教育改革国民会議・最終提言批判・4

2006-12-10 02:17:48 | Weblog

 5.なぜ問題行動を起こすのか

 提言の(4)は、<問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない>となっている。そして次のように解説している。

 <一人の子どものために、他の子どもたちの多くが学校生活に危機を感じたり、厳しい嫌悪感を抱いたりすることのないようにする。不登校や引きこもりなどの子どもに配慮することはもちろん、問題を起こす子どもへの対応をあいまいにしない。その一方で、問題児とされている子どもの中には、特別な才能や繊細な感受性を持った子どもがいる可能性があることにも十分配慮する>

 その具体的内容は、

<(1)問題を起こす子どもによって、そうでない子どもた
    ちの教育が乱されないようにする。
 (2)教育委員会や学校は、問題を起こす子どもに対して
    出席停止など適切な措置をとるとともに、それらの
    子どもの教育について十分な方策を講じる。
 (3)これら困難な問題に立ち向かうため、教師が生徒や
    親に信頼されるよう、不断の努力をすべきことは当
    然である。しかし、これは学校のみで解決できる問
    題ではなく、広く社会や国がそれぞれ真剣に取り組
    むべき問題である。>

 この提言には、なぜ「問題を起こす」のかの視点がない。原因究明がなされなければ、<それらの子どもの教育について十分な方策を講じる>ことは不可能なだけではなく、教師が<生徒や親に信頼されるよう>どう<不断の努力をすべき>かも判断不可能となる。

 では、なぜ「問題を起こす」のか。社会の多様化とか人間の多様性、多様な価値観と言いながら、学校社会における〝授業の場〟では生徒の多様な個性・多様な才能に反して、テストの成績を人間を価値づける唯一絶対の価値観としている一律性と言行不一致が招いている混乱であろう。テストの成績が唯一絶対の価値観となっているということは、学校教師の他者共感能力が学歴主義に囚われ、成績のよい生徒にのみ向けられて働いているということである。勿論それは世間の大人にも親にも言えることであるが、学校はそのことに対する抵抗の場でなければならないのに、無考え・無定見に流されている。だからこそ、<一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間を育成する>を目的とした提言(6)で<一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入する>としなければならなかったはずである。

 だが、学歴主義を土台とした教育を続けている限り、その具体的内容としての<少人数教育>だとか、<習熟度別学習>、<中高一貫教育校>などといくらアイディアを打ち上げたとしても、暗記知識の植えつけとその成果としての表面的な学力の獲得には過不足なく機能したとしても、<一律主義>の改善には役に立たないだろう。特に<18歳までに二度もある受験の弊害>を減じることを目的に<中高一貫教育をより一層推進する>としながら、<高校での学力向上を目的として、学習の成果を測る学習達成度試験を><年複数回行い、学年を問わず何度でも受験できるようにする>とするのは、自己矛盾を犯すものである。

 誰もが中学生の頃から、高校での<学習達成度試験>に備えて、暗記知識に精を出すだろうからである。そして、<創造性、独創性、職業観を育むため>の<体験学習>の成果は試験の成績には関係はなく、例え生活態度で点数化されようとも、学歴主義社会ではあくまでもテストの成績が主体であって、<体験学習>も<奉仕活動>も、表面的で形式的な〝なぞり〟と〝消化〟で誤魔化すことができるのである。

 人間がテストの成績で価値づけられる社会にあって、誰が<体験学習>や<奉仕活動>に心底からエネルギーを注ぐだろうか。そのことはプロ教師も言っている、「私の中学校では殆どの生徒が高校を受験するため、そのうちの八割くらいの生徒が塾へ行っている」という過熱した塾状況が受験社会において生徒にとっての絶対的な生存条件は何かを物語っているのである。<体験学習>と<奉仕活動>は、そこそこにこなすいい生徒であれば済むが、テストの成績はそこそこに済ますわけにはいかない社会だということである。例え<学習達成度試験>に合わせて大学のレベルを選ぼうとも、本人にとってはそれが望み得る精一杯の成績だろうから、テスト勉強にこそ心血を注がなければならない状況は依然として続くのである。

