古代の洞窟に描かれた絵や子供の絵には陰影がない、という話を聞いた。なるほど、そういわれると陰影は分別の象徴のように思えなくもない。 私は小学校3年の時、陰影を描いて騒動になったことがある。私の描く絵は子供の絵じゃない、といわれつづけ、たとえば交通安全のコンクールにも、私の作品だけ出し忘れた、などといわれた。褒めてくれるのは同級生だけであった。3年の時、産休になった先生の変わりに担任になったT先生はようやく褒めてくれたが、隣のクラスの担任が、どうゆうわけだか盛んに子供の絵じゃない、と私の描く絵をボロクソにいうのである。確かに他の連中はマッチ棒のカカシが地面に倒れているような絵を描いているのに私は筋肉を意識していたし、太陽から在りもしない放射状の線を何故みんな描くのが理解できないでいた。 私は図工の時間は大好きであったが、苦手だったのが写生である。目の前の物や、光景を描くのがまったく面白くない。それに引替え、遠足に行った後に、そのときの光景を思い出しながら描く、なんていうのが好きだあった。記憶にサービスを加えるのが何よりも楽しい。ある時、池に浮ぶボートを描いたのだが、池には当然ボートの影がユラユラと映るだろう。なんで隣の担任がそれを授業中に観に来たのかは知らないが、なんでこんな物を描くのだ、と私は問いつめられた。この時のことは母も父兄会の時に訊いて未だに憶えている。 小学三年で陰影を描いてしまった私がここへ来てようやく陰影から開放されるに至った、ということなのだろうか? ところで私はチャイムが鳴っても図書室から出て来ないくらい本好きで、なかでも大好物だったのが人物伝の類いであったが、T先生は学校を去る時、世界偉人伝という本を内緒でくれた。そして私は相変わらす人物伝を毎日のように読み続け、人物像に私なりのサービスを加えているのであった。
※不細工な絵だが、唯一残る小学2年生の時の絵である。これを見ると、隣の担任は私のもっと別のことを心配していたのではないか?と思われそうなので弁解しておくが、叔母が寺に嫁ぎ、遊びに行った時に描いた絵である。
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