帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

雑巾?と日本人の心

2008年04月16日 | Weblog
この間から久しぶりに任された新人教育、技術教官もすることある僕にはいつもの事ですが、今回はまあまあ使える2人。

アメリカに生まれ育った彼ら、東洋の島国に来ておかしな叩き上げ英語をつかう日本人の僕に、自国の物を学ばせられるとは思いもしなかったでしょうね。

厚さ10cmほどある分厚い専門書を基にいろいろと教えていきます。

一区切りついたところで、心の訓練でもやらせるかとばかりにバケツに水を汲んで洗剤とブラシ・雑巾を渡し、綺麗になるまで徹底してこれを磨き上げろと課題を出します。

1時間ほどして「マスター終わりました!」 ←そんな歳じゃないんだけど・・・   (^^;)

と来たので見に行くと、「まだまだ・・・」と一言。

もう一度やりはじめて30分、呼ばれて再び見に行くとまだ駄目。

当然に再作業。

更にしばらくしてまた来ても再再度の駄目出し。

繰り返される駄目に、思惑通りふて腐れ始める2人、そろそろかな思った時点で日本人の考え方と掃除をからめて教えます。

日本刀でもみせて心でも説けば確かに恰好は良いですが、それではまったく現実感がない理論だけの話になってしまいます。

雑巾の方が遥かに具体的に分かるのですね。

磨き上げた終わりが、僕のOKだと思っている事そのものが誤りである事をどう教えるか、 なぜ終わりが私の基準ではないのか?

という意味を理解させることが、突き詰めれば彼らの未来に大きな財産を残します。

一人は結構まともな教育を受けているので、即座に理解してやり始めますが、もう一人はなんとなく反抗的。

こうした場合、更にいくつもの例をあげて補足していくことで徹底して“なぜ”という意味を教えます。

最後に今度はどこまでで終りか自分達で決めろと言い放ち其の場を離れました。

指示を待つな、掃除は作業ではなく心と考えろ、終わりは常に自分にある、故に何をするべきか?

こうした言葉の先に有るものを彼らが理解してくれていることを僕は望むのです。

しかし、片言の日本語で「先生」、「先生」と人懐っこい・・・

僕の祖先が侍かどうか聞いてくる彼らは、ほんとうに純真です。


褒めていれば、叱らなければ、優しい子に育つのか? その1

2008年04月16日 | 研究-教育・育児


よく、あの人は優しいと僕達はいいます、でもどういったものが優しさなのかという明確なものはありません。

ぱっと思いつくものをあげてみるなら。

態度が優しい、接し方がやさしい、言葉が優しい、ということになりますが、
これら全て対物、対動物、対人間への“行動”そのものを表しています。

共通しているのは攻撃性が感じられない、ということですね。

しかし、単に攻撃性が無ければ優しいのだとすると、無感情な物はすべて優しいということになってしまいますので、他に重要なファクターがあると考えねばなりません、はたしてそれは何なのか? 答えは“思いやり”というやつです。

* 優しい雨というような表現がありますが、これは雨というものに人間の感情を擬制して考えるためで、ここでいう優しさとは違います。

これは相手の気持ちを考えられる、相手の心を察することができる、そしてそれに応じた行動が適切に取れるということですが、

この思いやりと攻撃性の無い事が合わさると一般的に言われる優しさになるわけです。

これをすこし細かく分析してみましょう、すると優しさの基になる攻撃性がないということは次の二つに分けて考えられます。

一つは優しい方の持つ力が相対的に強くて防御する必要がないことから攻撃性そのものが現れない。
もう一つは優しいほうが完全に逃げの姿勢にあることにより攻撃性そのものが感じられないということです

後の方は、時折カウンセラー等がよく引きこもりの子や不登校の子と接して、親や友達を気遣う等のその姿を見て「優しい子だ」と表現するわけですが、僕からすればこうしたカウンセラーの物言いは心を読み込む能力が無い事を露呈しているようにしかみえない。 
優しいという事をそもそも誤って解釈しているとカウンセリングに効果はでません、きちんと分かっているのなら、200万人を越える引きこもり問題はとっくに解決していますから。

この場合の子供から発せられる気遣いは、本当に気をつかっているのもありますが、それ以上に大きなウエイトを占めるのは自分への攻撃防御のために終始周りからの情報を気にして張りつめている状態であり、一見すると思いやりに見えますが、その背景には必ず怯えが存在しているわけです。

怯えがあるからこそ、辺りをよく観察するという行動をとるわけで、それを優しさとかん違いしている段階でカウンセラーとしては失格?

本能をほとんど無いものとして(人は神が作ったもので動物と違うのだという考えがあるため)構成されている西洋式心理学をそのまま輸入して人間は自然の一部としている価値観をもつ日本の心理学としているのですから、こうした過ちが生じたとておかしくはなく、カウンセラーの責任ではありませんが・・・


優しさそのものは、先の第一印象的なものから始まり、最終的にそれを受け取る側との心の交流の先に明らかな評価として認識されるものですが。

その際に優しさを決定づけるは、常に心が安定している事と、思いやりのある事、の二点がバランスよく成立していなければなりません。

もし逃げの姿勢が有れば、何を働きかけても自分の都合よい方向へしか返答しますから優しいと思いません。

心が不安定だと、人を思いやる以前に自分の不規則な感情が表に出てしまい、これも優しくは無い。

思いやりが無ければ、どんな態度も優れた言葉のも相手に伝わりませんし、下手すると平然と心に擦り傷を負わせてしかもそれが分からない人間となる。

優しさとはそうしたものですが、

これを「本能で優しさを考えるとどうなるか?」ということですが、優しさは社会形成本能の一部であり、種族保存本能とかさなって存在するものであるということ。
基本的に優しさは強者と弱者との関係が大きくなるほど鮮明に成り立つもので、
強者が弱者に優しくすることは、社会形成という見方からは保護と上下の構成関係を明確にさせるという意味しかないわけです。

注意:思いやりは上下関係の明確化とは別のものです