帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

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「よろしく!」  

ほめていれば、叱らなければ、優しい子に育つのか? その2

2008年04月17日 | 研究-教育・育児


分かりやすくする為に簡単な例をあげるなら、何が有ってもドンと構えているお父さんがいて、逐一まとわりついてくる我が子の頭をグシャグシャなでまわしている姿に優しさは見えても、
そうされている子供がお父さんに優しくしているとは誰も思いません。

女性が優しい男性を求めるのも、基本は保護にあり、種族保存において自分と子供たちを中心とした家庭という社会を構成していく強い能力を相手に求めているわけです。

と、こう書くと夢も何も無いので、女性からは嫌がられますが (^^;)はは

ただ、青少年問題を考える上ではそんな事をいっていられませんから、このまま話を続けます。

では、どうしたら優しくなれるのか?という事ですが、

まずは逃げない姿勢、これは心そのものが強くなければなりません。
優しさは強さそのものであるということです。

いかなる状況でも逃げずに闘うことで困難を乗り越えようとする強き精神と、そうした心にまで成長するまでに学んだ数々の経験と体験が有って初めて動じない安定した心となります。
嫌なことや辛いことからひたすら子供を遠ざけていれば優しい子になるとおもっているとまったく反対の結果が出る・・・
代表的な例が教室で他の子が先生に叱られているのをみて、気分が悪くなった、学校に行けなくなったというのがまさに代表的なもの、こうした子はまずまともな人生を歩むことはおろか、将来の不登校を100%約束されたと思ってください。

話しを戻します、優しい子=強い心を持つ子にするには、正しくほめる事と叱る事で子供を育てることが必要。

ただし、ほめて育てる・叱らない教育ではこれが出来ません。

褒める事はとてもよいことです、しかしそれはあくまでも子供の進歩を親が感じとった際に“自然に起きてくる喜び”をもとにすべきものであり、

それ以外に褒める事を多様(悪用)したとて、それはあくまでも親の演技による謀りごとでしかなく、子供のためというお題目を唱えながら実は親が都合よく子供をコントロール(子供の心を騙す事)する事にほかなりません。

実は褒めて育てるという教育法をやりたがることそのものは、子供の成長に親の欲を絡めていることがほとんどで、短的には独りよがりな目的の為に的はずれな知識を鵜呑みにして子供に接するわけです。

人間は親の心のをそっくりそのまま身に着けて成長しますので、こうした育て方では、
親は自分の目的の為に褒める=子供は褒められる為の行動を目的とするようになる=常に何らかの評価や利益が無ければ行動しない人間として育つ=大人へ成長していくに従い備わってくるはずの、“自分の為になす”(利益ではない)喜びというものを学んで成長することが出来ない。

となります。

本来親の自然な喜びを元にして育つということは、喜が常に利益をもたらすものだけではなく、無償のものや、何気ないもの、奉仕することまで含んだ豊かなものであることを学ぶことになります。

親が自分勝手な目的のためにやたらとほめる事と、自然にわきあがる感情をもとにして素直にほめることでは、これだけの差が生まれてくるわけです。

この二つの差が出る簡単な例をあげましょう。
育児ですが、それそのものは無償であり、しかしそれが喜びそのものであるわけです。
ところが、褒めて育てる・叱らない教育を受けて育つと、子供を育てるに逐一利益(報酬)を求めるようになります。
さまざまなストレスと思うようにいかないのが育児の当たり前。

当然の事ながら怒りを制御できないのが褒めて育てる・叱らない教育で育った人間の最大の特徴ですから、この二つが合わさり幼児虐待や育児放棄が平然と起こるようになる。
正しく叱ろうにも自分がそれを学んでいたいために、出来ないという致命的な問題も生じます。

また、育てられたとおりに”自分の為に子供が何がしかをするのが当たり前”になっていますから、子供のそのものの人格ではなく学校の成績ばかりを気にするようになる。

自分の行動により子供が必ず結果を見せてくれねばならなくなるわけですね。

もちろんこれが如何におかしな事かは、褒めてそだてる・叱からない教育を受けてきた人間にはわかりません。

それそのものが”その人”となっているからです。
だから虐待をしてもそれがなぜいけないのかということが分からない、また虐待を自分でとめることが出来なくなる。

それを防ぐための優しさを構成する要素がこうした育ち方をすると無いわけです。

人の行動は本能を行動の源にしていますから、本能を無視した歪んだ教育を受ければ育児という本能すらまともに働かなくなるのはこれまた当たり前のことであって、心の闇だとかなんだとかいっても、その原因と本質は難しくも何ともなく、とても簡単なものなのです。

常々繰り返していますが、叱らない教育は、生きていれば避け得ない自分へ向かってくる攻撃や困難、苦しみなどに遭遇した時、自分の心に発生する怒りの感情を押さえ、そしてその怒りを自分の正しい未来へ生かしていくという重要な力を育てません。

優しさの基本である、強い心と安定というものが無く育てば、親殺し、子殺し、動物虐待、凄惨ないじめ等がなぜ多発してくるのかという相関関係は容易にお分かりいただけるかと思います。

次に、優しさを構成している思いやりですが、優しさと思いやりは別々に使われることがあります。
例をあげましょう。
ある人物がとてもきびしい態度だったとします、ただそこに相手の未来における進歩を望んでいることが明確である場合、
たとえそれが攻撃的に見えたとしても、それをする側と、受けとるほうの両方に相手の心を読み取る正しき力があれば、“思いやり”という解釈が正常に成り立ちます。
攻撃性が無い場合は優しさになりますから、優しさそのものは思いやりの一部とし考えることも間違いではないかもしれません。

その3へ続く