 となれば、テスト価値観に加わることのできない生徒の問題行動はなくなることはないだろう。テストの成績では獲得できない自己の優越性を、いじめや暴力で獲得する倒錯した自己優越証明・自己存在証明を図る生徒も跡を絶たないだろう。俺は勉強ができないからと<体験学習>に力を入れたとしても、学校では、あるいはクラスではテストの成績が人間を価値づける価値観として常に立ちはだかることになる。あるいはテストのできる生徒が<体験学習>でも<奉仕活動>でも、そこそこにいい生徒を演じることだろうから、そこでも目立つのはテストのできる生徒ということになるだろう。<体験学習>や<奉仕活動>で先頭に立って活動する生徒をテストの成績で自己優越証明のできない生徒がそれ以上の優劣の距離をつけられないために、これまでも例としてもあった厭がらせや中傷、いじめで妨害しない保証もない。

 問題行動対策は単に<一律主義>や学歴主義を改めるだけではなく、学校社会を一般社会と同様にすべての生徒に生存機会を平等に与えること以外に道はない。一般社会では大人は学歴がなくても、学歴を必要としない様々な場所で自己生存の機会を獲得することができる。だが、学校における授業の場では、勉強の成績以外で自己の生存機会を図ることはできない。勉強ができなくても、スポーツの能力が特別にあれば、一応の自己存在証明は可能ではあるが、あくまでも勉強で生存の機会を得ているわけではなく、テストの成績の方が常に優越的位置にある。例え巨人の松井にしても、一国の総理大臣と同じ年齢に達したとしても、頭を下げるのは松井の方だろう。アメリカ社会のように、大統領と一般人がファーストネームで呼び合ったり、片手で肩を抱き合ったり、ときには際どい冗談や皮肉を言い合ったりする関係は決して実現しない。

 すべての生徒に生存機会を平等に与えるということは、誰もが勉強ができるようにするということではない。その逆の、勉強ができなくても、勉強ができる生徒と同等の生存機会が与えられるということである。現在は勉強のできない生徒の中には学校外のゲームセンターやカラオケボックスで、あるいはパソコンゲームするとかで自宅で自己生存機会を得ている。問題行動を起こす生徒は恐喝とか、コンビニの前でたむろするとかで自己生存を図っている。勿論学校での恐喝は困るが、勉強以外で彼らが好きなこと、興味があること、あるいは関心を持っていることにチャレンジさせ、そのことを自己生存機会の方法とするのである。パソコンゲームが好きなら、それを極めさせたらいいではないか。極めさせる過程でそれなりの学力――漢字の読み書きや意味解釈の習得、歴史だって、ヨーロッパ中世の戦士が戦うゲームや日本の戦国時代の国盗りのゲームを取上げたなら、そこそこには学ばせることも可能である。

 マンガが好きな生徒にはマンガを極めさせたらいいではないか。世界のマンガ・日本のマンガ、マンガの歴史等々から、学力もつけば、教養も獲得できる。好きなマンガを書かせれば、創造力(想像力)もつく。学力を漢字の読み書きや計算、その他の知識の獲得の程度(=能力)と把えずに、学ぶ力・学ぶ能力と解釈したらいい。勿論理科・物理・化学が好きなら、それを十分に学ばせたらいい。英語が好きなら、英語を。一つの興味ある事柄を可能な限り広範囲に極めさせる。そこから一般世界・一般社会を展望できたとき、知識は単なる知識であることを超えて、教養へと発展する。思想・哲学へと発展する。人間とは何か、<死とは何か、生とは何か>も学ぶことができるだろう。このような教科方式は提言(7)の<記憶力偏重を改め、大学入試を多様化する>場合のアイディアにもなり得るだろう。

 学力が学ぶ力・学ぶ能力となったとき、それは知識の主体化を意味する。

 6.大人の存在自体が有害情報である

 提言(5)は<有害情報等から子どもを守る>となっている。

 <IT社会の進展に伴って、子どもたちが大量の情報にさらされるようになった。そのことは、学習の機会を提供する一方で、弊害ももたらす。「言論の自由」と同時に「子どもを健やかに育むこと」の大切さは、あらゆる情報産業関係者に自覚されるべきである。ポルノや暴力、いやがらせや犯罪行為を意図的に助長する情報や子どもの教育に有害な営利活動から子どもたちを守る仕組みが必要である>

