ、と出かけると東京駅のドーム内の壁に使われていた20センチほどのレリーフであった。前回いただいたのは某所の座紋付きの瓦である。妙な物を組み込んで台無しにした昭和期の物が一部売り出されたが、いただいたのは震災後の再建時に作られた物で、素朴な味わいはまったく別物である。東京駅のレリーフは、さっそく撮影に使わせてもらった。 河童と翁は連日怒濤の進撃で、ブログやフェイスブックで画像の極一部をトリミングしてアップしていたが、姫神様の撮影は昨日と今日の二日間で終了。追いつめらないと出てこない何かが湧きでて河童の三郎に続いて姫神様も空中を浮かぶ。手塚治虫以来であろう。 5時に風濤社。完成した異界の者共を披露する。編集者というものは気持ちが顔に出る人が多いようで、制作中や撮影の立ち会い時にニコリともしないのでそういう人達だと思っていたら、完成すると変わる。つまり私からどこか“アテにならない感”が出ているのではないかと少々気にしているのである。フィリピンパブのフィリピーナに私の面相を「苦労ガ足リナインジャナイ?」と評されたことと無縁ではないと踏んでいるが、自分ではどこをどう改善して良いのか判らない。とにかく今の所、完成作を一刻も早く見せて安心させるしか方法がない。そしてようやく担当者から笑顔。付き合いが長い編集者だが、やはり先週は思いっきり不安だったことが判った。 プリンターで出力した物を糊付けして蛇腹状になった物を床に広げる。なるほど、こうするとモニターでは見えない部分が見えてくる。それにしても長い。私の一年間である。梅雨時の夕刻が主な舞台であるから、手前の導入部はしばらく黒っぽい。編集者が流れを見ながら。ここに河童の表情が欲しいですね。ここには◯とか。「それだけ?もっと作るものないの?」寂しい。 まだ完成には至っていないがこの調子だと9月刊行ということになるようである。

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河童最後の1ポーズ。躍り上がって喜んでいる図なので片足を上げたのはいいが、左腕が折れているのに両腕でバンザイをさせてしまった。これはいけない、と両腕引っこ抜いてああだこうだした結果、右手と左足を上げるポーズにした。 ところが昨晩ブログをアップした直後に気づいてしまった。これは“オッパッピー”ではないか?しかし一度作り変えているし、かなり進んでしまったので今更変える気になれない。それにオッパッピーになったからという理由で作り変えるのもどうなのか?撮る角度等、多少工夫しよう。このギャグが沈静化していて良かった。 鎮守の社と人間の逗留する旅館を千里眼で結ぶのはミミズクである。高い所から旅館の人間どもはどうしているこうしていると報告する。鏡花は鎮守の杜に生息する獣たちにはほとんど手を加えていないが、このミミズクだけは喋るし、どうも人間の女じみた顔をしているらしい。ただ人間の女の顔をそのまま乗せるのは簡単だが気持ち悪いだけである。当初、最大の特徴であるミミズクの目を残し、女性の顔面をムリヤリはめ込んでみたが、これがまた気持ち悪い。やはり全身を覆う羽毛と人間の肌のブレンドは無理があるし、そもそも鳥の目玉は鳥にくっついているから良いので、人間の顔に、真ん丸に見開いた目がこれがまた相当気持ち悪い。そこで今度は最小限、目を人間の目を使うことにし、赤いというクチバシを、口紅塗った唇を加工することにした。前回協力してくれた女性を近所の川沿いに来てもらいパーツを撮影。直射を避け木陰で撮影したが、メイクを決めた女性が川沿いで百面相をしている。それをアップで撮っている私。そもそも人に見られるわけにはいかない珍妙な撮影風景である。 ダイレクトに女顔とはいえないがこの辺りで良いだろう。相当加工はしたが、かろうじて自分と同種の眼差しであると伝わるせいか、気持ち悪さは大分回避できたのではないか。明日は最後に残った姫神様の仕上げに入る。

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河童最後の1ポーズを制作。河童の三郎は貝の穴に隠れているところをステッキで腕を折られた。そこで漁師が神社の石段下に置きっぱなしにしたイシナギを、連中の滞在する部屋に、上から放り込んで欲しいと姫神様にお願いする。しかし人手不足。ミミズクの発案で、連中を石段下におびき寄せることにする。笛吹きの芸人とその妻の踊りの師匠。師匠仲間の娘の三人は、河童の妖術でおびき出され、しゃもじやすりこぎを持ったまま街を踊りながら石段下まで来てしまう。 タクシーをひろい慌てて旅館に帰る。三人は鎮守の杜の神様を鎮めるために奉納の踊りを披露する。そしてここからが急転直下、それを見た三郎は機嫌をなおし飛び去っていく。ここがかなりの急展開なのである。あれだけ悔し涙にくれながら、随分簡単に機嫌がなおる奴である。 そういえば近所に、ファンの女性が性転換をして今は男だという冗談を真に受けた人物がいた。一週間死んだフナみたいな顔をしていたが、冗談に決まっているだろ、といってあげてからの変化は三郎より早かった。 そんなわけで、笑顔の三郎の頭部を用意していたのだが、ここでそうとう派手に喜んでもらわないと、飛び去っていくラストシーンにうまく繋がっていかない。作り始めたのは良いが、左腕が折れているのにうっかり両手でバンザイさせてしまい、一時間程気づかず。このポーズだと右手をブラリとさせたい。後で画像で反転させれば良い、と考えなくもなかったが、見ている人に違和感がなくとも、作った私だけ違和感を抱えたまま、ということになりかねない。しかたなく作り変える。

河童に驚いた漁師が神社の石段下に置いて帰ったイシナギと麦わら帽。持って帰るにも河童の術で持ち上がらないのだ。

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