明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

一日  


来月10日より10日間、深川江戸資料館での展示のことで下見をかねてでかける。高座上という設定の三遊亭円朝像に写真は何カットか。牡丹灯籠の出来次第だが牡丹灯籠含めて5カットほどだろうか。 北海道出身の横綱に関しての展示もやっていたので覗く。千代の富士、北の湖、大鵬の等身大の写真パネル。一目見て小さい。大銀杏分を身長に加えてしまったのだろう。これでいいなら舞の海は苦労しなかった。こう見ると千代の富士の大銀杏がことさら大きい。身体が小さい分すこしでも大きく見せたかったのだろう。そういえば栃錦の大銀杏はでかかった。 牡丹灯籠のお露とお米の撮影日ようやく決まる。素人のモデルは、とにかく油断は禁物である。何が起こるかわからない。お露とお米親子の時間が微妙で、二人一緒に取れる時間がどれだけあるか。最も、あの世の影のない連中ゆえ、二人重なったところの影もなくそう、と別々に撮ろうと思っていたので、多少のことはなんとかなるだろう。 当初、幽霊ゆえ、伏し目がちな二人、レンズを向けるとまばたきに問題があるお米は、下手したらつぶったままでもいい、と思っていたのだが、この世の物ではないと、全体に発光させるだけでなく、目の色も変えたくなって来た。となるとお米のまばたきには要注意である。 会期中、12日夜、浪曲による牡丹灯籠をやるらしい。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


献杯  


T千穂にクーデターによりK本を追い出された常連の落ち武者が集合し、先日84で亡くなった斉藤さんに献杯を捧げた。斉藤さんは菊作りの名人であり、近所の小学校でボランテイアで菊その他植物やウサギの面倒を何十年も観て来た。卒業生の感謝状が物凄い量溜まっていると訊いた。K本の常連も、小学校で育てたゴーヤ、ピーマンなどよくお裾分け頂いた。私は朝方まで作業していて寝入りばなにやってきて野菜をいただいたが、たまりかねてドアノブにかけてもらうことにした。頼まれて菊だらけの小学校内の特設作業場を撮影した事があるが、学校の方針でそれも撤去されてしまった。さみしそうだったが、それでも早朝の学校通いは続けていた。斉藤さんは鉄人ルーテーズにちょっと似ていたが、テーズと違って髪の毛は黒々、声は坂上二郎にそっくりであった。 以前K本に40センチはあろうか、という元大工の斉藤さん手製の男根を持って来たことがある。こんなものいつまでもウチに置いといても、ということであった。子供のいない斉藤さんが子宝祈願のために作ったものであることは察しがついた。ありがたく『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)に使わせてもらった。書籍では文章の下地で、しかも遠慮してぼかした事もあり、良く判らなかったが、昨年のスライドと義太夫のイベントでは、間違ってぼかす前のデータを使ってしまい、舞台上に3メートル程の男根を一分以上屹立させてしまった。最後に会ったのは、昨年暮れに母のために飴を持って来てくれた時であろう。その後、たまたま電話したら声に張りがなく、これから癌研に検査に行くといっていた。最初の癌を克服したが、その後胃を全摘、今回は咽頭癌で、もう手術はしないといっていたらしい。木場の鉄人もついに力尽きた。飲み会で、良い声で都々逸を聴かせてくれたことを思い出す。 ※落ち武者の皆さんは当ブログ左下の検索窓で福耳、とでも入れてもらえば、随分前の斉藤さんが出て来ます。合掌

