礼を重んじることで、初めて安定した子供たちの社会が学校に形成されるわけですが、これが本能により社会を形成する人間の“自然”な姿です。
さて、そうした基礎的社会集団が、いくら優れた安定を持つものであったとしても。
その構成員たる個々の子供たちはそれぞれ異なるわけですが、集団としての品質を維持する事も本能であり、それぞれの行動に対する許容範囲(基本は防御本能)というものは当然に存在しています(これが発展すると法律になる)。
社会構成の本質は安定ですから、それを仲間の一人だけがかき乱すようなことを重ねるばあい、それは当人だけに留まるものではなく、集団としての利益を損なう物として子供たちに共通で認識されるようになります。
なぜそれが利益を損なうか?というなら、人は基本的に上下を作り出す生き物で、
それが正しい方向へ運用されれば問題は有りませんが、正しくない方向へ運用されることもしばしばある。
正しく運用されれば、人の心を豊かにして強い絆を作り出していくものですが、正しく運用されねば、壊れやすくて非常に冷たい人間関係を生み出します。
一人の人間が、ある社会の構成員として過ごしていくということは、そこに必ず心のぶつかり合いというものは存在するわけであって、それは在る時は自分が正しくて向こうに過ちがあり、また逆に自分が間違いで向こうが正しいということを交互に繰り返しつつ、互いに謝罪や感謝の言葉を通して全体のバランス補いつつ総合的な力となってそこに有るわけです。
実はここにも礼が有り、たとえ感情に走って大きな心のすれ違いが生じたとしても、時間が経過して冷静になるにしたがい自分の正誤というものがみえてくるわけで、解らなくても友達が諭してくれることもあるし、親や先生が教えてくれることもある。
礼は相手を正しく評価することですから(だから日本古来の相撲や武術は互いの礼を重んじる)。
そしてそれは自分自身の礼を育てる事でもあり、明らかに自分に非があれば、そこには自分に対する礼が要求されるわけで、
すなわち自分の沸きあがる怒りの感情を理解しコントロールし、取った行動の何たるかを見つめる力というものが必要となるわけです。
以前も書いていますが、褒めて育てる・叱らない教育は、こうした怒りの感情をコントロールする力を育てないどころか(当然に礼が育つことは全くない)、不必要に褒めることにより(こうした教育法を薦める者は、褒める事の意味は”子供を賛美することだ”と平然に言い放つものさえいます)、自分は他の子より優れているのだ、偉いのだというすり込みを幼い頃から徹底されながら育ちます。
まさに多くの犯罪の基となる恐怖の教育法そのものですが、
*注意 私は自然な感情により褒める事をおおいに肯定しています。
“不正な褒める”をやめろといっているだけですから、間違えないでくださいね。
謝るという事は、それそのものが力であり高い能力を要求されることで、
なぜなら、まずは自分というものを冷静に分析して鑑みる力(自分を二つにわけて間違いのある自分をへりくだらせ礼をとる)と、相手の気持ちを思いやる力、そして謝るに必要な自分の怒りの感情を制御することが出来て初めて成り立つもの、それは人間らしさそのもの、といってもいい訳です。
繰り返すようですが、謝れないという事は自分に対しての礼が作り出せないということであって、人格としては致命的欠陥となります。
当然にすれ違いのあった相手や、当事者達を見つめる周り者からすれば、起きている事の判断は初めから冷静で有り、謝れないということが社会秩序を破壊する可能性があると捕らえるのが普通ですから、謝れない人間=異物=害悪、そしてそれを正そうとする行動が起きる、そのもっとも基本的本能行動がいじめというわけです。
まだ思考の幼い年齢であるなら、いじめと供にダイレクトな言葉も発せられることが多いですから、この段階で自分の過ちに気が付いて正す事もできますが、
思春期になると、いじめる側も自分を守ろうとする気持が出てきますし、相手に直接的な言葉で伝えることで深く傷つける(このことばでやたらと大騒ぎしてさらに事態を悪くもしている)可能性を考えて遠慮するようになります。
なにより、人間関係が複雑化しますから、あえて大きな紛争を引き起こしてまで礼の無い物を諭そうとは思わないわけです。
だから難しくなるわけですが、間接的にメッセージを放って相手が悟ってくれる事を望むものの、当然に無理もしていますので、その分不快の感情も強くなりますからどうしてもいじめはエスカレートします。
この段階で先生や大人がいじめを止めさせようとしても、社会を構成して秩序を保とうとする“人の本能”がそもそもの行動を起こさせているわけですから。
簡単に収まるはずがない・・・
更に問題なのは、今度はいじめる側の礼の能力というものがここでも関係してくるわけで、いじめるにしてもいじめられるにしても、その行動の発生原因である“怒り”は共通ですから。
今のように叱ることを家庭でも学校でも社会からも排除する環境で育てばおのずと怒りを制御する能力を育てない“褒めて育てる・叱らない教育”と似たような状態となり、全体の歯止めが効かず、相手が死ぬまでエスカレートする。
それが今の子供達の姿と云うことです。
怒りを処理する能力は正しく褒め、正しく叱る、ことで育ち、
そしてそれにより感情制御が出来ることがきちんと謝るという正しい行動を起こさせるわけです。
怒りのコントロールが適切に出来れば凄惨ないじめ等なくなるわけで、事の解決その物は本来難しくもなんともないものなのです。
毎日のように起きる、いまだ有効な対策も打てない凄惨ないじめ、
