この間から久しぶりに任された新人教育、技術教官もすることある僕にはいつもの事ですが、今回はまあまあ使える2人。
アメリカに生まれ育った彼ら、東洋の島国に来ておかしな叩き上げ英語をつかう日本人の僕に、自国の物を学ばせられるとは思いもしなかったでしょうね。
厚さ10cmほどある分厚い専門書を基にいろいろと教えていきます。
一区切りついたところで、心の訓練でもやらせるかとばかりにバケツに水を汲んで洗剤とブラシ・雑巾を渡し、綺麗になるまで徹底してこれを磨き上げろと課題を出します。
1時間ほどして「マスター終わりました!」 ←そんな歳じゃないんだけど・・・ (^^;)
と来たので見に行くと、「まだまだ・・・」と一言。
もう一度やりはじめて30分、呼ばれて再び見に行くとまだ駄目。
当然に再作業。
更にしばらくしてまた来ても再再度の駄目出し。
繰り返される駄目に、思惑通りふて腐れ始める2人、そろそろかな思った時点で日本人の考え方と掃除をからめて教えます。
日本刀でもみせて心でも説けば確かに恰好は良いですが、それではまったく現実感がない理論だけの話になってしまいます。
雑巾の方が遥かに具体的に分かるのですね。
磨き上げた終わりが、僕のOKだと思っている事そのものが誤りである事をどう教えるか、 なぜ終わりが私の基準ではないのか?
という意味を理解させることが、突き詰めれば彼らの未来に大きな財産を残します。
一人は結構まともな教育を受けているので、即座に理解してやり始めますが、もう一人はなんとなく反抗的。
こうした場合、更にいくつもの例をあげて補足していくことで徹底して“なぜ”という意味を教えます。
最後に今度はどこまでで終りか自分達で決めろと言い放ち其の場を離れました。
指示を待つな、掃除は作業ではなく心と考えろ、終わりは常に自分にある、故に何をするべきか?
こうした言葉の先に有るものを彼らが理解してくれていることを僕は望むのです。
しかし、片言の日本語で「先生」、「先生」と人懐っこい・・・
僕の祖先が侍かどうか聞いてくる彼らは、ほんとうに純真です。
アメリカに生まれ育った彼ら、東洋の島国に来ておかしな叩き上げ英語をつかう日本人の僕に、自国の物を学ばせられるとは思いもしなかったでしょうね。
厚さ10cmほどある分厚い専門書を基にいろいろと教えていきます。
一区切りついたところで、心の訓練でもやらせるかとばかりにバケツに水を汲んで洗剤とブラシ・雑巾を渡し、綺麗になるまで徹底してこれを磨き上げろと課題を出します。
1時間ほどして「マスター終わりました!」 ←そんな歳じゃないんだけど・・・ (^^;)
と来たので見に行くと、「まだまだ・・・」と一言。
もう一度やりはじめて30分、呼ばれて再び見に行くとまだ駄目。
当然に再作業。
更にしばらくしてまた来ても再再度の駄目出し。
繰り返される駄目に、思惑通りふて腐れ始める2人、そろそろかな思った時点で日本人の考え方と掃除をからめて教えます。
日本刀でもみせて心でも説けば確かに恰好は良いですが、それではまったく現実感がない理論だけの話になってしまいます。
雑巾の方が遥かに具体的に分かるのですね。
磨き上げた終わりが、僕のOKだと思っている事そのものが誤りである事をどう教えるか、 なぜ終わりが私の基準ではないのか?
という意味を理解させることが、突き詰めれば彼らの未来に大きな財産を残します。
一人は結構まともな教育を受けているので、即座に理解してやり始めますが、もう一人はなんとなく反抗的。
こうした場合、更にいくつもの例をあげて補足していくことで徹底して“なぜ”という意味を教えます。
最後に今度はどこまでで終りか自分達で決めろと言い放ち其の場を離れました。
指示を待つな、掃除は作業ではなく心と考えろ、終わりは常に自分にある、故に何をするべきか?
こうした言葉の先に有るものを彼らが理解してくれていることを僕は望むのです。
しかし、片言の日本語で「先生」、「先生」と人懐っこい・・・
僕の祖先が侍かどうか聞いてくる彼らは、ほんとうに純真です。