ガキ大将の役割に見るいじめ理論の非合理性

2006-12-11 03:23:50 | Weblog

 すべての生徒に等しく生存機会を

 06年12月3日 日曜日の「テレビ朝日」の「サンデーモーニング」。コメンテーターの一人なのか、レギュラーメンバーでいつも顔を出している慶大教授の草野厚が議論に割って入って、教育再生会議の議論で欠けていることとして、携帯を使って匿名で簡単にいじめの文章を送れる問題を取り上げ、「それがキッカケになってブログを組めて(?)自殺した人もいる。そういうところをもっと議論を重ねる必要があるのではないか」と提案した。

 それに対して教育再生会議の委員の一人でもあるヤンキー先生こと元高校教諭で現在横浜市教育委員会委員の義家弘介が、「情報リテラシーの項目で議論している。ネット教育。大人の手の届かないところにまでいじめが地下進行している。フィルタリング・サービスを義務づけるとか、様々な方策を考えていかなければならないが、今後の議論の中でやって行こうと――」

 藤原和博民間人初の中学校校長「携帯については中学では本当に凄く問題で、携帯の存在がいじめを変質させたんです。例えば、死ねって言うのは結構勇気がいると思うんですけど、4回か5回ボタンを押して、送信ていうのは非常に楽なんですよ。100回でもそれをやっちゃう。親に言っているのは安易に、例えば入学のご褒美とかね、そういうの与えないで欲しい。どうしても与えなきゃなんなくて、連絡が必要なら、自分のを貸す。あるいはもう一つ買って、それを貸して、夕食以降はそれを与えないとか、あるいは10時以降はメールをさせないとか、ルールをきっちりさせないと――」

 まだ若い息子を将来は人間国宝請け合いの名噺家に育てた、きっと子育てには自信満々・鼻高々なのだろう海老名香葉子が「そういう姑息な遣り方をする子どもに育ててしまったということ、そこまでいってしまったということは親の責任です。昔は子どもの中でもガキ大将がいました。それでちゃんと差配していました。それで楽しく遊ばせました。それで社会でもそうでしたけど、そういう陰湿な(メールするような)ことはしなかったんですよ。チャンバラだって、正義の味方は勝つ。悪い奴は負ける。そういう教え方で――」と「昔」はいじめなどなかったかのようなことを言う。

 司会の田原総一郎が遮って、「ヤンキー先生がおっしゃるように、今日の被害者が明日の加害者と、昨日の被害者が今日の――、どんどん変わってしまった。ガキ大将がいなくなった。どうしたらいい?」

 海老名「ですから、元に戻さなくちゃ。親の教育です。親がもっと、もう一度子育てについて検討しなくちゃいけないと思います」

 「昔」はと言われる時代は「ガキ大将」が仲間の秩序を守り、いじめはなかったとする主張が海老名香葉子だけではなく、多くの日本人が共有している〝子ども社会秩序維持論〟として流布している。多くの日本人によって信じられている主張だからこそ、流布という事実が存在するのだろうが、合理性を持った主張なのか取り上げたいと思う。

 その前に初の民間人校長だという藤原和博氏が子どもには携帯は貸し与える形で持たせることと、「夕食以降はそれを与えないとか、あるいは10時以降はメールをさせないとか、ルールをきっちり」とつくることの必要性を強調していたが、本人自身、自分で話しながら自分の言葉に盛んに頷いて、さも立派な主張であるかのように一人納得していたが、携帯を持った子どもすべてがいじめのメールを送るという前提に立った主張となっていることには気づいていない。それを防止するための一律的「ルール」の強制と言うことだろう。

 例えば夕食以降予習か宿題をしていて、分からないところを友達に電話して聞きたい、あるいは悩み事を相談したくなることもあるに違いないが、そういったことまで禁止する「ルール」となることにまで考えを思い巡らせていない。そういった電話は固定電話のあるところまで行って、それを使えとでも言うのだろうか。車があるのに、歩いてコンビニに行ってこいと言うようなものである。

