とうぜんの事だけど、時は流れる。
家の増築工事を始めたのは、昨年の今頃だったけど、もう一年が経過した。
一冬かかって、完成したのは桜舞う春のこと。
おっぱい飲んで、ただ寝ているだけだった孫は、 昨日食器棚の扉を力任せにもぎとってくれた(笑)。
長年の使用でガタがきていた事もあるけれど、それにしてもな~ 当然、僕は一切叱ることもなく、黙って修理する。
先週まで暑くて仕方なかった外気温は 前線があっさりと秋の空気を運んできて涼しくなり
まだわずかに聞かせてくれていた夏の象徴である、蝉の声を黙らせた。
こうして流れていく大きな時と、その中にある変化は記憶として頭の中に刻まれていく物だけど、
大きな変化だけにとどまらず、もっと小さな単位まで視線を落としてみると、面白い事に気付く。
トイレットパーパーが一日でどれくらい使われたか? 洗濯機の前の脱衣篭に何気なく入っている
衣類の変化?(特に孫のが面白い)、地面を歩く蟻の早さ、バイクのシートに毎朝降りている露の量等々。
こうした小さな変化が一日のまとまった記憶となり、やがてそれが大きな変化になって、
去年はこうだった、昔はこうだった になる。
幸福も、不幸も流動的で、 面白いのは 幸福は 幸 が 福であることを表し。
不幸 は 不 な 幸であるということ。
この二つの組み合わせは 全くもって相対する意味ではあれど、 幸という漢字そのものは 刑と同じ意味を持つ物。
報い(仕返し) 執念、確執等にあるような、逃れられない運命をも意味し、 この漢字の上下左右に 何らかの漢字が接続されなければ、
単に 縄(手かせ等)をはめられる危険を、 危うくも逃れられたという極めて不安定かつ一時的な平穏状態を意味する。
幸という漢字の構成は、 一番上が 土 であり、 下は 草と その下に メ(〆) という文字で成り立っている。
*参考 義 という文字の 上半分は 士(侍)という文字と 草(新芽&初心) からできている.
我は 草 故に士(侍)を志す= 義 =恩(親、友、社会)に報いる。 それが義です。
*僕は羊という文字と考えていません 、羊は単なる奴隷と同じ、そこに意志も、希望も、未来もないわけで、我という文字と一切馴染まないからです。
簡単に説明すると、 人に豊かさをもたらす土を上にして、生い茂る草(命)を従え、最後に 〆る(切る)という、先天的な凶を含むものなのですね。
幸はつねに凶を隠し持っているわけです。
故に、 不幸はこの凶の度合いを意味し、 幸福は 凶を含みつつもしくは凶を反転させて包み込む ”しあわせ”のことだ。
おっと・・・・・・・少しだけ、小さな処まで目を落としすぎたようですね
(笑)
まあ、こうして日々は流れるのだけど、 今日という一日を、どう僕は生きるのだろうか・・・・