自己保身がつくる責任の形と危機管理

2006-12-30 07:50:24 | Weblog

 小学校教諭無断写真掲載HP問題から

 『ニッポン情報解読』2006-12-17の記事「日本人の危機管理」に次のようなコメントをいただいた。

 「このことに対して はな
 ここにいじめという文字がありますが内容わかりますか。
この先生と校長に言葉や授業の教材をよういしてもらえな
いといういじめを受けた生徒もいたし教育委員会の隠蔽工作
でこのことは隠されていますがhp事件の書類送検後の事件で
した」――

 「日本人の危機管理」は、自作ホームページに自動車事故で被害者となった女子児童等の写真を無断で転載し性的興味の対象とした小学校教諭の事件が以前一度犯し、警察の捜査対象とされた再発・再犯であったことに対する同じことを許した学校と教育委員会の〝人事〟に関する危機管理を、いじめに対する危機管理を例として解説した記事内容で、いじめそのものを問題としたものではなかったし、いじめがあったとかなかったとかを指摘したものでもなかった。

 ――(参考)ブログから問題箇所抜粋。「記者の『ホームページは見たことありますか』の問いかけに誰も答えない。『誰も見ていないのですか』の再度の問いかけに、後藤良秀教育委員会参事が『報道で見た物が私たちが確認したものなんです。今言われましたようにですね、私どもは既にホームページを閉じ情報と機器等が警察の方に押収されたということでですね、その段階でホームページそのものは完全に閉じられていて、今もホームページがあってですね、それが閲覧できるというようなことを判断しておりませんでした』
 いじめ問題が起きて、いじめた側が謝罪して収まった。だからと言って、そのいじめが再発しない保証はどこにもない。再発しないか、いじめられた生徒・いじめた生徒に必要に応じて問いかけを行うといった観察が必要なはずである。『仲良くやっているか?』といったふうに。周囲の生徒からの聞き取りも続けなければならないだろう。それが事後管理というものである。   
 だが多くの学校、教師が放置したままとし、いじめの継続を許してしまう。」――

 だから、「ここにいじめという文字がありますが内容わかりますか。」と問われて、咄嗟に理解の頭が働かなかった。書いてあることが事実であるという前提のもとで話を進めると、「この先生と校長に言葉や授業の教材をよういしてもらえないといういじめ」と「教育委員会の隠蔽工作」が「hp事件の書類送検後の事件」だとすると(あるいは明らかになったのは「hp事件の書類送検後」というこのなのか)、HP問題で抱えることとなった傷口を抱えた以上に広げない自己保身から、何も自分の方から話すことはないとした「隠蔽工作」ということではないだろうか。

 人間は事実や証拠を突きつけられて世間の明るみに出た事件・行為であっても、露見を免れて隠すことができている関連事項は自己をより不利な立場に立たせないために隠し通そうとするだろうし、隠すことができていても、隠し通せないだろう、明るみに出るのは時間の問題だと予見した場合は、隠していたことがアダとなって自己をより一層不利な立場に立たせかねない損得計算から自分からこういった事実もあったと告白する〝潔さ〟、〝正直さ〟も見せる。あるいはすべてが露見した場合は自己を絶対的に不利な窮地に追い込むことことが分かっていて、それを避ける意味合いから、隠し通せるだけ隠そう、隠せなくなったら、そのときはそのときだと開き直ることもする。

 今回問題となった佐田行革相の政治資金収支報告書虚偽記載問題にしても、隠せることは可能な限り隠そうとするだろう。追及されて、逃げられない場合は、逃げてウソをついた、誤魔化したと受け取られるよりも、事実を話して、それも隠せることは可能な限り隠して告白することで、キズをより少なくする損得計算のチエを働かすに違いない。人間はかくも巧妙な生きものに仕上がっている。

 HP問題でも、問題とされていること、質問されることだけを最小限の範囲で答え、隠すことができることは隠していた可能性も出てくる。テレビで見た教育委員会や校長の態度の範囲内からの判断であっても、その可能性は指摘できる。

 自己に都合の悪いことは可能な限り隠そうとする自己保身本能の裏を返すと、すべてを知っているのは当事者のみで、第三者――世間は真の事実から常に遠ざけられていることになる。

 あるいは当事者にしても自分に不都合なことは都合のよいことに脚色を続けていくうちに、脚色した都合のよいことを事実と信じるに至る意識誘導・意識操作を自ら働かす。結果として、当事者にしても事実から遠ざかることになる。

 こういったことを裏返すと、〝真実〟とする〝事実〟は存在しないことになる。隠そうとする本能が付き纏う限り、客観的な事実としての〝真実〟は存在しようがない。だから、芥川龍之介の名作『藪の中』は存在し得た。
マスコミの、とくにテレビの「真実をいま明かす」といったキャッチフレーズは誇大宣伝以外の何ものでもない。私は自分自身の言葉として、一度も〝真実〟という言葉を使ったことはない。この世で一番嫌いな言葉に位置づけているからである。やたらと「真実」という言葉を強調したり、繰返したりする人間は信用しないことにしている。勿論、そういったテレビ番組は信用しない。チャンネルを回すのは、信用できないとする自分の判断の正否を確認するためである。そして常に間違いないことを確認してきた。

 「この先生と校長に言葉や授業の教材をよういしてもらえないといういじめ」云々のコメントが事実としたら、この学校に於ける教員人事いじめに関わる危機管理は今後とも有効に機能しないだろう。何も起こらない安全・無事の偶然性に頼るか、起こった場合は隠すことを優先させた危機管理が続くことになるに違いない。
 
 勿論何も起こらない偶然性にも〝隠蔽〟にも裏切られて、どこからか漏れて世間に明るみに出た場合は、隠せない範囲で明らかにする。だからこそ、後手後手の事後処理となる。そういった事例が殆どであり、相次ぐことになる。
いわば自己保身という名の責任回避をひそかに優先させ、ひそかに罷り通らせることを習慣としていたなら、生徒管理や教員人事に関わる〝危機管理〟の学習は覚束なく、当然に満足に機能させた危機管理はいつまでも期待不可能事項としてとどまることになる。

 なぜこうも情けない状況、自己保身と責任回避の情けない光景が日本という国に蔓延するのだろうか。封建主義の時代から、上から指示・命令されたことだけをなぞって果たす権威主義性の義務遂行を責任(務め)と見なす民族性、そしてそれを今以て引きずって、上に従うことを自己責任の範囲とすることに慣らされていることからの(教師が自分のHPで生徒をどう扱っているかを確かめる責任を教育委員会に丸投げしていた校長の姿勢に象徴的に現れている)、裏を返すと、自発的行動を自己責任(自己任務)としていない、その逃げの姿勢・行動様式が誘発していることからの必然的成果としてある無責任性であるに違いない。

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