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ホックニーによると、昔の巨匠達が機械を使って対象を写していたという話であったが、小学生の私が写生が嫌いだったのは、目の前の物を写すからである。当時の私は絵が上手いということは、見ないでも描けるくらい記憶しているということだと思っていた。そしてそここそが絵を描く楽しい所だと。対象が目の前にあるのなら記憶力が発揮できないし、アレンジも加えられないではないか。 そう思うと私は幼い頃から終始一貫している。私はながらく写真嫌いで、写真を始めるのが遅かった。それは写真の身も蓋もなく写ってしまうことではなかったか。昔の画家はむしろそこを利用していたことになる。しかし未熟な私の制作物を撮ることを思いついて身も蓋もないところは気にならなくなった。むしろ陰影のおかげで七難かくすことができたからである。 写生嫌いでデッサンもろくすっぽしないままここまで来てしまったが、皮肉なことに、写真のおかげで物故者を写真を参考に作ることになり、随分と勉強してしまい、情報も頭の中に入ってしまった。幼い頃から観ていたプロレス中継の記憶だけで人体を作っていたような頃にはもう戻れない。 ところでここへ来て、写真という物の身も蓋もないところに改めて不満が湧いて来て、陰影を消してみたり、さらに寒山拾得などという、おそらく架空の人物に興味がわいて来ている。そういう段階にきているのかな、と思う今日このごろである。なにしろ行き当たりバッタリである。ただ、なんだか判らないけどこうなっちゃった、ではいかにも馬鹿みたいなので、こうして後からなんでだろう、と考え、始めからそのつもりだった、予定通りである。みたいな顔をしたい訳なのである。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日訊いた陰影の話はデビッド・ホックニーの『秘密の知識』の話である。ダ・ヴィンチやカラヴァッジョをはじめ、絵画の巨匠達は鏡やカメラルシーダや、カメラオブスキュラなどのレンズの力を借りて写していた、ということを明らかにしている。それは1400年代からすでに始まっているという。たしかにその辺りから急にリアルになる。遠近法、陰影にしてもレンズの効果、という検証をおこなっている。絶版となっており、中古価格も高いし、早く読みたいは、で母の入院している病院で手続きを済ませた後、(本日もトリの唐揚げを買いにいかされる)当地では唯一所有している図書館にでかけた。ホックニーの検証は説得力があるし、興味深く読んだ。私は人形を作って撮影していて、写真という物の身も蓋もなさのせいで、不自由を感じていた訳だが、レンズを使って写していた、と思うと西洋画の尋常でないリアリズムが身も蓋もなく思えて来てしまった。西洋的なる物に対して興味を失っているせいで、またもや職員に「大丈夫ですか?」と起される。イビキをかき、脳卒中でも疑われるのであろう。結局日本画の画集を眺めることに。さすが我が国の芸術は身も蓋もあるぜ。眼福を得る。図書館の向かいにあった酒場で1杯250円の酎ハイでクールダウン。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




古代の洞窟に描かれた絵や子供の絵には陰影がない、という話を聞いた。なるほど、そういわれると陰影は分別の象徴のように思えなくもない。 私は小学校3年の時、陰影を描いて騒動になったことがある。私の描く絵は子供の絵じゃない、といわれつづけ、たとえば交通安全のコンクールにも、私の作品だけ出し忘れた、などといわれた。褒めてくれるのは同級生だけであった。3年の時、産休になった先生の変わりに担任になったT先生はようやく褒めてくれたが、隣のクラスの担任が、どうゆうわけだか盛んに子供の絵じゃない、と私の描く絵をボロクソにいうのである。確かに他の連中はマッチ棒のカカシが地面に倒れているような絵を描いているのに私は筋肉を意識していたし、太陽から在りもしない放射状の線を何故みんな描くのが理解できないでいた。 私は図工の時間は大好きであったが、苦手だったのが写生である。目の前の物や、光景を描くのがまったく面白くない。それに引替え、遠足に行った後に、そのときの光景を思い出しながら描く、なんていうのが好きだあった。記憶にサービスを加えるのが何よりも楽しい。ある時、池に浮ぶボートを描いたのだが、池には当然ボートの影がユラユラと映るだろう。なんで隣の担任がそれを授業中に観に来たのかは知らないが、なんでこんな物を描くのだ、と私は問いつめられた。この時のことは母も父兄会の時に訊いて未だに憶えている。 小学三年で陰影を描いてしまった私がここへ来てようやく陰影から開放されるに至った、ということなのだろうか? ところで私はチャイムが鳴っても図書室から出て来ないくらい本好きで、なかでも大好物だったのが人物伝の類いであったが、T先生は学校を去る時、世界偉人伝という本を内緒でくれた。そして私は相変わらす人物伝を毎日のように読み続け、人物像に私なりのサービスを加えているのであった。 

※不細工な絵だが、唯一残る小学2年生の時の絵である。これを見ると、隣の担任は私のもっと別のことを心配していたのではないか?と思われそうなので弁解しておくが、叔母が寺に嫁ぎ、遊びに行った時に描いた絵である。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