 具体的な方法論は次のとおりである。
<(1)保護者団体や非営利活動団体(NPO)、研究グル
    ープなど複数の民間団体が、自主的に有害情報等と
    は何かを検討し、有害情報等をチェックする。その
    情報を提供することなどにより、子どもに有害情報
    等を見せない仕組みをつくる。この場合、その方針
    を公開する。
 (2)民間団体などが、有害情報等を含む番組などのスポ
    ンサーとなっている企業へ働きかける。
 (3)国は、子どもを有害情報等から守るためのこうした
    取組を支援するとともに、そのための法整備を進め
    る。>

 アメリカ合衆国の禁酒法(1920~33)は人間の飲酒癖を断ち切ることができただろうか。密造・密売をはびこらせ、それを手がけたギャングに巨万の富をもたらせただけの結果に終わった。いわば法を犯してでも、人々は密造酒を買い、アルコールを嗜好品とすることから逃れることができなかった。常識ある大人たちが、いわゆる<有害情報>としている番組をテレビから追放しても、あるいは「有害情報」としている書籍・雑誌を一般書店の店頭や自動販売機から追放したとしても、それらは地下に潜り、カネ儲けのためには手段を選ばない大人たち(<有害な営利活動>をする大人たち)によって、提供され続けるだろう。需要側にしたら、隠れて手に入れる状況に自らを置くだけのことでしかない。いわば、<有害情報>はどう足掻いても阻止できようはずがないもの、それを<見せない仕組みをつくる>ことなど不可能と見定める開き直りが必要なのではないか。

 大体が常識ある大人たち自体が常に常識ある態度を見せるとは限らないのである。大学教授が若い女性愛人にカネを貢ぐために、自分たちの性行為をビデオに撮り、それをCDROM化して、ホームページで販売して逮捕されたのはごく最近の出来事である。大人たちの児童買春も跡を絶つことはなく、学校教師自体の教育対象者ではあるはずの女子生徒に対するワイセツ行為も断絶することなく年々増え続け、しぶとく話題を提供し続けている。マスコミにとってはありがたいニュース提供者となっているに違いない。順位を付けるとしたら、警察官と政治家と1位、2位、3位を争う好位置につけているのではないのか。政治家で言えば、女性問題で不人気を買い、総選挙に敗北して辞任に追い込まれた総理大臣もいたし、愛人問題が辞任の一つの理由となった幹事長もいる。

 大人たち自体がワイセツ・猥雑ときているのに、それを児童・生徒に禁止する資格はない。少なくとも<有害情報>を嗜好する児童・生徒は自己正当化の理由に「大人たちだって」を挙げるだろう。「裏にまわれば、何をしているか分からないのに」と。<有害情報>を利用してカネ儲けに走る大人たちにしても、政治家や官僚、企業人の私利私欲のための手段を選ばない悪事・不品行・カネのやりとりを、「連中にしたって、裏にまわれば何をしているか分からないのに」と自己正当化の理由とするだろう。「お互い様じゃないか。どこが違うってんだ」と。

 感性・想像力を表面的に刺激するだけの、多分に時間潰しの色彩の濃い低劣な情報を志向するのは、表面的・形式的なコマ切れ知識を暗記させるだけの学校教育自体が生徒の感性・想像力を深いところで刺激しないことの反映としてある、いわば釣り合いの取れた状況のはずである。もし何らかの知識に深く魅せられたなら、ときには気晴らしにテレビでバラエティ番組を見たとしても、基本の嗜好は感性・想像力を深く刺激する情報に向かうはずである。子どもの頃、シェークスピア作品や夏目漱石作品を読んで、例え正確に理解できなかったとしても、何かあると感じ、惹かれるものをどう抑えることもできなかったことを経験した人間は、成長してから人間を浅く描いただけの情報、あるいは表面的な刺激しか与えない娯楽には常に物足らなさを感じるものである。

