帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

間違っちゃいね~か? 傷つくという意味

2008年04月08日 | 研究-教育・育児
最近、特にこの数年くらいのことですが、子供達の心を表す際にやたらと“傷ついた”という言葉を多用する傾向があります。

友達に苛められて傷ついた、学校で先生に叱られて傷ついた、テレビで放映された番組をみて傷ついたと、生きていくのに避けることの出来ないような些細な事にまでやたらと多用される“傷ついた”という言葉。

実は、「ほら可哀想でしょう」と云わんばかりのこの言葉そのものが私は大嫌いでして・・・。

言い方が悪いかもしれませんが、子供たちにはどんどんと傷つく経験をして、次から次へと傷を癒して立ち直ることを積み重ねつつ、自分の力で処方する技術と免疫を持ってもらいたいと思っています。

目の前で親が惨殺された、自動車事故にあうのを目の前で見てしまったというような、大人でも耐えることの困難なものを見てしまって傷ついたという言葉を使うのは分らなくもないわけですが、それ以外の普通に生きていれば当然にできる程度のものは傷つくというようなものではなく、単なる摩擦。

「どうしてこんなに傷つく事を恐れるようになってしまったのか?」
「そもそも傷つくという言葉の意味の解しかたと、使い方が間違ってるのではないだろうか?」


人として生きているという事、それそのものは、それは常に他人との摩擦の連続であり、そこにはその年齢と時代に応じた心の戦いというものが避け得ない絶対的存在として有るわけで、
たとえて云うならよく小学生は残酷だといいます、大人からすれば「ぎくっ!」とするようなことや「言い過ぎだろう・・・」ということを平然と口にします。

ただ、それはまだ思春期前の人格形成期間であれば当たり前のことであり、やがてその時期が来れば、言葉と意味を経験をふまえて統合学習しながら使わなくなるように出来ており、それは極自然な心の成長ということで、これもまた人の成長としては避け得ないわけです、

ところが、そうしたステップを経る形の成長を無視し、言うなれば大人の不要な介入(過干渉)により、あらゆる面に渡って傷つくからという言葉を根拠とした規制を引き、抑えつけようとする。

そもそも、人を思いやるという事そのものは、それに見合ったつらい思いや経験があるからこそ得えられるのであって。
その経験なくしては“思いやる”ということそのものが成立しないということ。

殴り合いの喧嘩をしたことが無い者に、手加減というものが備わらないように(だから最近の子は相手を殺傷してしまいます)、経験を伴わない知識としての傷つけない方法というものは、あくまでもテクニックの範囲であって、またそれをいくら上手く行使したとしても、そうした技術的なものだけで気持ちを伝えることなど出来はしません。

人間に必要な“経験”は、必要だからこそ“経験”する為にあるということです。

同じようにやさしさというものも、その人間に強さという背景があって初めてなりたち、そこにゆるぎない心の安定があるからこそ、人に話す言葉にしても態度にしても優しさが現れる。

よく「優しい子にするのだ」といって、親が都合よく物事を目隠ししたり捻じ曲げることが良く有りますが、
それが単なる人格形成においてのアンバランスを生み出しているのだということにほんとうは気づかねばなりません。

どうも、育児書はそういった事実を無視して理想論だけに終始している傾向があり、だから故に理想的に見えるわけですが、本来人間の持つ喜怒哀楽の感情をねじ曲げることがこうした書物の基本にあるわけでして。

理想をかたって、不自然な事実を発生されているということですが、
バランスの取れた現実的な経験を色々させないことは、思いやりも強さも両方得られないという事そのものでしかないのですがね・・・

どうも、少しでも子供が嫌な思いをし、それで多少でもふさぎ込んだり、泣きでもすると、本人より親が勝手に先回りして傷ついたと騒ぎ立て、また回りもそうした親に振り回されている。

これそのものは子供が自分で物事を解決させる能力を親が摘み取っているわけで、過保護のさきにある親の過干渉、そして他人との摩擦に何の抵抗力を身につけることのできない人間を成長させてしまっていることになるわけです。

昔は、強くなれと育てられたのが普通、「なんだ! そんなこと!」、「泣きいれてるんじゃないよ!」とグズグズしていると親から叱られたものですが、特に父親はそうした存在だった。
失恋にしても、昔はたくさん失恋してたくさん傷ついて、そしてそこから自分をしっかりとみつめられる人間に成長していくことが、幸福な家庭をつくる礎になるとされていた。
しころが、今は強くなることは暴力的なイメージとリンクされ、失恋を乗り越えろと下手に言うと無神経なやつされるために、そんなこと誰も言わなくなった。


いつのまにやら心の成長を促すという社会的な視点が失われ、甘やかしを優しさと混同している親が子供の顔色を伺って、優しさごっこを演技する。

先も書いたけど、優しい子に育てるのだといって傷つくことから子供を遠ざけたことで、人の痛みの分からない子に成長し、同時に自分がほんのわずかでも突付かれると傷ついたといって保護をもとめる。

それが相手を死に追いやるまでいじめる人間といじめられる人間を作り出しているわけで、本来なら小学校で卒業するはずのいじめを今は高校生になってやっているのが普通。

「おかしくはないか?」

それで自分の我侭が満たされず守ってくれなければ、“褒めて育てる・叱らない教育”とやらで怒りの処理が出来ない子たちはすぐに逆切れし、人を平然と物理的に傷つけるか、部屋の中に逃げ込む事になる。


まとめると、褒めて育てる・叱らない教育とやらと同じように存在する優しい子に育てる方法、いい子にする教育、頭の良い子に育てる。

こうした書物を読んで、人間としての自然な心を捻じ曲げ子供を育てた結果が、さまざまな問題を起こす人間の大本であるということ。

これは私が教育についてまがいなりにも現場から研究してきた結果云えることで、
非常に興味深いのが、非行や引きこもり不登校、不良などを立ち直らせるところは日本の至るところにあるけれど、こうした現実と向かい合っている彼らの言葉に共通しているのは、
余計な知識を仕込んで自分の思うとおりの人間を作ろうとするな、親が先回りして傷つくことから子供を遠ざける様なことをするな、常に自分の力で歩ませろ、愛情と過干渉を混同するな、必要なときは感情を込めてきちんと叱れ、という極めて当たり前の言葉たち。

しかしながら書店で並ぶ書物を紐解いてみるなら、こうした現場の声とは真反対の方向へ誘う甘い内容と言葉たちのオンパレード。

特に不登校や引きこもりの子達に対するサポート的な本はまったく逆効果な物ばかり。

私の知る中でもっとも愚かで馬鹿らしい代表例を一つあげて見ましょう。

よく聞く、「学校へ行きたがらない場合、子をぎゅっと抱きしめてあげましょう」という対応方法

「何の役にも立ちませんよ、こんな方法!」、現実をなめたらいかんです。

この場合、抱きしめることで癒されているのは子供ではなくて、”親が癒されて安心する為のものであるということ”、それは不安になる親心を自己愛で満足させ、それを子供のために“愛を見せてあげているのだ”という自分勝手な満足と陶酔をくれる、いうなれば母親の為に用意された言葉であるということ。

そうでなければ本は売れませんし、書いている人は有名になれませんから。

戦っているのは子供自身なのですが・・・