図書館で日本になぜ遠近法がなかったのか、などを解説している遠近法に関しての本を読む、中国そして西洋から導入されて来た。手前が浮き上がって見えるので浮き絵といったそうである。しかしなんだか建築に関する本のようで、これは間違いなくイビキをかいて、また職員に起されるな、と断念。ロケハンに行く。 生身の人間から陰影を取り去っても絵のようにはならないが、頭の中のイメージ同様、あの世にも光源がない。ということで、お露とお米も陰影を取り去っての撮影を試してみたい。本日も絵画全集を見ていて思いついたことがある。 当然地面、その他にも二人の影があってはおかしい。となると、手にした牡丹灯籠のピンク色の光の影響も受けないことになる。そこはちょっと惜しい。まあ良い。牡丹灯籠はあの世の所属である。私がルールブックだ。 背景に人物、人形を合成する場合、背景と近い光を、同じ方向から当てる必要があるが、幽霊となれば関係ないことになる。お露が焦れ死んだ相手の新三郎の家に、カランコロンと二人が通うシーンに使う背景は決まった。ヒトダマは一人に一つまとわりつかせる。後は室内だが、完全な黒バックも捨てきれないが、うっすらと室内のデイテールが見える、ということも頭にいれておきたい。お露お米と引替え、この世の者である円朝は、手燭の灯りで下から照らされ、いわゆる“お化けだぞ〜”をようやくここでやってみたい。陰影のない幽霊二人とのコントラストを付けたい。 一度は完成していた高座の圓朝の両脇に立てる燭台と蠟燭。小型LEDで蠟燭の灯が揺らぐようになっていたが、面白がって触っていたら断線。作り直さなければならなくなった。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




朝『牡丹灯籠』用着物を提供いただくMさんと。T屋へ。今日は「貝の穴に河童の居る事」用に入手していた日本髪のカツラを持って来た。私が頭から切り取られた髪の毛にこれほど恐怖を感じるとは思わなかったが、あの時は合成用に一度撮影したきりで、以来取手付きのケースを開けることはなかった。前回かみさんはカツラを被るつもりでいたので、今回はせっかくなら被ってもらおう、と持って来た。髪の毛をまとめるネットがないので水泳用のキャップを用意してもらったら、ついでに水泳用ゴーグルまで着けて現れ笑わせられた。かみさんのこのノリに助けられたのがこのカットである。ここから流れが一変した。こういうカットなら問題ないのに、スマした顔をしてもらうと、とたんに瞬きが激しくなる。今回は幽霊なので、かりにつぶってしまっても問題はない。カツラは若干緩いようだが、どちらにしても撮影後、年齢、時代相応に加工するので問題はない。そこへ大学へ行くために降りて来たお露役のAチャン。まったく寝起きの顔である。もっとも、小学生の頃から朝のこの顔はおなじみだが。 Mさんとどんな着物が良いか、と話を進める。私はまったく判らないので、後はMさんの奥さんにすべてお願いすることになる。河童の撮影は4年前だったか、季節は調度今頃である。作品のイメージどおり梅雨空のじめじめした風景を房総に撮りに行ったが、その間、一滴も湿り気はなく、しかたなく、撮影は夕方に限った。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




浮世絵、日本画から取り入れて見たいと考えていたのは、まずは陰影、次に遠近感、時間の扱いである。円朝では陰影を撮影時に消してみたら日本画のようになった。それだけではこうはならない。 陰影を消すためには画面のなかに配するものを、すべて個別にライテイングして撮影しなければならなかったが、横に置かれる物も後ろに置かれる物も、すべて正面に置いて撮影した。それを一つのレンズでいっぺんに撮影したような顔をして配すると、不自然な遠近感のずれが生じる。これがまた、写真ではなく絵に見えることに貢献していた。そもそも燭台、湯飲み、扇子、人形、それぞれ縮尺も違う物を、そうやって均等に撮影し、画面に配した。奇妙な違和感が出るのは当然である。こんなことを見つけて喜んでいるのは私だけだろうが、私はだいたい、あまり考えずにやったことに自分で影響を受けて、次回から取り入れてきた。これから意識して取り入れていくだろう。 遠近感で思い出すことといえば、東京オリンピックである。グラフ雑誌をむさぼるように読んだ。陸上を捕えたカットでは、後ろの選手が大きく見えるのが子供の私には不思議でしょうがなかった。市川崑の『東京オリンピック』はなおさらであった。あれが望遠レンズの圧縮効果、ということなのであった。


HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『牡丹灯籠』お露とお米、手前に手燭(手で持つ蠟燭立て)を持ち、その下からの光で不気味に照らされる円朝。こんな感じになる予定である。黒バックにするか何となく室内か、それはロケハンしてから決める。お露とお米は青白く発光し、周囲に鬼火。遠くにぽつんと配するか、圓朝の極背後に大きく配するかは出来を観てから決めることに。幽霊なので二人とも伏し目がち。仮にお米役のT屋のかみさんが、また瞬きしてもこれなら大丈夫であろう。 区役所の帰り、東陽図書館、深川図書館をハシゴ。イビキをかいて職員に起される。そこへ最近顔をみていない焼き肉店の店長Kさんが近辺に来ているので、とHさんから連絡、これまた久しぶり、業界新聞のTさん。T千穂で4人。KさんはK本のクーデター寸前に自転車乗っていて骨折。当時骨折者が相次ぎ、スリー・ポッキーズと呼んでいたが、店からすぐ近くに引っ越し、もう骨折の心配はないらしい。 “落ち武者”連も集まる組み合わせによって盛り上がるテーマも変わり面白い。たまたま男三人がボーイスカウト経験者でTさんは今でも子供達とかかわっている。そういえばキャンプの時、私は古釘を踏んでしまい、Tさんのようにかかわっている大人の中に大工がいて、俺たちはこうするんだ、と傷口に蠟燭を垂らし、金槌でトントンと。おかげで帰宅後救急病院にかけこむハメに。 昔古書店で入手した子供の目から見たヒットラー・ユーゲントの日々を描いた本を読んだことがある。同盟国である日本の子供達に私達ドイツの子供もがんばってる、ということだったろう。やってることは、まるでボーイスカウトであった。スパイを設定しての戦争ごっこ、はさすがにしなかったが。 国旗の畳み方を覚え、キャンプ地では掲揚をしたものである。私の場合はあきらかに託児所がわりだったが、中学生になり赤い羽共同募金で、若い女性に赤い羽を着けるのが恥ずかしくて嫌だった。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




T屋で朝食を食べながら再びかみさんと「牡丹灯籠」の打ち合わせ。19歳の大学生、末娘のAチャンのスケジュールが未だ微妙である。深川江戸資料館の展示は8月10日からだから、7月中に撮れればなんとか間に合うのだが。 その後、母が通ったデイサービスに料金を支払いに行く。またお世話になることもあるかもしれないが、通うのをホントに楽しみにしていた。所長さんに、施設内を案内してもらう。職員に光子さんの息子さん、と紹介されると笑顔で会釈してくれるが、つい笑顔を深読みしてしまう。以前、文庫版の重松清さんの「ビタミンF』の表紙は施設の脇で撮影したんだぜ、と母に見せたら、翌日なくなっていた。きっと持って行ったに違いない。 その後図書館へ。改めて曾我蕭白の『寒山拾得図』。何がヘンって、背景の岩がすでにヘンである。何かの結晶のような岩。どこかへ行って実際の岩壁でも撮影してこよう、と思っていたが、自然な岩肌よりも、蕭白ほどでないにしても“奇岩”を自分で作った方が収まりは良いような気がして来た。 街を歩いていたら道端に竹箒が立てかけてあった。じっと観察する、拾得には付き物である。 来月谷中の全生庵と深川江戸資料館に三遊亭円朝を展示するので、もう一体をそろそろ作り始めないとならない。

