4集団奉仕活動は必要ない
提言の(3)は、<奉仕活動を全員が行うようにする>となっている。その理由として、<今までの教育は要求することに主力を置いたものであった。しかしこれからは、与えられ、与えることの双方が、個人と社会の中で温かい潮流をつくることが望まれる。個人の自立と発見は、自然に自分の周囲にいる他者への献身や奉仕を可能にし、さらにはまだ会ったことのないもっと大勢の人の幸福を願う公的な視野にまで広がる方向性を持つ。思いやりの心を育てるためにも奉仕学習を進めることが必要である>を挙げている。日本の政治家自体が派閥力学・選挙利害・族原理・省益代弁で政治を行っていながら、あるいは<他者への献身や奉仕>が自己地位の保身を取引材料としていながら、いわば無私とは限りなく無縁でありながら、<思いやりの心>などと日本の政治家にはない無私を求めるのはおこがましいにも程がある。強制されたものではない、自発的な<奉仕活動>と<思いやりの心>が一般的になったら、似た者政治家は後が続かなくなり、自らの首を絞めることになるだろう。
提言の具体的な内容は次のとおりである。
<(1)小・中学校では2週間、高校では1か月間、共同生
活などによる奉仕活動を行う。その具体的な内容や
実施方法については、子どもの成長段階などに応じ
て各学校の工夫によるものとする。
(2)奉仕活動の指導には、社会各分野の経験者、青少年
活動指導者などの参加を求める。親や教師をはじめ
とする大人も様々な機会に奉仕活動の参加に努める
。
(3)将来的には、満18歳後の青年が一定期間、環境の保
全や農作業、高齢者介護など様々な分野において奉
仕活動を行うことを検討する。学校、大学、企業、
地域団体などが協力してその実現のために、速やか
に社会的な仕組みをつくる。
偉大なるプロ教師である河上亮一先生は教育国民会議の重要な、多分なくてはならないメンバーの一人で、先生の学校教育界における歴史に残る業績から推測すると、義務化推進派の重鎮なのはこの上なく確かなことに違いない。いわば河上亮一先生の偉大なる教育思想の成果ともなる<奉仕活動>の義務化なのだろう。実践され、軌道に乗った暁には森総理大臣の横で、二人して<神の国バンザイ>を三唱することになること請合いである。メデタイことである。
義務化に関して、いつも偉大な河上亮一先生は、「強制のなかで学ぶきっかけを得ることもある」とおっしゃっている。そのとおりである。万が一にも間違いのない要点を押さえたお言葉である。その結果として、元々日本人は歴史的伝統的に集団主義・権威主義を行動様式としていて、集団や上位権威者の命令・指示に言いなりに同調・従属する性格傾向を自己性としているから、多くは〝なぞり〟と〝消化〟の一層の「学」びを刷込む方向に進むだろう。いわば「強制のなかで学ぶ」ものはなお強化された同調・従属でしかない。「大学を卒業しても、考えることができない」メンタリティーとは(アメリカ人ジャーナリストを介した指摘)、言いなりな同調・従属性の言い換えであって、体系的に学び問うことをしない教育システムの収穫物としてあるものである。
言いなりな同調・従属に対して、個々の主体性や自律性(自立性)・自発性は阻害要因として働く相対立する価値観なのは先に述べたが、その延長に「マニュアル国民」、「前例国民」、あるいは「親方日の丸」の日本人性があるのであって、そのような日本人性からしたら、「学ぶきっかけを得る」というプロセスにある自発性・主体性は一般的には矛盾する方向性を持ったものである。いわば「学ぶきっかけを得」たとしても、ごく一握りの少数派でしかないだろう。その他大勢はそれまで以上の形式だけの表面的な同調・従属でしのぐことになるに違いない。偉大な河上亮一先生のことだから、勿論そういったことを踏まえて名言を吐いているだろうとは思う。
テスト勉強と同様に、掃除やその他の作業と同様に、義務づけられたから、ただ単に命令・指示されたことをなぞり、消化する――去勢された奴隷の如くに言われたことを機械的にこなしていく。最大公約数の学校生徒がすべての局面においてそうなったとき、偉大なるプロ教師河上亮一先生が望んでやまない「教師が何か言えば、生徒がそれを聞くという関係」が完成するわけである。やはりメデタシ、メデタシである。
