安倍内閣は個人商店ではない

2006-12-22 07:15:11 | Weblog

 本間正明税制会長辞任だけで終わらるのか

 例え「美しい」を売り物としている個人商店だとしても、家族が店のカネを誤魔化したり、子どもが学校でいじめを働いていたりしたら、「美しい」が多くの客に喜びを与えていたとしても、それは輝きを失い、客たちは騙された感じを抱くに違いない。

 ましてや商店主自身が税金を誤魔化していたり、儲けたカネをギャンブルや女につぎ込んで実際の経営は火の車だったりが露見して人間自体が美しくないことが世間に知れたとしたら、「美しい」は単なる経営の手段を出ない便宜に過ぎなかったと思い知らされ、製品自体の価値に変化はなくても、別の店に変えることになるだろう。他の店よりも安いとか、他の店に置いてないといった特別な理由があって、その店から買い続けることがあったとしても、素直に買い続けることはできなくなるに違いない。

 例えどのように素晴しい商品であっても、その売り買いは人を介して行われる。その際売主の品性を問わないのは直接的な接客態度に問題がなければ、通常であることを暗黙の前提とするからだろう。接客サービスの悪い店が客の寄りが悪いのは、それによって品性をも量っているからだろう。

 しかし接客態度はいくらでも装うことができる。接客態度で知ることができなかった売主の実際の品性が何かの機会に知らされたとき、利益を与えることを潔しとするだろうか。今まで利益を与えてきたこと自体をも悔やむこともあるに違いない。

 例え問うことも問われることがなくても、人間の関係は品性・人格の裏打ちを基本としている。相手の品性・人格に目をつぶって維持・継続させなければならない関係は惨めである。

 安倍内閣は安倍晋三一人の経営による個人商店ではない。譬えて言えば、国民を株主、あるいは顧客とした大企業に位置づけることができるだろう。担うべき声価は売り物の製品に当たる何を成したかの政策だけが問題となるのではなく、所属構成員のそれぞれの人格は勿論、それらがトータルされた全体的な品性によっても決定付けられる。

 自社製品が欠陥品であることを知りながら販売を続けるのは会社全体の品性が深く関わっている。政治家が国民向けの顔は誠実に振舞い、多額の政治献金を政治資金収支報告書に記載せずに裏ガネとして利用し、政策成立の取引に使っていたとしたら、どのような立派な政治を行おうと、国民は品性を差引いて低い評価しか与えないだろう。
 
 安倍内閣の品性は一人総理大臣たる安倍晋三の品性・人格に負うものではなく、構成するすべての閣僚、あるいは各内閣官房長官、さらに政策立案に関係する有識者会議といった各種会議、調査会、審議会のメンバーまで含めて負っている。逆説するなら、安倍首相自身が自らの品性を守るべく自らを律するのは勿論、品性欠ける人間を一人たりともメンバーに加えてはならないはずである。

 品性を問わずに、政策をすべてとすることが許されないからなのは言うまでもない。安倍首相自身にしても首相就任時にこのことを宣言して、その後も盛んに口にして自らの信条としている。「規律を知る、凛とした国」とか「美しい国」への目指しは品性をこそ問題とした主張であろう。品性への宣言とも言える。

 政策がすべてで、品性は問題でないとすることがもし許されるとするなら、「規律を知る、凛とした国」も「美しい国」という言葉も、商売する人間の装った接客態度と同様の見せかけの体裁と化す。何よりも自分たちの品性を問題にしてこそ、「規律を知る、凛とした国」という言葉も「美しい国」という言葉も生きてくる。それとも自分たちの品性は問題にしないが、国民の品性は問題にするということなのだろうか。だとしたら、国民を国家に従順な集団に操作しようとすることであろう。

 もしメンバーの中に品性欠ける人間が一人でも混じっていることが分かったなら、「規律を知る、凛とした国」を目指すためにも、「美しい国」という言葉を掲げた手前も、直ちにメンバーから外すべきである。

 ところが安倍首相は自らが掲げる〝信条〟を無視する言行不一致の「美し」くない「規律」違反を犯した。12月19日(06年)の『日テレ24』の記事が次のように伝えている。「税制のあり方を政府に提言する政府税調・本間正明政府税調会長が、非常勤でありながら国家公務員住宅を利用し、妻以外の女性と同居していたと報じられた問題で、批判が相次いでいる」ことに対して、安倍首相は「見識を生かして、あるべき税制の姿を作っていく、議論していくことによってですね、まとめていただくことによって職責を果たしていただき、責任を果たしてもらいたいと思っています」と意味空疎な言葉を付け加えつつ、「職責を果たすことが責任の取り方」だと言っている。

