アイルランド人の「知と個性」が映し出す改正教育基本法の「国を愛する」

2006-12-28 08:43:08 | Weblog

 (66歳の誕生日記念に)

 06年12月14日の「朝日」朝刊に次のような見出しの記事が載っている。『ワールドくりっく 発信するアイルランド 辺境が磨いた知と個性』(木村伊量ヨーロッパ総局長)。途中から引用してみる。
 
 ――国の存在感を決めるのは、富や国土の大きさではない。国を代表する外交官でもない。国民一人一人の能力と個性の総和こそが「発信力」ではないか。そのことを教える好例が、人口400万人余の島国アイルランドだ。
 近年、この小国の経済発展は目覚ましい。97年から9年間の平均の国内総生産(GDP)は7%を超え、世界最高レベル。とりわけ情報通信の分野では「欧州のシリコンバレー」とうたわれ、コンピューターのソフトウエアでは世界有数の輸出大国。インテル、デルなど300社を超す海外IT企業が進出している。

 そのアイルランドも、かつては「移民以外に輸出するものがない」といわれた貧しい国。8世紀近くも英国の支配を受け、1845年に始まる「ジャガイモ大飢饉」では、100万人を超す人が餓死するか国外に移住した。
 何がこの国を変えたのか。元財務相で首都ダブリンにある欧州事情研究所の所長、アラン・デューカスさんは言う。「アイルランドには『強くないなら、賢くあれ』という古いことわざがある。1960年代以降、教育立国の目標を掲げ、国民の能力開発に優先投資してきた。国民ひとりひとりの潜在力が花開いたのです」
 3年前に誕生した「アイルランド科学基金(SFI)」は、バイオ技術とIT分野を担う人材の育成を目指す。女性の先端技術者の養成にはとくに力が入る。「私たちは欧州の先を見ている。ライバルはIT大国のインド」とデューカスさんは言った。

 目を見張るのは、さいはての島国に集積された「知と個性」の密度の高さである。
 「ガリバー旅行記」のスイフトや「サロメ」のワイルド、詩人のイェイツ、劇作家のベケット、きら星のごとく輝く文学の伝統。南極探検家のシャクルトンや、最近ではロックバンドのU2といった個性派の群像・・・・。
 海外に散らばるアイルランド系移民や子孫は、英国や米国などに5千万人以上とされ、本国の人口のざっと10倍以上。米国のケネディ元大統領やレーガン元大統領領もアイルランド系だ。「FBI(外国生まれのアイルランド人の俗称)がアイデンティティーをつくる」とさえ言われる。
 「辺境と逆境が独立心や自尊心を磨き、どこにもない個性を育てた」と話すのは国立ダブリン大学のデクラン・カイバート教授(アイルランド演劇・文学)。
 「一方でアイルランド(ゲール語)をお蔵に入れ、英語を第2公用語にする柔軟な受容力がある。『血』や地域に縛られず、世界に新天地を求める。アイルランド人にはグローバル時代に適合するDNAが備わっている」
 国際会議を成功させるこつは、インド人を黙らせて、日本人を喋らせること、という冗談がある。さすがにインド人には及ばないが、アイルランド人もいずれ劣らぬ雄弁家ぞろいである。
 だが、おしゃべりとは違う。苦難の歴史のなかで、たくまずして研ぎ澄まされてきたコミュニケーション能力なのだろう。――

 このアイルランドとアイルランド人を語る文章は日本と日本人の姿をおのずと映し出している。そう意図した記事かどうかは分からないが、「国際会議を成功させるこつは、インド人を黙らせて、日本人を喋らせること、という冗談」はまさに的を射た本質的な日本人論となっている。

 「会議」は常に何らかの〝決定〟を目的としている。〝決定〟を目的としない会議は会議とは言えない。その「会議」が一度打ち合わせたことを確認する集まりであったとしても、その確認した事柄が最終決定事項となり、そこには〝決定〟が絡んでくる。日本の閣議が議論らしい議論もなく、単なる顔合わせで終わることがあるということだが、日本だから許される〝決定〟不在の会議とは言えない時間潰しであろう。

 「会議」の〝決定〟に向けて議論に加わらないことは、〝決定〟の内容如何を問わずに無条件の従属を専らとすることを意味する。それを可能としているのは日本人が行動様式としている上が下を従わせ、下が上に従う権威主義を下地とした従属性以外にあるまい。おとなしく従う日本人というわけである。だからこそ「ものを言う日本人」が求められたりしたのだろう。