 藤原氏自身はそこまで意図したことではないだろうが、すべてを疑うことになって、いじめを行わうつもりもない生徒の反撥を招きかねない。藤原氏の携帯に「死ね」とメールされることにならないだろうか。番号などは同じ学校の生徒が2チャンネルに藤原氏の携帯の番号と一緒に「死ねのメールを送ろう」と投稿したり、あるいは携帯でなくても、藤原氏の中学校のHPアドレスを調べて、メールを送りつける手もある。

 ルールをつくることができて親子の約束を成立させることができたとしても、いじめる人間は夕食以前にメールを送るぐらいの知恵を働かすだろう。時間は条件とはしていない。メッセージの送信自体を目的としているからだ。夕食時に親に返した携帯を朝学校に行くときに受け取る。「行っていきます」の挨拶をして親の目の届かない場所にまで歩いたら、さっそく「死ね」の文字を「4回か5回ボタンを押して、送信」したとしたら、「夕食以降」の「ルール」はいくら厳格に守られたとしても意味を失う。

 また中学高学年から高校生にもなれば、自分の小遣いで携帯をこっそり持ち、電話代まで自払いできるぐらいの財力は持っているに違いない。人をいじめるような人間なら、不足した場合、恐喝で補填する才覚に事欠かないだろう。携帯を取り上げることが、恐喝につながるケースも生じる場合もあると言うことである。

 また携帯という新しい機器の利用だけが「大人の手の届かないところにまでいじめ」を「地下進行」させる原因をなしているわけでも、なすわけでもないし、当然陰湿化させる手段だと限定するわけにもいかないはずである。人目に隠れてする、あるいは人目があったとしても、それとは分からない姿を装わせて行うというだけではなく、他の生徒が見ているのを承知で行ういじめや厭がらせの類はそれを行う人間の標的となる人間に対する優位性、あるいは優越性を周囲に見せつけて誇り、そのことによって相手の劣位性を周囲に知らしめる必要性からの行為である場合が多く、標的となる生徒にしても自分の恥を周囲に曝すことになって、メールを送りつけられるといった人に知られないいじめよりも却って始末に悪いということもある。

 また藤原氏は「例えば、死ねって言うのは結構勇気がいる」と言っているが、いじめの多くが相手に対する身体的・心理的優位性を条件として行われるもので、必ずしも「勇気」を条件とはしない。いじめる側が往々にして集団を組むのは一人では確保しにくい、それゆえに簡単に逆転されかねない身体的・心理的優位性を数の力で確実なものとするためだろう。

 「死ねって言うのは結構勇気がいる」のは自分よりも相手が身体的に上回り、当然心理的にも相手の方が上となる人間に数を頼まず自分一人で「死ね」と言うときだろう。このことは携帯でも条件は同じはずである。

 簡単に分かる例で話すと、クラスにいつも集団を組んでクラスメートをいじめるグループがいる。相手が集団で自分ひとりでは敵わないのは分かりきっているが、正義漢から携帯で、「お前ら死ね」とメールを送る。それが相手にとっては匿名行為であっても、送信者は自分であるという意識から逃れることができないのだから、露見した場合の不安や恐怖を考えた場合、「結構」どころか、相当に「勇気がいる」ことになる。夜満足に熟睡できなくなったり、相手と顔を合わせたとき、落ち着かない目の動きをしてしまったり、あるいは露見を防ぐために俺じゃないぞというところを見せるために逆に相手を見つめ過ぎたりして、却って怪しまれて、「お前じゃないのか」といきなり言われて、うろたえ、分かってしまうといったこともあるだろう。

 言ってみれば、既に様々にあるいじめの方法にメールによるいじめがそこに加わった新しい方法であるということ、メールを使ったとしても、その陰湿さの程度に濃淡があるのは他のいじめと条件は同じであるということ、相手との心理的・身体的距離を利用した構造となっていることに何ら変わらないこと等を考えると、藤原和博が「携帯の存在がいじめを変質させた」と言う程には本質的な要素をなしているわけではないのではないだろうか。

 例えば昼休みとかに大勢の生徒が出ている校庭で友達と遊んでいたら、背中に石をぶつけられた。急いで振り返ったが、たくさん生徒がいて、誰が投げたかわからない。思い直して友達と遊び続けると、また背中に石を投げられた。振り返っても、誰か分からない。校庭にたくさんの生徒がいて簡単には誰か特定でいないのをいいことに石を投げつけたりするいじめも匿名性を利用した隠れてするいじめで、陰湿である上に卑怯ないじめの内に入るだろう。