 勿論、人間としての基礎を築く出発点の家庭で親が番組の内容を検討もせずにだらしなくテレビを見せるとかして、子どもの情操を未開花なままの状態にさせておいた罪は糾弾されて然るべきではあるが、純然たる教育空間である学校がそれを補って少しでも開花状態に持っていくのが、役目というものだろう。未開花なまま入学したのだから、未開花なまま送り出せばいいというものではないはずである。まだ漢字を知らない、まだ計算ができない子どもに漢字と計算はそれなりに教えることができるなら、情操教育もそれなりにできなければならないはずで、それができていないとなったなら無能力・怠慢の罪は糾弾されて然るべきである。それを学校教師は「最近の生徒は本を読まなくなった」と嘆いて、子どもに責任転嫁している。

 教科書を表面的になぞり、それを解説するか、教科書を離れたら、ああしろ、こうしろと言うだけか、自分の経験を話すとしたら、どこで誰と何をしたか、事実を事実どおりに伝えるだけか、その程度のものが教師の平均的な言葉となっていることが生徒の感性・想像力を何ら刺激せず、そのような教師の深みも何もない平均的な言葉を受けて、情緒性をすっかり剥ぎ取ってしまった今の若者言葉があるのである。

 となれば、学校生徒の<有害情報>嗜好を抑制するためには、まずは教師の言葉を問題としなければならない。そしてそのような機械的で情緒的に無味乾燥な教師の言葉は、機械的な解釈以外は必要としない、逆説的に言うと、そのような言葉を間接的に強いている学歴獲得のテスト教育によって淘汰されたもので、学歴獲得のための教育では一枚も二枚も上手の学習塾の教師の、テストの設問と解答のための言葉以外は省いた言葉がその典型としての証明を見せている。

 一見遠回りに見えるが、学歴獲得を主体的に目的とした現在の教科教育を根本から変換するしか、有効な<有害情報>対策はない。今の子どもがテレビに慣れ親しんで、テレビを血肉としているなら、豊かな人間性と豊かな情操に溢れたドラマやドキュメンタリーをビデオ鑑賞させ、鑑賞したあと教師対生徒・生徒対生徒で何が描かれていたか、どう受止めたかといったことの言葉の闘わせを行い、相互に理解を深め、それを相互の感性・想像力の刺激剤とする。それら一連の作業は自己認識・他者認識・共感能力(社会性)をも高め、「教育改革国民会議」が目指す<人間性豊かな日本人><育成>の実現にも向かう契機となるはずである。プロ教師の如くに「親や社会の要求することを完全に拒否する力はありはしない」だとか、「残念ながらそれにのみ込まれ流されていることは事実」だとか、「教師が親と子の強い要求に引きずられ、受験競争に生徒を追い立ててしまっている」などと薄汚い狡猾な自己正当化の責任転嫁で自己保身に汲々とせず、社会の学歴主義への防波堤となって、人間性育成教育への転換を図るべきだろう。人間性育成が<職業観、勤労観>をも育む。人間性育成教育と並行して学力(学ぶ力)をつける教育を創造してこそ、教師は学校教育者と言える。「流され」るだけなら、学校教育者はいらない。
    (教育改革国民会議・最終提言批判)以上

 以上見てきたように、提言(1)の<教育の原点は家庭であることを自覚する>、提言(2)の<学校は道徳を教えることをためらわない>、提言の(3)の<奉仕活動>、提言の(4)のいじめを含めた<問題を起こす子ども>に対する<出席停止>問題等は今回の「安倍教育再生会議」でも議論されていることで、既に指摘したように、ほぼそっくりの問題が再提言されているということは「教育改革国民会議」の提言が何ら実効を見なかったことを証明し、同じことの繰返しとなっている。

 と言うことは、教育に関わる現在の問題点を拾い出して、その対策を議論し合う同じことの繰返しを行うことよりも、「教育改革国民会議」の提言を実行に移すことができなかった諸原因を探り出して、その誤りを正していくことの方が根本的解決に向けた早道ではないだろうか。

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