 税制に関する「見識」を優先して、品性に関わる「見識」は問わないという姿勢を示したのである。これは政治家・官僚をも含めた国民の品性を裏打ちとして初めて可能となる「規律を知る、凛とした国」とか「美しい国」といった首相自身が打ち上げた国家的価値観を、華々しく打ち上げておきながら自ら華々しく裏切る行為ではないだろうか。自身の主義・主張・信条に対する自らの裏切りとはどのような〝品性〟を言うのだろうか。郵政造反議員の復党問題でも見せた態度につながる資質ではあるが、安倍首相自身の〝品性〟自体を問題としなければならない。

 本間会長は21日、政府税制調査会会長を辞任した。任命責任に対する関係者の態度を12月21日(06年)のNHKテレビ「ニュースウオッチ9」から拾ってみる。

 塩崎官房長官「(辞任は)本間会長ご自身の一身上の都合――ということでありまして、総理の任命責任の問題ではないと、考えておるところでございます」

 中川秀直幹事長「国民の理解を得ながら仕事をしていくことができないとご判断されたんですから、これも止むを得ないことだと思います。首相の任命責任という問題ではないですね」

 中川昭一政調会長「税制会長という非常に重要なポストについて考えて任命したわけですから、その方がいなくなったということは、それはあのー、そういう意味ではダメージが、あるんだろうと、そう思います」

 町村自民党税調小委員長「もうちょっと早く判断されればよかったとは思いますよね。(男性記者の「安倍政権への影響というのは今後ありますでしょうか?」との問いに)それはないでしょう。やめてしまえば、それまでですからね」

 何という粗雑さ。

 公明党北側幹事長「ある意味プライベートな問題に関わることですから、総理があの、その方自身をですね、任命をされたこと自体について、私は、その問題にされる必要はないんじゃないかと思っております」

 菅直人民主党代表代行「ずるずると問題の決着を延ばすと、安倍政権の優柔不断さというものが目立った結果でなないかなと。勿論任命責任というのは一定の責任として当然あるわけですから――」

 共産党市田書記局長「そういう人物を任命した安倍総理の感覚ですね。結局自身がそういう庶民の目線のものを見れない内閣だということが非常にはっきりしつつあると――」

 対する安倍首相(首相官邸で記者に囲まれて)「高い税に対する見識と知識、これを是非私は生かしていただきたいと、このように思い、お願いしたわけですありますが、ご本人が一身上の都合でどうしても職を辞したい――ということでございますから、これは止むを得ないと判断をいたしました」

 確かに辞任のみに関して言えば、本人の〝都合〟と〝申し出〟によって生じた問題であるが、「任命責任」とは別の問題である。なぜ記者は他の政府・党関係者には質問しながら、直接的な任命権者にその質問をぶっつけなかったのだろうか。質問して安倍総理が答えたということならニュースに流さないことはないだろうから、質問しなかったのだろう。「『一身上の都合』で済ますことができるのか」と問うべきではなかったろうか。

 愛人がいることと、その愛人と公務員宿舎に居を構えていたことは週刊誌の報道によって知ったことだろうから、任命した時点での責任はないとすることができる。だが任命の際に被任命者の品性を問わないのは、モノの売り買いで売主の品性に対して取る態度と同様に、地位・能力にふさわしい品性を備えていることを暗黙の前提としていたからだろう。任命権者としての安倍首相自身のその前提が崩れたのである。そのことに対して、相手の辞任で決着とするのではなく、任命権者としてそれ相応の行動を起こすべきだったのではないだろうか。起こさなかったということは、その責任も果たさなかったことになる。

 以上の見解を先に上げた〝品正論〟から再説明すると、任命責任とは任命した時点での対応のみを問うものではなく、任命理由とした職務能力のみならず、能力に付随させるべき職務態度、及びプライベートな生活態度――いわゆる品性に関わる部分――の発揮・維持の如何に対する対応も問われるということである。含まれる以上、被任命者がその職にとどまっている限り、任命責任は負い続けることになる。

