帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

ほめていれば、叱らなければ、優しい子に育つのか その3

2008年04月18日 | 研究-教育・育児

再度登場させますが、褒めて育てる、叱らない教育はやはりここでも大きな問題を発生させます。

心が素直で自然体で有ればこそ、そこに“その人”という姿が現れます、
しかし褒めて育てるという教育を受けてくると、先ほども書きましたが、喜び=利益の為というふうに育ちます。

思いやりそのものは、本来そこに自分への利益というものが無く、まったくもって相手の為そのものでしかありません。
もちろんそれを受けた相手が何がしかの利益をもたらしてくれることはあるかもしれませんが・・・

人の心は非常に鋭い能力をもっていますから、その思いやりが純粋な心から発せられているのかどうかくらいは簡単に見破ります。
褒めて育てられると、利益を目的とすることが当たり前として育っている為に、本人は思いやりだと思っていても、受け取る相手は利益をあてにして思いやりを装っているのだというようにしか見えません。 

非常に”卑しく”みえるわけですが、これが嫌われたりいじめられたりの明確な原因となるわけですが、当然に心を割って話してくれる友人など出来ることもない。
基本的に自分の利益ばかり求める人間に対して心をこうなどとは普通の人はおもわないからですね。

常にあいだを開けられている意識は不安を生じさせ、とにかくみんなとつながっていようとして携帯電話を手放せない、相手が寝ていようがメールをお構いなく送り、即座に返信がこないと不安になる。
仲間の前で違う自分を必死に演じ、何とか関係を保つ為に、そのままの自分を隠し通そうとする。
一日中演技しているわけですから、当然に疲れ果て、常に物事がだるく感じられ、だんだん人と接することが面倒になる。
こうして疲れの限度をある日越えれば、ぷっつりと引きこもりか、逆の問題をおこす。

これすべて、褒めてそだてる・叱らない教育により「思いやりは報酬目的」として育てられてしまったわけですから、それにより嫌な思いをしても、自分の一体どこが悪いのかということも分かるはずもありませんし、それが膨大な苦しみとなる。

こうして育ってしまうと果たして“元にもどせる”のか?

私が研究のために学習をさせてもらっている施設の子達を見る限りは、

「残念ながら出来ません!」とはっきり申し上げるしか有りません。

ただ、違う形ものを学習させることでここでは解決をしていますが、これを普通のカウンセリングや通院程度の事でなんとかしていく事は不可能にちかい・・・。

もちろん本人だけの力ではどうするも出来ません、そういった人間そのものに育ってしまったのですから。

叱らない教育を受けてくると思いやりの心が育ちません、しかし正しく叱られれば育ちまうす。
叱られるという事は、激しい心の葛藤を繰り返すということです。
「大好きな親が、なぜ自分にこんな苦しい思いをさせるのか?」ということを、反発で煮え繰り返る感情の中で考え読み取っていかねばならない。

その繰り返しが、自分の怒りを制御し考える力を育て、将来は相手の心を察し理解し、思いやる心へと成長させる礎になるのです。
よって多くの辛い経験があり(親だけに留まらず他人にしかられる事)、それを乗り越えてきた方がより思いやりのある人間になる。

その原点はすべて幼い頃にあり、幼少期に一番愛情の強い親に正しく叱られるからこそ、怒りの感情を押さえ、それを正しい方向へコントロールしながら生かしていく基礎が出来る。

叱らない教育とやらで育てば、自分の怒りはおろか、他人の怒りを処理する訓練など受けてもいないと同然。
思いやる余裕などあるはずもなく、パニックになった心は本能のまま防御のために相手を消滅(殺傷)させるか逃げるかと、どちらかを選択する事になります

青少年のすぐに切れる、逆切れ、逆恨み、もしくは自分の殻に閉じこもる、殺人、自殺願望、自傷等など、最近の不可解な問題は全て“褒めて育てる・叱らない教育”により育てられた子の数が増えるのに比例している事実は絶対的に否定のしようがないわけです。

優しい子に育てるのなら、親はまっさらな心と自然な感情で褒め、そして叱ること。
恐怖の教育によって(親の利益のために)捻じ曲げた心で育てた子供は、一生対人関係における苦しみを背負っていかねばならないのだという事を、もう一度よく考えていただきたいのです。