 石を投げつける相手は石を背中にぶつけられる生徒よりも身体的・心理的に優位的位置に立っているからこそできる。一人でそれを確保できなければ、集団を組んで確保しているだろう。位置的に逆の場合は、隠れてする行為であっても、余程の覚悟・勇気がいるからだ。露見して優位的位置を持たない生徒だと分かってしまった場合、投石の標的にした相手からではなくても、他の生徒からもバカなことをしたと失敗に対する嘲笑を受けない保証はない。嘲笑が身体的な懲罰へと進み、それが立派ないじめへと昇格を見ない保証もないはずである。

 絶対に露見しないという確かな条件に守られなければ、非優位的位置からのいじめは不可能である。とすれば、問題は身体的・心理的な優位性の証明にいじめを手段とする行動性であって、携帯という手段ではないはずである。藤原和博氏は民間人初の中学校校長だと持て囃されているようだが、どうも人間の現実の姿を見る目に合理性を欠いているように見えるが、それは不当な非難であって、欠いているのは私の方なのだろうか

 対する蛯名香葉子氏は〝いじめ・親元凶論〟に立っているが、その揺るぎのない姿勢に幸せだろうなとさえ思う。ガキ大将が常に善なる存在だとすることのできる客観性、あるいは客観的性善説は二律背反の自己矛盾を孕んでいないだろうか。孕んでいないとしたら、この世の中に常に善なる存在が実在することを認めなければならなくなる。

 ガキ大将が常に正義を行う存在だと決めつけることができる程には人間は単純にはできていない。人間はいたって複雑怪奇にできている。それは今も昔も変わらない、時代を超えてある姿である。そのことに気づきもしないで、教育再生会議のメンバーの一人となり、教育問題にその資格もなく首を突っ込み、しゃしゃり出ているとしか思えない。

 ガキ大将のいた時代はいじめはなかった。当然教師の体罰もなかった。ガキ大将が仲間を「差配」できたのに、学校教師が生徒を「差配」できないといったことはありようがないからである。学校教師にしても子供の頃は自身がガキ大将ではなくても、地域でガキ大将に「差配」されて集団秩序を学び、また生徒の方も地域で集団秩序を前以て学んでいる共通項を抱えた似た者同士の間柄なのだから、生徒管理にどのような破綻も考えることはできない。

 だが現実にはガキ大将のいた時代でもいじめも体罰も存在した。存在しないように見えるのは非情報化社会で、表に現れる数の少なさに比例して世間に知れる機会も少なかったからだろう。いわばその多くが情報化されるまでに至らなかった。身体障害者いじめ、朝鮮人の子いじめ、遠くから引っ越ししてきた転校生に対する他処者いじめ、年下の子いじめ、女の子いじめ等々、いつの時代も存在したはずだ。現在でも他処者に対する警戒心は強い。日本政府が外国人受け入れに消極的なのは、日本人とは全然違う外国人という他処者に対する警戒心も一つの要素となっているはずである。

 かつては朝鮮人の子どもに対するガキ大将に率いられた集団のいじめも存在した。朝鮮を併合・植民地とし、日本人は彼らの支配者として朝鮮人を劣る人種と見た。日本人の大人のそのようや意識を受けた日本人の子どもの朝鮮人の子どもに対する具体的な差別行為がいじめとなっていたに過ぎない。子どもが大人を差し置いて朝鮮人いじめを発明したわけではない。日本人の大人の中にあった朝鮮人蔑視の意識・態度を見たり、聞いたり、感じたりして子どもに伝わり、子どもは子どもなりの方法で自分たちの偉さ、彼らの劣ることを表現したのである。「チョウセン」、あるいは「チョウセンジン」と罵ったり、バカにしたり、石を投げつけたり。

 在日詩人の高史明氏は子供の頃の戦前時代に日本人の子に軽蔑する語調で「ハンカーチ」といつもバカにされたが、その意味が今以て分からないと自身の著書で告白している。多分「半価値」という意味ではないだろうか。「ハンカチ、ハンカチ」と罵るべきところを、「ハンカーチ」と伸ばしたから、意味不明に聞こえたのだろう。朝鮮人は人間として半分しか価値がない。皮肉を言えば、半分でも価値を認めていたなら、却って誉むべきことでなかっただろか。全然認めていない日本人の方が多かっただろうから。