 「国際会議を成功させる」ために「インド人を黙らせて、日本人を喋らせ」たとしても、〝従属〟に慣らされている日本人は他人の議論の焼き直しや機械的な積み重ねといった新たな〝従属〟を展開するのが精々で、創造的な議論は望めないのではないだろうか。言われているところの戦略性の欠如は創造的議論の欠如の言い替えであろう。

 佐田行革相が政治資金収支報告書記載問題で昨日(06.12.27)辞任したが、このことに関連した安倍政権の「リスク管理」の脆弱さと曖昧な「責任の所在」を解説した『時時刻刻 政権に傷 幕引き淡々』(06.12.27.『朝日』朝刊)に次のような一節がある。

 ――首相周辺からは「首相の意向を眺めるだけで、自分で考えて行動できない『わら人形』のような人ばかり」という嘆きが漏れている。――

 この図柄を会議の場に当てはめると、議論に加わらずに眺めているだけという図柄となる。その先に「首相の意向」に無条件に従属する姿と会議の決定に無条件に従属する姿が重なって導き出されることとなる。

 アイルランドのソフトづくりによる世界に向けた発信・発展は「『血』や地域に縛られず、世界に新天地を求め」た思想性・行動性にあるとアイルランド人自身(「国立ダブリン大学のデクラン・カイバート教授」)が解説しているが、翻って日本が得意とし、日本の発展の原動力となっている〝モノづくり〟はアイルランドとは逆に「『血』や地域に縛られ」ていることの成果としてあるものだろう。

 単一民族主義はまさに「『血』や地域に縛られ」た姿としてあるもので、それが日本人性となっている。日本人性である以上、当然の帰結として、単一民族主義は〝モノづくり日本〟の原動力となっているとしなければならない。

 権威主義は当たり前のことだが、常に〝権威〟を価値基準とする。民族的な〝権威〟が単一民族主義ということだろう。単一民族主義を支える基本の思想が〝万世一系〟であり、〝男系〟であろう。多民族主義へと変じたなら、〝万世一系〟も〝男系〟も価値を失い、意味を失う。〝万世一系〟も〝男系〟も日本民族の看板に過ぎず、他民族の看板として通用しないだろうからだ。

 単一民族主義は〝モノづくり日本〟の原動力となっている。〝モノづくり〟の工程自体が日本人が行動性としているお得意分野の〝従属〟をプロセスとしているからだろう。現在あるモノに〝従属〟させて、新たな工夫を付け加えるのがモノづくりであって、モノづくりは〝従属〟を条件としている。車にしてもテレビにしても、パソコンにしても、その他殆どの〝モノ〟が最初は外国が創り出し、外国によって与えられたその当時あったモノであり、そのモノに従属させて工夫を積み重ねていき、現在の中国のように人件費の安さを武器として世界に日本製品を流通させていった。その結果のモノづくり日本であろう。

 日本が世界に誇る〝モノづくり〟が「『血』や地域に縛られ」ていることの成果としてあるからこそ、安倍晋三なる政治家・日本の美しい首相は〝モノづくり日本〟の一層の発展のためには日本人をより強固に「『血』や地域に縛」ることを必要と感じて、子供の頃からそのように教育すべく、改正教育基本法「第一章 教育の目的及び理念 第二条(教育の目標)五」に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」なる文言を付け加えたのだろう。

 自国の歴史・文化・伝統に拘り、「国を愛する」ことで自国に拘る。すべてが日本人という「知」、日本という「地域」に縛ることを思念している。「血」優先・「地域」優先の安倍思想が見事に改正教育基本法に反映された。

 「世界に新天地を求める」は単に物理的な人間の移動のみを意味するわけではなく、「『血』や地域に縛られず」「知」の世界に向けた探求(「世界に新天地を求める」)をも意味する。自国のみの「知」に拘らず、世界に「知」を求め、世界から「知」を受け入れ、自らも世界に向けて「知」を発信する。世界と自国間に向けた「知」の双方向化・「知」の交換であろう。

 「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」に拘っていては、思想・哲学にまで高めることができる柔軟な「知」の双方向化も「知」の交歓も望めない。単一民族主義を立脚点としている間は、内向きの〝従属〟のアンテナばかりが働いて、他国の権威を受け入れ、相対化する柔軟性を学ぶ「知」の働きに期待はできない。

 まあ、美しいばかりの安部センセイが決めたことである。

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