その原因が甘い理想を語った卓上理論を信じた事に全て起因しているのだということを、みんなが早く気づかねばならないわけですが・・・
さて、そうした基礎的社会集団が、いくら優れた安定を持つものであったとしても。
その構成員たる個々の子供たちはそれぞれ異なるわけですが、集団としての品質を維持する事も本能であり、それぞれの行動に対する許容範囲(基本は防御本能)というものは当然に存在しています(これが発展すると法律になる)。
社会構成の本質は安定ですから、それを仲間の一人だけがかき乱すようなことを重ねるばあい、それは当人だけに留まるものではなく、集団としての利益を損なう物として子供たちに共通で認識されるようになります。
なぜそれが利益を損なうか?というなら、人は基本的に上下を作り出す生き物で、
それが正しい方向へ運用されれば問題は有りませんが、正しくない方向へ運用されることもしばしばある。
正しく運用されれば、人の心を豊かにして強い絆を作り出していくものですが、正しく運用されねば、壊れやすくて非常に冷たい人間関係を生み出します。
一人の人間が、ある社会の構成員として過ごしていくということは、そこに必ず心のぶつかり合いというものは存在するわけであって、それは在る時は自分が正しくて向こうに過ちがあり、また逆に自分が間違いで向こうが正しいということを交互に繰り返しつつ、互いに謝罪や感謝の言葉を通して全体のバランス補いつつ総合的な力となってそこに有るわけです。
実はここにも礼が有り、たとえ感情に走って大きな心のすれ違いが生じたとしても、時間が経過して冷静になるにしたがい自分の正誤というものがみえてくるわけで、解らなくても友達が諭してくれることもあるし、親や先生が教えてくれることもある。
礼は相手を正しく評価することですから(だから日本古来の相撲や武術は互いの礼を重んじる)。
そしてそれは自分自身の礼を育てる事でもあり、明らかに自分に非があれば、そこには自分に対する礼が要求されるわけで、
すなわち自分の沸きあがる怒りの感情を理解しコントロールし、取った行動の何たるかを見つめる力というものが必要となるわけです。
以前も書いていますが、褒めて育てる・叱らない教育は、こうした怒りの感情をコントロールする力を育てないどころか(当然に礼が育つことは全くない)、不必要に褒めることにより(こうした教育法を薦める者は、褒める事の意味は”子供を賛美することだ”と平然に言い放つものさえいます)、自分は他の子より優れているのだ、偉いのだというすり込みを幼い頃から徹底されながら育ちます。
まさに多くの犯罪の基となる恐怖の教育法そのものですが、
*注意 私は自然な感情により褒める事をおおいに肯定しています。
“不正な褒める”をやめろといっているだけですから、間違えないでくださいね。
謝るという事は、それそのものが力であり高い能力を要求されることで、
なぜなら、まずは自分というものを冷静に分析して鑑みる力(自分を二つにわけて間違いのある自分をへりくだらせ礼をとる)と、相手の気持ちを思いやる力、そして謝るに必要な自分の怒りの感情を制御することが出来て初めて成り立つもの、それは人間らしさそのもの、といってもいい訳です。
繰り返すようですが、謝れないという事は自分に対しての礼が作り出せないということであって、人格としては致命的欠陥となります。
当然にすれ違いのあった相手や、当事者達を見つめる周り者からすれば、起きている事の判断は初めから冷静で有り、謝れないということが社会秩序を破壊する可能性があると捕らえるのが普通ですから、謝れない人間=異物=害悪、そしてそれを正そうとする行動が起きる、そのもっとも基本的本能行動がいじめというわけです。
まだ思考の幼い年齢であるなら、いじめと供にダイレクトな言葉も発せられることが多いですから、この段階で自分の過ちに気が付いて正す事もできますが、
思春期になると、いじめる側も自分を守ろうとする気持が出てきますし、相手に直接的な言葉で伝えることで深く傷つける(このことばでやたらと大騒ぎしてさらに事態を悪くもしている)可能性を考えて遠慮するようになります。
なにより、人間関係が複雑化しますから、あえて大きな紛争を引き起こしてまで礼の無い物を諭そうとは思わないわけです。
だから難しくなるわけですが、間接的にメッセージを放って相手が悟ってくれる事を望むものの、当然に無理もしていますので、その分不快の感情も強くなりますからどうしてもいじめはエスカレートします。
この段階で先生や大人がいじめを止めさせようとしても、社会を構成して秩序を保とうとする“人の本能”がそもそもの行動を起こさせているわけですから。
簡単に収まるはずがない・・・
更に問題なのは、今度はいじめる側の礼の能力というものがここでも関係してくるわけで、いじめるにしてもいじめられるにしても、その行動の発生原因である“怒り”は共通ですから。
今のように叱ることを家庭でも学校でも社会からも排除する環境で育てばおのずと怒りを制御する能力を育てない“褒めて育てる・叱らない教育”と似たような状態となり、全体の歯止めが効かず、相手が死ぬまでエスカレートする。
それが今の子供達の姿と云うことです。
怒りを処理する能力は正しく褒め、正しく叱る、ことで育ち、
そしてそれにより感情制御が出来ることがきちんと謝るという正しい行動を起こさせるわけです。
怒りのコントロールが適切に出来れば凄惨ないじめ等なくなるわけで、事の解決その物は本来難しくもなんともないものなのです。
毎日のように起きる、いまだ有効な対策も打てない凄惨ないじめ、
その原因が甘い理想を語った卓上理論を信じた事に全て起因しているのだということを、みんなが早く気づかねばならないわけですが・・・