「マヌケな」は石原氏自身が使った言葉をそのまま利用しただけのことで、殊更持ち出したわけではない。
総事業費約334億円の東京は一等地・赤坂の超豪華マンション級議員宿舎が問題となっている。部屋数3LDK、広ささ82㎡、スポーツジムもあれば、食堂もあり、最上階には夜景が楽しめるラウンジもあるという至れり尽くせりの豪華さ。議員様々である。様々であるからこその規模・豪華さ、そして赤坂という立地条件なのだろう。〝様々〟に釣り合いを持たせるとしたら、こうまでの豪華さ・立地条件が必要だと言うことである。一人一人を仔細に眺めると、〝様々〟と言えるような国会議員は一人として見当たらない。この架空なる現実は見事な逆説を呈している。
日本の国会議員はみな能無しだと言うのは失礼な話で、身分の〝様々〟に合わせて住空間まで〝様々〟相応の超豪華を用意するのは国民の信頼をどこまでも裏切らない正解だとすべきなのだろうか。
同じ条件の民間マンションなら部屋代月50万は越えるという豪華値段が「国家公務員宿舎法の規定に準じた試算」によって算出した結果、1カ月9万2000円、地下駐車料2万円での深々と頭を下げての通販並みのご提供となる。
50万円超-11万円≒39万円/月分が議員特権の値段というわけなのだろうが、〝様々〟に釣り合わせた超豪華さだとするなら、それに釣り合わない金額である。やはり〝様々〟は架空なる現実・見かけなのだから、見掛けに合わせて11万が相当と言うことなのだろうか。だったら議員歳費も見かけに合わせるべきだと思うが。
超豪華な住空間に住むのが自分たち〝様々〟にはふさわしいとするなら、そのような超豪華にふさわしい家賃を支払ってこそ、最後まで〝様々〟を貫くことができるということではないだろうか。それを11万そこそこで済ませようなどとは、政務調査費を私費として使う〝さもしさ〟と同等、浅まし過ぎるのではないだろうか。
12月9日(06年)の朝8時からの日テレ「ウエーク!」で石原伸晃自民党副幹事長が司会者から一般国民の感覚から離れた超豪華さと家賃の低さを問われて、次のように答えている。
「私って、議員宿舎に住んだことはないんですけどね、その、相場よりも安いっていうのは事実だと思いますが、あのマヌケな話聞いたことがあるんです」とここで「マヌケな」という言葉が出てくる。「官房副長官の経験者の方がね、自分でマンション借りたと。そしたら30階だったと。で、かなり距離があったと。先ず停電になったわけ。そういうときこそ官邸に素っ飛んでいかなきゃいけないのに、階段が30階まで降りてって、それからまた車に乗っていって45分かかっちゃった。これはまさに危機管理対応できない。やっぱりそういうキャピタルの中心にですね、ある程度の宿舎っていうものは必要で、そこに住まなきゃいけない人っていることも事実だと思います」
司会者(議員宿舎には)「自家発電なんかも付いているんでしょうね?」
石原「私は行ったことないから知りませんけど、やっぱ危機管理上、都心に住まなきゃいけない人がいるってことも事実です」
非常にもっともらしく聞こえる超豪華議員宿舎擁護論となっている。しかし石原伸晃氏の言う「危機管理」論は単に立地を条件とさせているのみで、危機管理と超豪華な生活空間に整合性を与える主張とはなっていない。尤もそのような主張となっていたら、豪華な議員宿舎に住んでいる国会議員ほど危機管理能力に優れているということになって、別の矛盾が生じることになる。
つまり彼の「危機管理」論はそこまで住環境を豪華にする必要があるのか、建築費に比較して部屋代は妥当な金額となっているのかといった疑問点に何ら答えないすり替えのレトリックを駆使した牽強付会に過ぎない。そのことに気づかずに真っ当な答だと済ませる神経は、「官房副長官」の「マヌケな話」を上回る何とまあ「マヌケな話」ではないか。
また「キャピタルの中心」とか「都心」とか首相官邸に近いという立地条件にしても、危機管理上の必要絶対条件とすることはできない。すべての国会議員が危機管理対策に関わるわけではないからだ。石原伸晃が言うが如く「官房副長官」といった内閣関係者の類にしても、比較条件とはなっても、絶対条件ではない。
「キャピタルの中心」・「都心」を絶対条件とするなら、阪神大震災のときは首相として首相官邸に住んでいた村山富一が何よりも危機管理能力を発揮して然るべきだったが、その被害・規模の重大さを認識せず、直ちに閣議召集をかけることもせずにNHKの地震報道ニュースに、感心していたかどうかは分からないが、少なくとも第三者的な即物的反応は見せていただろう、見入っていたと言う。国会でそのことを追及されると「何分にも初めてのことだったもので」と、石原伸晃の言葉を再び借りるとするなら、これまた「マヌケな」答弁をしている。多くの議員の失笑を買ったというが、当然な話だろう。
村山富一のような政治家・国会議員が首相官邸に近い「都心」・「キャピタルの中心」にへばりつくようにゴマンと住んでいたとしても、「都心」・「キャピタルの中心」といった立地を危機管理を成立させる有効な条件とすることはできないだろう。確実に言えることである。
立地を絶対条件とするなら、閣僚関係者は官邸と都心の宿舎を往復することを自らに義務づけなければならなくなる。当然、愛人を連れて外国に不倫旅行することも、外国視察と称して呑んだり食ったりの観光旅行をすることも自ら断たなければならなくなる。自然災害のいつ発生するかも予測できないという性格上、例え職務上であっても、都心を一歩離れたら、絶対条件から離れることになるからである。災害発生時に都心から離れていたとき、それが遠い外国でなく国内であっても、「キャピタルの中心」・「都心」という条件は無意味となる。
アメリカでは緊急時に大統領と連絡が取れない場合は、あるいは死亡した場合は副大統領が、副大統領が不可能なら、次は誰がと政府の指揮を取る順位が決められているように、日本も決められている。誰が不在でも危機管理は機能させなければならない。それとも日本では予定している出席者が全員顔を出すのを待つのだろうか。日本ならありそうな話ではある。
誰が不在であっても、危機管理体制を機能させるのも危機管理である。となると、立地条件は危機管理を機能させる条件からますます遠ざかることになる。
危機管理で問われるのは情報収集・解析・選別を経て何をなすべきかの決定に至る事態反応能力であり、それらを総合化し、組織的対応へと機能させる極めて創造的戦略性が深く関わった判断能力の必要性であって、常にそのことに留意する姿勢を肝心な問題とすべきを、「都心」だとか「キャピタルの中心」といった物理的距離に留意点を置く強調は1+1=2とする機械的・即物的な頭脳でなければ不可能な単純発想であろう。
噺家故林家三平の妻・海老名香葉子の〝いじめ・親元凶論〟から言うなら、石原慎太郎なるこの親にして、この単細胞な息子ありになるが。