教育再生/学力向上とダメ教師排除の先にあるもの

2006-12-05 07:11:28 | Weblog

 自分がダメ政治家であるのに、そのことに気づかずにダメ教師を排除する資格ありとする倒錯的正当性は滑稽なばかりだが、学力向上に適しないダメ教師排除はダメ生徒排除と関係し合い、前者の可能に対して小・中学校の場合は義務教育の制約を受けて後者の不可能が問題を現在以上に複雑にしないだろうか。そして、そういったことだけでは終わらない。

 「教育再生会議・学校再生分科会(第1分科会)」の素案の目玉は「ゆとり教育」の見直しと「ダメ教師」の排除という安倍首相も持論のテーマだと2日(06年12月)の『朝日』朝刊に出ていた。

 記事に出ている「教育再生会議・第1分科会の素案(要旨)」は誰が読んでも分かるようにテストの成績向上に向けた圧力となる力学を孕んだ内容となっている。

 【学力向上】
●学習指導要領を改訂、ゆとり教育を見直す
●1日7時間授業とし、夏休みや「総合的な学習の時間」を減
 らし授業時間を増やす
●国語、英語、算数、数学、理科の授業を重点的に増加
●各校が時間を決められるよう権限を強化

 (「ゆとり」の排除と国語以下の授業の増加は主要受験科目の強化であり、それらを各校の自由な時間割とするのは、すべて学校に間接的にテストの点数上げを強制するものとなっている。授業強化がテスト点数上げにつながるとは限らないとの批判もあるだろうが、読んでいくうちに理解できると思う)

 【教員の資質向上】
●評価に保護者、児童、生徒などが参画
●副校長、主幹を新設。部活動手当てを引き上げ
●5年、10年研修で不適格教員を審査
●不適格教員の免許は更新しない
●特別免許状を活用、社会人採用者を教員の2割に

 (テスト成績や部活成績といった誰の目にも見え、誰にも評価できる成績が主たる評価対象となり、学校・教師は従来以上にそういった評価(テスト成績・部活成績)に自身の能力を託さざるを得なくなる。あるいはそのことに賭けざるを得なくなる。結果的にテストの成績を上げる授業、部活の成績を上げる部活動へと一層加速化されることになる)

 【学校と教育委員会】
●意欲・能力のある自治体には権限を委ねる。そうでない自
 治体は国が指導。支援・監視
●校長に教員人事の内申権を与える
●校長、学校運営協議会が教員を任用する仕組みを導入
●教育委員会の必置義務の見直しを検討
●教育長は教員経験者に片寄らせない
●教委、学校などの第三者評価機関を設置。大学の教職課程
 も監査。(以上)

 (自治体にしても、全国テスト成績順位の高い、進学率の高い、あるいは部活成績の良い小学校・中学校・高校を数多く抱える自治体が「意欲・能力ある自治体」と評価されることになり、学校・教師と同じ立場に立たされることになる。当然、テスト成績と部活成績の向上に向けて自治体内のすべての学校の尻を叩くことになり、学校・教師は保護者及び世間からの圧力だけではなく、自治体からの圧力をも受けることとなる)

 先ず「学力向上」という点に関して、記事にも次のように出ているように、「完全週5日制の導入とともに学習内容が3割削減される02年度の前から、文科省も事実上の『ゆとり脱却』を目指してきた。02年1月には、当時の遠山敦子文科相が、放課後の補習や宿題を促す『学びのすすめ』をアピール。03年には『発展的内容』が教えられるよう学習指導要領を一部改訂。05年2月には中央教育審議会が指導要領の全面見直しを進めている」経緯は、学力テストの国際比較に於ける日本の低い順位等を受けて保守派に属する一部政治家・教育評論家・文化人等が学力の低下を招いたとして「ゆとり教育」を槍玉に挙げる大騒ぎを展開、その騒ぎに不安に駆られた保護者共々、学力向上が一大合唱となった状況を受けた方向転換としてあった事態であって、「素案」がその方向転換をさらに強化する内容を含んでいるのは当然の成り行きとしてあるものだろう。逆に言えば、含んでいなければ「素案」を叩き出す意味を失う。

