子供がいじめられる原因の一つに、自分が悪いと思っても相手に謝れないということがあります。
小学校低学年くらいだと、なんとなく時間の経過と供にうやむやになったり、相手が謝ってくれたりということで何とかなりますが、思春期を迎える頃になると、そうは行かなくなってきます。
というのは、思考能力の成長と供に、それぞれが共通認識として持ちうる問題をどう解決出来るか?ということが、その人間を見る物差になっていくからです。
すなわち相手の人格というものを意識し始めるわけですね。
いじめの問題が凄惨になってくるのは思春期を迎える頃からですが、
それ以前のいじめはそこまでの認識がないからで自然とブレーキがかかるようになっています。
ところが、年齢が増すごとに先の学校や友達関係における社会認識、すなわち大人の社会へ参加する為の予備的な基礎社会集団というかたちを本能が認識し始めるわけで、同時にその社会を維持する為の制裁的価値観という物も構成されるように人間は出来ています。
子供同士の中でその集団を安定させる暗黙のルールというものが出来てくるわけですが、まだ経済的な概念を大量に盛り込んで構成されている大人の法律というものをあてはめることは出来ませんし、そうした意識もありませんから、その代わりにごく身近な者をルールとして置く事で安定をとろうとします。
代表的なものとしては先生という存在があり、クラスを初めとして友達関係にまでその影響が波及することは珍しいものではありません。
(故に体格的に同程度になるほど存在がうすれて難しくなるわけですが)
よく学級崩壊という言葉がきかれますが、この原因自体は非常に簡単なもので、
いうなれば先生に社会的正義を中心とした“礼”が無い場合、学級という社会の構成力が崩壊して起きるもので。
実際、一番顕著に崩壊する先生のタイプは当然ながらお友達先生なわけですが、それは次の理由からごく当たり前のこととして説明できます。
“礼”そのものは上から下への正当な評価であるのが本来の正しい意味で、評価する為の先生は明らかに子供たちより上の存在でなくてはならず、信頼と正しさが子供たちに安心を与えるわけです。
ですから先生はあくまでも上の立場、そして生徒は下の立場であるという上下関係がしっかりと確立されていないことには、そもそも成り立たない。
そうした上下関係は支配だとして、同じ立場を中心とした友達関係を先生が作り出すわけですが、したとて、子供たちは自分の都合よい愛情を得ることだけが目的となり、指導する立場としてもっとも正当な正しい評価(礼)を期待しなくなります。
ましてや教師はサービス業だなどと言い出すにいたっては。
先生が下、生徒は上、という逆転関係と、こうした学校における生徒の自由という言葉はたんなる無秩序にすり替わるわけです。