 大体が「正義の味方」と「悪い奴」が存在すること自体が、ガキ大将の「差配」の有効性に反する矛盾を示す。有効であったなら、「悪い奴」は存在不可能となるからだ。かつての激しい朝鮮人差別は「正義の味方が」常に正義の味方ではなく、「悪い奴が」常に悪い奴とは限らないことを証明して余りある。朝鮮人差別の最過激な具体化は関東大震災時の「半価値」さえ認めなかった大量の朝鮮人虐殺だろう。一般日本人が竹槍を持ち出して朝鮮人を追い掛け回し、見つけ次第突き殺して、何人殺したと自慢し合ったという。

 現在でも朝鮮人差別は確かな形を取って現れることがある。北朝鮮がミサイル発射や拉致問題、あるいは核実験したときの朝鮮人学校生徒に対する様々な嫌がらせ。これは間歇的な継続性しか持たなくても、いじめそのものに当たる行為であろう。あるいは総理大臣の靖国参拝支持人間の韓国大統領の参拝中止要請に対する朝鮮人差別を文脈とした批判等々。
 
 プロ教師の川上亮一氏も「昔は、学校で子ども集団がつくられる前は、地域に"ガキ集団"が存在し、大人のつくった地域社会の大枠のなかで、年齢の違う子どもたちが自分たちの世界をつくっていた」と"ガキ集団"の正義性に言及している。「ところがいまは、地域からガキ集団がほとんど消え去り、学校のなかにだけ子どもの世界が残ることになったのである。教師の手から相対的に離れたところで、いろんな子どもがひとつの空間を共有するのだから、そこには、かなり荒っぽい関係も成立することになる。大人の倫理はストレートに入らないから、いじめは必然的に起こるものなのだ。つまりいじめは学校の問題ではなく、子どもの世界の問題なのだ。いじめ問題を考えるとき、これが出発点である」

 何と太平楽な「出発点」なのだろう。プロ教師は海老名香葉子共々世界有数の幸せ者に入るのではないか。地域の「ガキ集団」にしても、大人や「教師の手から相対的に離れたところで、いろんな子どもがひとつの空間を共有」していたのである。当然プロ教師の論理からしたら、「大人の倫理はストレートに入らないから」、「かなり荒っぽい関係も成立」し「いじめは必然的に起こ」っていたとしなければならない。

 それとも地域の「ガキ集団」に関しては常に「大人の倫理はストレートに入」っていたと言うのだろうか。小賢しい評論家が持論としていることに「昔は子どもが悪いことをすると、地域の大人が注意して、やめさせた。今の大人は見て見ぬふりをする」とバカの一つ覚えで繰返される手垢のついた地域秩序論があるが、いつの時代の子どもにしても大人の巧妙さを学ぶ。特に悪事に関しては自己保身本能は誰でも持っているだろうから、より巧妙であろうとするだろう。何気なくしてしまういたずらならまだしも、大人の注意を受けなければならないような「悪いこと」は大人の目の届かない場所、隠れた場所でやらかすぐらいの巧妙さは持っている。

 逆説するなら、地域の大人が見つけて注意できるような「悪いこと」は「悪いこと」をする子どもにとっては「悪いこと」の内に入らない事柄でしかないだろう。「悪いこと」が大人の目の届かない場所で完遂される限り、いわば表に現れない限り、情報化を経ることもなく、周囲にとっては存在しないと同じことになり、大人の注意以前の問題となる。それは現在のいじめが学校・教師・親に発覚するまで存在しないのと同じ構図をなすものであろう。

 ときには大人の目に触れることを覚悟して「悪いこと」をする場合もある。柿泥棒やスイカ泥棒といった畑に実っている果実を盗む場合である。大概昼間正々堂々とやらかすから、見つかることを覚悟し、見つかれば一斉に逃げ出す。その早いこと、まさに脱兎の如くである。場合によっては、足の遅い子、逃げるにもたもたしていた子が捕まることもあるが、下手に仲間の名前を告げたりすれば、後でいじめられたり、殴られたりする。教師に呼び出されて、こっぴどく叱られたとしても、二度としませんの誓いはその場凌ぎと相場は決まっている。教師や親に叱られて、「悪いこと」をやめた人間がどれ程いただろうか。