 12月(06年)3日のテレビ「朝日」の「サンデーモーニング」で、番組のテーマ自体は安倍教育再生会議で議論した「いじめ問題」だったが、出席者の一人である学校にゆとり教育を導入した寺脇研元文部省官房審議官を司会の田原総一郎が、「寺脇さんは日本の教育を悪くした超悪人と言われていますが――」と紹介している。学力向上派から学力低下を招いた戦争犯罪人に位置づけられているといったところだろうが、「超悪人」という評価が罷り通ったままなのは、それ程までに学力向上が現在幅を利かせた問題となっていることの裏返しでもあろう。安倍学力向上主義が挫折しない限り、寺脇氏は「超悪人」という評価を抹消されることはないと言うことである。

 【教員の資質向上】の項目に「評価に保護者、児童、生徒などが参画」と書いてある。一部保守政治家・教育評論家・文化人等の声高な学力低下論に不安に駆られて多くの保護者が、安倍総裁雪崩現象と同質の同調の雪崩現象を引き起こし〝学力向上〟の一大合唱となったのは、「保護者、児童、生徒」が「学力」の直接利害者だからであろう。学力は受験の成果に直接つながる。当然彼らはテストの成績の向上を最優先目的としている。となれば、彼らの評価基準は「児童、生徒」のテストの成績を上げることのできるかできないかに置かれることとなり、当たり前の結果としてできない教師を「ダメ教師」と評価することになる。

 教師の方も「ダメ教師」の烙印を押されたくない自己利害からテスト成績向上授業に全エネルギーを注ぐことになる。双方の利害が強迫意識的に相互作用の尻を叩き合って、テスト向上教育へと新幹線のスピード並みに加速していく。現在でも部活の指導を引き受ける教師が少ないということだが、テストの成績を上げることに自己の生存がかかっているとなれば、そのことに全エネルギーを注がなければならないから、部活指導のなり手になる教師はますます少なくなるのではないだろうか。

 そして、これも当然の成り行きとして用意されるだろう状況として、生徒のテストの成績を上げることがで生きない教師が〝ダメ教師〟と烙印を押されるように、テスト成績向上授業に乗れない生徒は〝ダメ生徒〟と疎んじられる存在となるだろう。なぜなら、教師にとっては自己評価の足を引っ張る存在となるだろうからである。学校にしても教育委員会にしても自治体にしても、テストの平均点を下げるあり難くない存在と見なされる。例え何かの部活で能力を発揮していたとしても、その生徒と関わっている教師が部活の成績と何ら利害関係を持っていなければ、足を引っ張るという状況に何ら変わりはないことになる。

 〝ダメ生徒〟と疎んじられた生徒は小・中学校の場合は義務教育のため学校社会の外に排除するわけにはいかないから、部活に逃げ場所のある生徒を除いて、どこに向かったらいいのだろうか。テストの成績でも部活の成績でも自己存在を証明できないとなれば、何によって自己存在を証明したらいいのか。不貞腐れたり、世の中を斜めに見ることのできる生徒はいじめ・暴力、その他の荒れる行為に走る危険性が生じる。走るようなことをが起きたら、テスト教育が誘発した事態と言えないことはない。

 さらに今後学校選択性が全国的に拡大していくに違いない。断るまでもなく、学校を選択するのは「保護者、児童、生徒」であり、当然その選択には成績圧力が伴う。

 こんな記事がある。「広島・三次市 校長が党案改ざん」(06.10.29『朝日』朝刊)

 「『学力日本一』を掲げ、市教委内に『学力向上チーム』をつく」り、「民間の学力テスト(CRT)」を小学校・中学校の「小学1年は除く全児童生徒にうけさせ」、その成績を「広報誌に掲載、ホームページにも公開」。「ところが、昨年、市立小学校校長による答案改ざんが明らかになった。児童11人の誤答部分35カ所を正答に置き換えていたのだ。校長は『学校をよく見てもらいたかった』と語ったという」