HP


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




本日も母の病院へ。午前中炊いた炊き込みご飯が、子供の頃から食べ慣れた味にできたので持って行った。前の婆さんがお水頂戴とずっといっている。その隣の婆さんがそれに反応しているが、まったく会話になっていない。これじゃ嫌になるだろう、と思うが、母はそれを見ているのが可笑しいらしい。点滴外しちゃって、また看護婦さんに叱られるから、と笑っていた。 昨晩、泉鏡花の背景を作っていたら盛り上がって来た。やはりこの手法だけで個展をやりたくなってきた。メインに横1〜3メートルくらいの寒山拾得図。などどうだろうか?あの手法では、まだ円朝で3カットしかできていない。まずは鏡花と三島あたりに手を付けてみたい。果たして適当な画廊があるだろうか。 日曜日も図書館に入り浸っていたが、江戸時代の絵画が面白過ぎる。自由な着想に表現。デジタルならなんでも出来ると思っている人は多いが、マジックショーを観て、奇跡が起きてるのに平然とお茶の間でセンベイを齧っていられるのはマジックだからである。デジタル写真も同様であろう。調味料過多のスナック菓子は◯◯味がするのは最初のうちだけである。すぐに舌と嗅覚が馬鹿になって◯◯味はしなくなる。 某大学に通う友人の娘が学校で酒鬼薔薇聖人のドキュメンタリーを観たそうだが、ファンの娘と結婚して子供もいるという。初耳だが? 

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


円朝で最初に制作したのは掛け軸のような比率の画面に円朝がこちらを見ていて鬼火が3つ、というものだが、まだ合成などやっていない頃、泉鏡花でそんな画面の作品を考えたのを思い出した。そこで比率は円朝と同じにして、再び制作してみることにした。前回は月は本物を撮影して使ったが、今回は只丸い月にする。少し雲で煙っている感じもいいかもしれない。鏡花は96年か97年頃の作品だろう、鏡花はゲンかつぎに酉年生まれの向かい干支であるウサギの置物やなにやら集めていたが、それに似せたウサギを作って膝に乗せた。御丁寧に夜光塗料を塗ってある。しかしそれを制作中に富岡八幡の骨董市で鏡花旧蔵のウサギと同じ万古焼きのウサギを入手したので、それを代わりに膝に乗せるか、頭上の月に対応させるかしてみたい。いずれ着物美人でもいれば並べてみたいが、高野聖の一場面が制作できればもう良いかもしれない。いや円朝と鏡花はおそらく面識はあったろう。燭台はさんで並べてみるのもオツかもしれない。だったら柳田國男もいる。円朝で試みた手法に合う作品があれば、随時作品化していきたい . 『寒山拾得-描かれた風狂の祖師たち-』(栃木県立博物館)寒山拾得だらけを入手。この二人、髪はボサボサ、爪は伸び放題。なのにどれを髭は剃っている。何か理由があるのだろうか。 藤井聡太四段連勝記録ストップ。ホッとした中学生もいるだろう。私の母は高校野球見ていても、活躍する生徒がいると「お母さんはさぞ喜んでいるだろう」と涙ぐんでいた。こういう孝行息子の活躍に迷惑している中学生は全国に山ほどいるに違いないのである。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日は目が覚めたら朝でなくまだ夜だった。遠足ではしゃいで帰ってすぐ寝てしまい、目が覚めたらまだ夜だった小学生のようである。子供にするとトワイライトゾーンにでも入った気分であった。 こんどこそ朝。どこかで子猫が鳴いてるな、と思ったら私が息を吐くとその音がする。ちょっと面白かったが起きてパソコンの前に座ったら次第に消えてしまった。 昨日書いた、好きなことしかできない私が殊勝にも我慢を覚えようと量産工場に就職したのは、陶芸の学校で7つほど年上の沖縄出身の苦労人に出合ったからだが、電話をしてもつながらず、今年に入って年賀状のやり取りだけの同級生に40年ぶりくらいに電話をしたら、3年ほど前、脳梗塞で倒れ、アーウーとしか言えてなかったという。私が知っているだけで2度目ということになる。組合にも所属しておらず、消息は不明であった。そこで、個人情報云々あるだろうから、うるま市の観光課に、工房に以前お邪魔した観光客として電話して訊いてみた。まったく標準語の若い女性が出て、あとで直接行って様子を見て来る、といってくれた。さすが沖縄である。ほどなく電話があり、誰もいないようだが、作品は随分あったという。何か判ったらまたお知らせする、とまでいってくれた。おそらく仕事はやっておらず、どこかの施設にでも入っているのではないか。 30数年前、私が一つ140円で物干を溶接しながら人形を作っているところに現れ。中東に石油タンクの溶接にいくが、一緒にいかないか、と誘われた。サムライになれるといわれたらしい。その時の稼ぎで立派な工房を構え、私はサムライになり損ねた。おそらく生きてはいるだろう、と思うことにした。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


   次ページ »