 見つからずにできるか、見つかったとしても、うまく逃げることができるか、ゲームで行うこともある。今の中・高生が人前でも平気でタバコを吸うのは、大人が注意しないのを学び、知っているからだろう。と言っても、注意しないのが問題ではない。注意が有効である場合は隠れて吸うだけの話である。実際に人前で吸う前は隠れて吸っていたのであって、注意のあるなしは単に人前で吸うか吸わないかの条件に過ぎない。昔も今も喫煙自体の成立条件とはなっていない。生徒の喫煙のキッカケはテストの成績では表現できない自己の勲章を喫煙に替えて打ち立てようとする虚栄心が殆どだろう。誰がタバコを吸っているか他の多くの生徒が知っていることがその証拠となる。人に知れない行為は勲章とはならない。だから、自分が吸っていることを他人に知らせようとするし、隠そうともしない。

 言ってみれば、かつての見つかるのを覚悟の果物泥棒が現在の未成年者の人前での喫煙に格上げされた時代的発展に過ぎないだろう。現在も「昔」も「悪いこと」は大人の注意以前の問題なのであって、「大人の倫理はストレートに入らな」い状況は現在だけの問題ではない。単に「悪いこと」が時代的な程度の影響を受けた違い(=時代性の違い)があるだけの話だろう。

 プロ教師が言うように「いじめは学校の問題ではなく、子どもの世界の問題なのだ」が合理性を備えた主張として許されるとしたら、戦前の大日本帝国軍隊での新兵いじめは有名であるが、それを「軍隊の問題ではなく、兵士の世界の問題なのだ」と片付けることも許されることになる。学校という集団社会の力学とその構成員である生徒との力学が別別の作用を働かせていることになる。

 軍隊世界の戦争とか軍人だといった力の意識と、上を絶対とする集団主義的・権威主義的上下関係意識とが相まって、優位的位置を背景とした上の傲慢さとその逆の下の隷属を生じせしめていたのであって、当時の軍隊がはびこるのを許していたそのような集合意識が深く関わっていた新兵いじめであったろう。

 このことは今の学校についても言えることで、学校・教師がはびこるのを許し、個々の生徒を支配・拘束している集合意識がどのようなものか、まずは考えてみる必要があるはずである。

 それは自己の位置を他者の位置よりも優越たらしめる方法として、あるいは自己の優位的位置の証明としていじめを手段とする自己存在証明行動のはびこりであって、手段は違えても、テストの成績で以て自己の位置を他者の位置よりも優越たらしめ、証明する自己存在証明行動のはびこりと軌を一にする自他優劣表現であり、テストの成績で他者を差別できない者の代償行為(=埋め合わせ行為)としてあるいじめであろう。そして学校が元となるテストの成績で生徒の価値を位置づける価値観のはびこりを許しているということである。

 成績優秀なテストの成績で自己存在証明を果たしていながら、いじめでも自己優位性を証明しようとする欲張った生徒がいるようだが、成績がいくら優秀でも満足させることができない人間支配をそれを可能とするいじめで行おうとする年齢不相応のサディスティックな権力欲・権力意志を内的衝動としているからではないだろうか。人間支配ほど、甘い蜜を味わわせる行為はない。他者の意志を好きなように操作し、従わせることができるのだから。いじめはライオン使いが振りまわすムチの役を果たす。成績優秀な上、いじめでも力を発揮することのできる生徒はすべての面に亘ってクラスの支配者として君臨することができる。

 学校・教師は学校社会を自己存在証明方法としてテストの成績だけか、あるいはスポーツの才能をその下位に用意する相対化を許さない空間とし、その二つの価値観から外れた生徒の自己存在証明方法を用意しない過ちがすべての生徒に対して優位的位置取りの集合意志(間違った自他優劣表現)を生じせしめているのである。

 解決方法はテスト教育で自己の位置取りができない生徒に対しても社会的に正当とすることのできる位置取りを可能とする生存機会を等しく用意することだろう。

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