帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

非行と不良

2006年06月13日 | Weblog

一見同じように見えるこの両者の根本的な違いは、幼い頃よりどういった教育を親から施されてきたかniにあり、良心と共にきちんと育ててきても、本能が弱いのが非行、虐待や育児放棄、また良心というものを親からもらわなかった子は不良。 
校長は、不良を直すことは不可能といいます。 まあこの場合の不良は、完全に人間としての基礎が崩壊している場合と考えるほうが良いかもしれません。 少しくらいの問題は多くの生徒との共同生活にて善悪の判断や区別が付くようになりますから、こうした意味では軽い不良は直せるという事ですね。
非行はきちんとした親の愛情があるわけですから、後は生きる力を強くしてあげれば自然に自分で前を向いて歩むようになる。
私が出会う事のあった親御さんたちは、みんな普通の人たちで、だれひとりおかしな人間はいなかったというのが私の中にある。
それぞれ、さまざまな生活を背負いながらも懸命に子供のためにと頑張っているわけで。
そうした親を誰が責める事が出来るであろうか。
たとえて言うなら、ある子の家は痴呆の老人がいて、それがどれだけ家族に多大な負担をもたらすかは、言わずともわかることで、仕事と生活、そして介護とさまざまな板ばさみのなかで、どうしても子供にまでは気持ちが回らない、子供の純粋な心を親の疲れが遮断するようなことがあったとしても、そうした親の苦しむ姿を目にしていない事などは無く、その姿に自分は何をすべきかを学ばなければならないのは子の務めだ。 しかしながら、現実には、そうした親の大変さなど理解することなく、いや理解しようとも思わず、ただ自分が求めてもなかなか得る事の出来ない親の愛情を、親を困らせる事で振り向かせようというのは、それが子供にとって正等であれ、人間としては正等になりえない。
こうした子供達が問題をおこすと第三者が必ず口にするのが、「親の愛が足らないからだ」とか、「介護の大変さは分るが、子供にはそれがわからないのだから」と軽々しく口に出し、親を攻撃する人間もいる。
しかしながら、こうした考え方はあくまでも子供の理論の側に立つものでしかなく、人間としての理論に立つものではない。 人は人として育てなければならないもので、子供として育てるものではないからだ。
子供の目線に立つという考えが大嫌いなのは、その考え方が、あくまでも子供という目線にたっていることで、人としてどうなのだ、人間としてどうするべきかという目線ではない事にある。
人権という言葉は、英語のヒューマンライトかきており、意味は至極簡単、人として正しい事という意味だ。
宗教的には神という存在がいて、聖書があり、それを規範として人としての正しさを問う、という考えに立つ言葉だ。
すべてこれを基にして善悪や倫理を考えるのが欧米であり、そうしたものがない日本に子の考え方をそのまま導入すればおのずとおかしくなる事は目に見えている。
日本における人権は、それを行使する側が自分にとって都合つけるためのものであり、そうであるのなら、この国の教育を崩壊させた昔の某事件をめぐる名古屋高裁および最高裁で使われた人権無視という言葉は、単に事件においての判決を出すためだけの便宜で使用されたものでしかなく、この国の将来や子供達の教育がそれによりどうなってしまうのかという事などなんら考えることはなかったのだとしが言いようがない。
現実問題として、この判決以降、学校教育が人権の名の元に失われたのは紛いもない事実なのだから。