勘繰るに、「奉仕活動」の義務化を新制定の国旗国歌法を受けた学校現場における日の丸・君が代の(半)強制的使われ方と併せ考えると、国家を批判しない、管理可能状態に国民を飼い慣らすことができるよう、小学生のときから日本国家に向けた同調・従属の姿勢を植えつけようとの遠謀深慮から出た義務化ではないだろうか。偉大なるプロ教師河上亮一先生の言葉を借りれば、国家が「何か言えば、」国民が「それを聞くという関係」である。もし当たっているとしたら、日本が紛争状態に巻き込まれたとき、<奉仕活動>で確立された集団性はいとも簡単に勤労動員や徴兵制に振り向けられ、利用されることになるだろう。
特に<将来的には、満18歳後の青年が一定期間><奉仕活動>を行うとする好むと好まざるとに関わらない義務化(=生活制限)は、好むと好まざるとに関わらない、まさにその一点において、精神的な徴兵制度・精神的な勤労動員を背負わされるに等しい。義務化が持つ半強制性の反復による国民に対する管理可能状態への徹底化である。とにかく河上亮一先生は、言うことを聞く生徒を熱望してやまない。自民党政権が言うことを聞く国民を熱望してやまないように。
<奉仕活動>での<共同生活>は、肉体訓練とか健康維持とか称して早朝ランニングや早朝ラジオ体操、そして夜は何らかの社会勉強の時間が設けられ、<奉仕活動>を管理・監督する側から生活全般を厳しく管理・強制される。したいこと・なりたいことを禁止され、少なくとも抑制され、自己生活とは無縁の厳しいスケジュールに従って支配される。例え<具体的な内容や実施方法については、子どもの成長段階に応じて各学校の工夫によるものとする>としたとしても、また実施時期がそれぞれに異なっていたとしても、その土台は国家権力の意志を受けた教育委員会や学校による一律的強制であることに変わりはない。これは個人の自由の侵害に当たらないだろうか。なぜ<共同生活>なのか。実施における年齢と時間のズレはあっても、挙国一致を要素とした一斉性を孕み持っているのである。
オリンピックとか世界選手権を迎えた<満18歳後の青年>は公の大義名分によって、大会後への延期が許されるだろうが、大学浪人は受験勉強を中断させるわけにはいくまい。高卒でプロ野球を目指す高校生は<一定期間>をどこに置いたらいいのだろうか。それとも、スポーツエリートに関しては特別免除の例外規定を設けるのだろうか。それは国民を<満18歳後>の時点で〝選民〟とその他大勢にふるい分けることになる。ふるい分けられてその他大勢であることを自覚させられた<満18歳後の青年>は自嘲と無力感に囚われることはないだろうか。
<環境保全や農作業、高齢者介護>等々――<奉仕活動>の内容によって、あるいは指導・監督する者の方法によって大変・楽の差が生じて、それが口コミで伝わり、楽な<奉仕活動>には希望者が殺到するが、大変な方は忌避される傾向が生じないだろうか。そうなったら、自発性の<奉仕活動>でないゆえに、希望と違って俺は大変な方にまわされたと不平不満が渦巻くことにもなるだろう。その結果、どちらにまわされようと、どちらを選択しようと、形式的な同調・従属を最強化させ、一刻も早く解放されることだけを願うということにもなりかねない。
同調・従属への傾斜は、例え<奉仕>内容は違っていても、過不足なくみんなと同じを目指す類似性心理(横並び心理)の誘発にもつながる。それは日本の経済や芸術・文化・技術・娯楽の、現在以上に多様となるべきそれぞれの分野にこれまで以上の社会的活力の平均化――いわば今問われているアメリカ社会の多様性に劣る日本社会の多様化への否定要因ともなり兼ねない、その失速を招くことにつながるだろう。
集団訓練こそが人間性を鍛えると信じて疑わない日本人の単細胞性は、勿論集団主義・権威主義からきている。集団成員一人一人が主体的・自律的に行動することを常なる前提とした集団経営ではなく、上がスケジュールしたことをスケジュールしたとおりに「ああしなさい」「こうしなさい」と命令・指示し、下がスケジュールどおりに(命令・指示されたとおりに)従えば、それでよしとする〝和〟優先の無批判・無考えな同調・従属を構造とした集団なら、国家権力にとっては都合がいいが、自ら行動しない人間・自ら考えることはしない人間をつくるばかりで、人間形成に何の意味もないばかりか、かえって害となる経験で終わる。
最近、〝引きこもり〟が問題となっているが、引きこもりとは、他者との間に言葉のコミュニケーションを喪失した状態を言うはずである。もしも学校社会で日常的に他者との自由な言葉の交換の習慣(<会話と笑い>)が存在していたなら、例え引きこもりに陥ったとしても、習慣として植えつけられた言葉の交換をいつまでも抑えつけておくことはかえって苦痛を誘発することとなり、少なくとも社会現象化するまでには至らなかったはずである。いわば、〝引きこもり〟は学校社会に言葉の交換(<会話と笑い>)の習慣の不在の裏返しとしてある現象とも言える。