 「高い税に対する見識と知識」といった能力だけを問題としたのでは、学校教師が指導力さえあれば、生活態度に問題があったとしても、それが女子児童に対するワイセツ行為の常習であったとしても問題とはしないルールをつくるようなもので、そういった教師の教員免許を取り上げるといった「教育再生」は矛盾を犯すことになる。

 また、安倍首相自身が責任基準としている「政治は結果責任」という原則からすると、任命時点で暗黙の内に備えていると見なした品性が見せかけの結果を露にした以上、その結果に対する責任も自らの行動・態度で示さなければならないだろう。示さなければ、タウンミーティングのヤラセ質問問題で「当時の官房長官として私の所掌(「法令により、特定の機関の権限でつかさどること」(『大辞林』三省堂)の中で起きた大変遺憾な出来事だ。所掌する事柄に於いては責任を負っている」とわざわざ難しい言葉で述べた〝結果責任〟は給与返納で幕引きを狙ったキレイゴトの疑いがますます濃くなる。

 何かしら自身か、あるいは管理下の人間がスキャンダル・不祥事の類を犯した場合の責任的立場にある公的人間が「職責を全うすることで責任を取る」とする責任論で自らの品性を免罪する人間がこれまでに何人いただろうか。村上ファンドへの1000万円出資で問題となった福井日銀総裁も、防衛施設庁の官製談合が問題となったときの所管大臣たる額賀防衛庁長官も、「職責を全うすることで責任を取る」形の責任論で自らの責任を免罪としている。

 特に天下の東大卒・日銀副総裁だった福井氏は金融機関による大蔵省幹部接待事件・贈収賄事件で総裁と共に監督責任を取って1998年に副総裁を辞任しているが、接待先の一つであるノーパンしゃぶしゃぶに自らも出入りしていた〝品性〟が発覚している。

 逆に「職責全う」式責任免罪論の許しがそのことに水戸黄門の葵の印籠並みの効用を与える免罪符となっていて、スキャンダル・不祥事、あるいは管理無能の跡を絶たない無限連鎖の「美しい」「凛とした」無責任現象を生み出す結果につながっていないだろうか。

 そろそろこの無責任の無限連鎖を断ち切る時がきているように思える。安倍首相の「規律を知る、凛とした国」・「美しい国」という言葉をウソにしないためにも。安部首相自身がウソつきなのだということなら、スキャンダル・不祥事、管理無能等々と「職責を全うすることで責任を取る」式責任免罪論の無責任な無限連鎖の追っかけっこが日本という国に於ける、あるいは日本という社会に於ける永遠の現象となることだろう。いや、既に十分に現象化している。それが安倍首相自身が自ら掲げながら自ら破る「規律を知る、凛とした国」・「美しい国」の正体となっている。

 政府税制調査会の本間正明会長が愛人と共に入居していた都内の国家公務員官舎は本間氏が教授として務める大阪大学と契約した物件だということだが、大阪大学はどのような使用目的を示して大家に当たる財務省から許可を得たのだろうか。使用目的と本間氏の入居との間にズレが存在していたといったことはなかっただろうか。存在していたということなら、大阪大学はウソの使用目的を示したか、本間氏が大阪大学にウソをついて転用を図ったか、いずれかの疑いが生じる。あるいは財務省側は何も気づいていなかったのだろうか。気づいていて、相手が偉い人だからと、黙認していたといったことはなかっただろうか。タウンミーティングのヤラセにもあった、何らかのカラクリの存在も疑わなければならない。

 当然、タウンミーティング問題がヤラセ質問だけではなく、受注企業の不透明・不当な高額請負のカラクリ等も絡んでいることを考慮すると、安倍首相等の関係者の給与返納だけで済ますわけにはいかないように、本間スキャンダルにしても、「政治は結果責任」の問題、〝品性〟の問題、任命後も生き続ける任命責任の問題、入居に関わる問題等が解決しないことには、単に本人が退去した、一身上の都合で辞任したで終わらせるわけにはいかないだろう。

 最後に先に引用したNHKテレビ「ニュースウオッチ9」から、別に支持はしていないが、社民党又市幹事長の見解「まだまだ不透明の点も多くあるわけでありますから、これらも解明をする必要がある。事と次第によれば、国会閉会中であっても、審査要求していく」

 当然である。

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