小学校教諭自作HPの自動車事故被害児童写真無断転載問題から見る
小学校教諭でありながら、自作ホームページに自動車事故で被害者となった女子児童の写真を無断で転載し、性的興味の対象とした。それも一度同じような犯罪(過ちではない)を犯していたという。再犯は本人の資質に関係するだろうが、教育委員会や学校の危機管理無能力がそれを許したとも言える。
羽村市教育委員会教育長・角野征大の謝罪記者会見の謝罪の言葉、メモを見ながら、「遺族のみなさんの心痛をお察ししますと慚愧の極みに耐えません。誠に申し訳ありませんでした」
そして居並んでいた関係者と一堂一斉に頭を深々と下げる。
この程度の謝罪の言葉を予めメモに書き入れて用意しなければならないのは、謝罪記者会見が彼らにとって一度は開かなければならなかった儀式でしかなかったのだろう。だから、口にした言葉自体が「挨拶文例集」といったマニュアル本から書き写したような紋切り型の謝罪となっている。市の教育委員会の教育長委員でございますと言っても、その誠意・人格はこの程度なのである。
記者の「ホームページは見たことありますか」の問いかけに誰も答えない。「誰も見ていないのですか」の再度の問いかけに、後藤良秀教育委員会参事が「報道で見た物が私たちが確認したものなんです。今言われましたようにですね、私どもは既にホームページを閉じ情報と機器等が警察の方に押収されたということでですね、その段階でホームページそのものは完全に閉じられていて、今もホームページがあってですね、それが閲覧できるというようなことを判断しておりませんでした」
いじめ問題が起きて、いじめた側が謝罪して収まった。だからと言って、そのいじめが再発しない保証はどこにもない。再発しないか、いじめられた生徒・いじめた生徒に必要に応じて問いかけを行うといった観察が必要なはずである。「仲良くやっているか?」といったふうに。周囲の生徒からの聞き取りも続けなければならないだろう。それが事後管理というものである。
だが多くの学校、教師が放置したままとし、いじめの継続を許してしまう。
警察の手が入って、閉鎖命令を受けたHPの内容を確認し、その教師の知られざる人となり(周囲の目に隠れて行っていた行為から判断できる裏の顔)を追及して、教師としての適格性を問い正すといったことをしたのだろうか。HPがどのような内容か確認しないまま、懲戒免職するほどの重大犯罪ではない、軽犯罪に過ぎなかったからと、教師の地位を保障したのだろうか。
少なくとも、警察問題を一度起こしたのである。再度同じことを繰返す可能性を考慮して、犯罪出所者等に行う保護観察と同等のその後の生活態度を観察する措置を講ずべきだったろう。再び同じようなHPをインターネットに載せていないか本人に聞き質すことは最低限行うべきだったはずである。
それでも犯罪を犯す人間は犯す。警察の存在を以てしても、あるいはどのような法律を以てしても、この世から犯罪はなくならないのだから。
しかし事後管理を尽くすことが人事に関わる職務への責任遂行に当たる。地震や洪水といった自然災害に対する事後的な危機管理、あるいは脱線事故やその他の人為的事故後の危機管理、あるいは児童虐待防止やいじめ自殺防止といった犯罪予防に関する事前的な危機管理だけではなく、当然行うべき事後に関する危機管理等々、すべてに亘って危機管理が機能しない状況が蔓延するに任されている。一人教育委員会の問題ではない。
なぜ日本人は危機管理能力が劣るのか。権威主義を行動様式としているからに他ならない。上の命令・指示に従うことに慣らされていて、命令・指示、あるいはマニュアルに含まれる〝しなさい〟という他者からの発動を行動の必要不可欠な条件としているからである。だからこそ指示待ち症候群と言われる。指示を待った上で行動したとしても、指示が同じだから、横並び現象を引き起こす。それを以て横並び症候群と言うのだろう。
平成13年12月25日に閣議決定した公務員制度改革大綱には「しかしながら、行政の組織・運営を支える公務員をめぐっては、政策立案能力に対する信頼の低下、前例踏襲主義、コスト意識・サービス意識の欠如など、様々な厳しい指摘がなされている」との一文が記されている。
上記文中にある「前例踏襲主義」とは、まさしく〝マニュアル主義〟、〝横並び主義〟の言い替えでしかない。「前例」をマニュアルとする、あるいは「前例」に横並びさせる。結果として発展もない「前例」の同じ「踏襲」(=繰返し)が続く。
男性教諭が勤務する小学校の女性校長、保護者会を開いたあと、記者に問われて、「そのHPに保護者の方はそれが自分の子どもが載っているかどうかって言うところの辺り、そこをどういうふうに今後確かめて、まあ、教育委員会が確かめていくのかという辺りで、ええ、何回か質疑応答がありました」
それが未遂の状態であったなら当然のことだが、例え既遂状態であっても、表現の自由の問題が絡んでくるから、所持品としているパソコン内を探るわけにはいかないだろうし、同じようなHPをアップロードしていないかインターネット上を検索するのも、数多くあり過ぎて不可能に近く、上記したように事後の本人の生活態度・行動を監視、あるいは観察するしかないだろう。件の教師だけではなく、生徒の側から見たすべての教師の評判を生徒は父母に話しているだろうから、父母から聞き取り調査するといったことも学校危機管理上必要ではないだろうか。そういった調査を行えば、父母は逆に子どもに、先生のことで何か気づいたら、いい評判でも悪い評判でも親に話すようにするのよと注意するだろうから、親子共々教師の人となりを直接的・間接的に観察することができるようになる。
校長は「今後確かめ」る役目を「教育委員会が確かめていく」と教育委員会に丸投げしているが、責任回避そのもので、日常的に身近に接しているのは校長以下の学校職員であり、生徒である。そして間接的に生徒の父母が知り得る立場にいる。〝しなさい〟という他者からの発動を受けるのではなく、すべての立場の人間がそれぞれに考え、対応策を探るべきであろう。
結果としてあった場合の犯行が表に現れる(世間に知れる)のを待つしかないとことになりかねないが、既遂犯行を学校の恥として健忘症の淵に沈めるのではなく、経緯すべてを記録として残し、それを他の不祥事と共に学校の負の歴史として学校史に章を設け、同じ間違いを犯さない後の教訓(=危機管理)とすべきだろう。かつての日本の戦争をすべての経緯に亘って歴史として記録し、同じ侵略戦争を侵さない教訓(=危機管理)とするようにである。
人間はきれいな姿ばかり見せるわけではないことの教材とするためにも。