ところが、多くの人間が集団生活を営ませれば、引きこもりはなくなると考えている。学校社会が既に集団生活の場であることを無視した愚かしい発想でしかないことに気づかない主張なのだが、例え一緒に生活したとしても、集団の場で他者との会話を一切持たなかったり、仲間外れ状態にされていたなら、心理的・物理的な一種の〝引きこもり〟と言える。学校に不登校予備軍とも言える、不登校一歩手前の引きこもり状態にある生徒が決して少なくないはずである。
偉大なるプロ教師でいらっしゃる河上亮一先生にしても、「学校が教科中心となって、行事が後退したため、子どもたちが集団活動する体験が減った」と、学校そのものが当初から一種の集団活動社会であることを無視して、行事だけが集団活動の機会だと、偉大なるプロ教師にしては、それに反する単細胞なことを言っている。多分、偉大なるプロ教師の河上亮一先生は、学校で最も多くの時間を過ごす授業時間をこそ、真に有効な集団活動の場とするだけの想像力が欠けているために、行事だけを集団活動の機会だとする無責任なすり替えをやらかしているのだろう。その裏を返せば、プロ教師の授業は、その他大勢の教師も同じことだが、教科書を解説し、生徒に答えさせる、教科内容の理解以外の言葉の交換のない機械的なもので成り立たせていることを暴露している。
必要なのは物理的な集団生活ではなく、幼い頃からの、特に学校社会での相互に自己の考えを主張する言葉の闘わせの習慣であろう。教師対生徒・生徒対生徒の自分を述べ、自分を主張する言葉の日常的な交換によって、自己を認識し、他者を認識する能力(=社会性)が獲得可能なのであって、その育みが主体性や自律性(社会的自立)、さらに自発性の確立につながり、その先にこそ、同調・従属とは正反対の独自性や多様性が待ち構えているのである。そしてそのような独自性や多様性こそが、社会に活力を与える導火線ともなるものである。非自発性であるゆえに同調・従属を誘発しがちなスケジュール化された集団生活・集団活動は独自性や多様性の芽を摘み、抑圧する相対立する位置にある価値観であることを認識しなければならない。
改めて言うが、「強制のなかで学」ばせる教育方法は、〝なぞり〟、〝消化〟の形を取った学びを誘い出すだけである。それは元々からある日本人の行動原理であり、受身の姿勢で十分に機能させてきたシステムだからである。
呼びかけに応じてボランティアの集団清掃活動を行っても、個人の立場では平気で空きカン・空きビン、さらにはタバコの吸殻も捨てる矛盾性は、呼びかけに世間体や近所・仲間の手前といった半強制的な権威主義の力学(=圧力)が働いていて、断りきれずに形式的に同調・従属し、〝なぞり〟と〝消化〟で清掃を行うことから来ている身につかなさなのだろう。純粋に自発的に参加した清掃活動なら、みんなの手前は拾うが、自分は捨てるといった裏表のある行動は取れない。毎年の富士山の山開き前に行う清掃活動はダンプ何十台という大量のゴミを処理することになるが、その殆どが日本を代表する日本一高い山・日本一美しい山として信仰、もしくは誇りとしている日本人が捨てたものなのである。彼らの多くは世間に対したとき、常識ある大人として振舞っているはずである。いわばその常識は自発性からのものではなく、単に周囲に合わせ、周囲に同調・従属したもの、〝なぞり〟と〝消化〟でやり過ごしているものだと言うことを暴露している。
かくかように同調と従属を行動性としているのである。集団行動がそのような行動性の強化に役立っても、提案が言っている、<個人の自立と発見>どころか、<自然に自分の周囲にいる他者への献身や奉仕を可能にし、さらにはまだ会ったことのないもっと大勢の人の幸福を願う公的な視野にまで広がる方向性を持>たせることは過大な期待で終わるだろう。集団主義・権威主義を行動様式としている日本人には、集団や組織から離れたところでの自律的主体性が必要なのである。自律的主体性とは、主体的個人性のことである。空きカンや空きビンのポイ捨てに譬えるなら、誰もいない場所や知った顔のいない場所でのポイ捨てをしない社会性の確立が待たれるのであり、それは個人が自律的主体性(主体的個人性)を備えることによって可能となる行動性であろう。