 「学校をよく見てもら」う評価基準をテストの成績に置いているということであり、テスト成績圧力を受けた「改ざん」なのは言うまでもない。一方テスト成績の公表を「『学校の情報は極力地域に公開する』と藤川寿教育長は話す。『競争のためではないし、校長や教員の評価とは関係ないから問題はない』」、あるいは「テストの意味を理解しない管理職がいたことは残念だが、公開とは無関係。公開するからとかしないからとか、そんな気を持つようでは教育者は務まらん」(同記事)と言っているが、学校・校長・教師の置かれた立場、その精神状況を考えない、あるいは考えるだけの能力のない人間の言うことで、そういった人間が教育長など「務まらん」はずだが、「務ま」っていること自体がカネのムダ遣いと教育の弊害と言わざるを得ない。学校別のテストの成績を公開すれば、それが学校評価となって、そこに学校対抗の成績競争が発生するのは自然の流れである。
 
 『ランク分け予算撤回 成績の伸び率考慮 足立区教委』(06.12.8『朝日』朝刊)の新聞記事は東京都の足立区が「年に1回ずつ行われている都と区の学力テスト」の成績で学校をランク付けして、配分予算額を決める方針を批判を受けて撤回することになったという内容を伝えているが、このような基準づくり自体が「都教委が初めて実施した中学2年生全員への学力テスト」で「23区中23位」((06.10.29『朝日』朝刊)『学力調査 効果と弊害』)という結果とその結果に内藤博道教育長自身の反応としてある「高い順位だとは予想していなかったが、23位はショックでした」(同記事)を受けた、ランク付けを競争に替えて順位を上げる目的の予算措置であろう。いわば都内のランク付けを足立区内に持ち込んで競わせ、区全体の成績の底上げを図って都内のランクを上げようと図ろうとした予算措置だったはずである。

 「撤回した理由について、内藤教育長は『Aは良い学校でDはダメな学校などと、誤解されやすい制度だなと思った』」(同記事)と証言していること自体がテストの成績を競争原理に意図した予算措置であったことを証拠立てている。

 だが、そういった問題以上に批判を受けなければ悟ることができずに教育者として存在している事実はどのような逆説を受けた事実なのだろうか。

 尤も撤回したとしても各学校が必要とする基礎予算の上にテスト成績の伸び率に応じて上乗せして予算合計とするという形式となると言うことだから、テストの成績が学校評価となる関係は変わらない。

 しかし何よりも問題としなければならない問題は、学力向上派が一番見落としている問題なのだが、テストの成績に目を向けるあまり、ダメ教師の炙り出しやダメ生徒の反撥には役立ったとしても、あるいは目を見張るばかりの学力向上に効果を見たとしても、付随成果としてテスト教育についていける生徒の計算技術や読解力を高めるだろうが、その見返りにテストの成績に短時間に現れない論理的思考力や文章表現力、多角的認識力といった創造性に関わる能力の育みが、現れないゆえに蔑ろにされて、失うことの方が大きいのではないかという問題である。

 そのような創造性に関わる能力は暗記教育の成果でもあるのだが、現在でも不足、あるいは劣ると言われているが、言われ続ける状況を引きずることになるということでもある。

 そのような状況は日本の教育をダメにしたとされている「ゆとり教育」の一環として提起された「総合学習」が学力向上の煽りを受けて完璧な排除へと進むことも影響するに違いない。(●学習指導要領を改訂、ゆとり教育を見直す ●1日7時間授業とし、夏休みや「総合的な学習の時間」を減らし授業時間を増やす)。

 「総合学習」とは1998年度改訂版の『小学校・中学校学習指導要領』によると、
 1. 自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断
   し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる。
 2. 学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探究活
   動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の生き
   方を考えることができるようにする。――となっている。

 掲げているすべてが暗記教育・テスト教育からでは得ることはできない、論理的思考力や文章表現力、多角的認識力といった創造性に関わる能力につながっていく。「総合学習」の排除の先にあるものは、いわば学力向上とダメ教師排除の先にあるものは上記能力の排除であるのは言うまでもない。

 但し、現在行われている「総合学習」が論理的思考力や文章表現力、多角的認識力といった創造性に関わる能力の育みにつながる授業となっていないのは、授業時間数が少ないという事情だけではなく、日本の教育が暗記教育を歴史・伝統・文化としている関係から、「総合学習」にしてもその形式に則った、あるいはその形式に縛られて、そこから逃れることのできない教育形式となっているからだろう。

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