謝罪――「教育改革国民会議・最終提言批判・1」の記事で「教育改革国民会議」を小泉政権下で行われたとしていますが、小泉首相就任は2001年4月26日、「教育改革国民会議・最終提言」が行われたのは2000年12月22日です。「森政権下」の誤りでした。間違った情報を伝えたことを謝罪します。
2.教育の原点を学校とせよ
確かに親は家庭教育者の立場にあり、その責任を負っている。だが、一般的に家庭教育者として十分に機能していない原因は、最初から誰もが親ではなく、子どもであったときから幼稚園児(保育園児)・小中高生、さらにそのうちの何割かは大学生を経て社会人となり、親となる過程で、人間としての成長(人間性の獲得)を殆ど見ないままの状態が連続するからだろう。裏を返せば、子どもが成長の過程で置くそれぞれの段階で人生の先輩の立場で接する大人たち(=親・教師・上司etc.)自身が人間的感化を与え得るほどの「豊かな人間性」を持ち得ていないからである。このことは先の記述(第1回・教育の原点は家庭ではない)にも関連することである。
いわば、立場上の教育者たり得ていないのは何も親だけではなく、学校教師からしてそうであり、社会の大人たちも(政治家も官僚も企業人も)人間教育者という点に関しては同じ穴のムジナでしかないということなのである。学歴人間・会社人間・政治家や官僚を含む組織人間(このことは派閥優先・省益優先の姿勢・態度に現れている)といった同調・従属人間を生み出すことに関しては特異性を発揮してはいる。
つまり、家庭でしっかりとしつけされない子どもがそれぞれの教育空間をコマ切れの暗記知識は身につけるものの、人間性獲得に関してはしつけされないときの状態のまま段階的に先送りされ、社会に出でも人間的成長の感化を受ける機会もなく親となるから、子どもに対するしつけが不十分となる。言い換えるなら、子どもから親へと対人感受性とか対話能力、倫理観といった人間的内容に関してほぼ同じ程度で循環しているに過ぎない結果のしつけ不全現象なのであろう。
社会に出でも人間的成長の感化を受ける機会がないのは、学歴人間・会社人間・組織人間としての成り立ちは、集団・組織に同調・従属する代償として自己性(自己意志や自己人間性)を抑圧しなければならない構造上、同調・従属に関わる人間性の習得には役立っても、自律的で人間味豊かな人間性の獲得はかえって集団・組織から自己を疎外することになり、そのような人間との関係において、学習不可能となるからである。欧米人から、「日本の政治家は顔が見えない」とか、「日本人は自分の意見を言わない」と言われるのは、集団・組織に同調・従属することで自己を埋没させてしまい、結果として自己のものではない、集団・組織の意志・意見を表明することで自己を成り立たせることからの一人一人の顔の見えなさなのである。厳しい言い方をするなら、学歴主義と真に「豊かな」「人間性」とは両立しない。
偉大なる自称プロ教師の河上亮一氏は、「日本の学校にはもともと学力、生活の仕方、人間関係の在り方の三つを身につけさせるという目標があったから、学力だけで生徒を評価するようなことは基本的にはしていない」などと、その著作の中でウソ八百を述べ立てているが、学校教育というものを社会の学歴主義に無批判・無定見に同調・従属したテスト教育(=受験教育)のみで成り立たせているからこそ、あるいはそういった教育にのみ教師が役立っていないからこそ、一個の人間として親にしつけされない子どもが学校という教育空間を経過しても、入試突破の暗記知識をそこそこに獲得する学歴主義への同調・従属人間は育てることはできるが、人間性に深く関わり、人間性そのものの表現要素となる自律性や主体性、さらには対人感受性(他者認識能力や共感能力、人権意識etc.)を獲得できないままに社会人となり、親となり、しつけできない同じことの循環を繰返しているのである。
その結果として、<教育の原点は家庭である>とか、<小学校入学までの幼児期に、必要な生活の基礎訓練を終えて社会に出すのが家庭の任務である>などと言わなければならなくなっているのだが、しつけできない親にしつけを求める無いものねだりなのに誰も気づかないバカを犯している。しつけできない親にしつけできるだけの人間性をしつけるには、学校しかないはずである。いわばプロ教師が言う、「日本の学校にはもともと学力、生活の仕方、人間関係の在り方の三つを身につけさせるという目標」を言葉どおりに実践して、掛け声倒れでない実質的な成果を上げさえすれば、例え家庭で親に充分なしつけをなされなくても、学校でそこそこに身につけるはずの「生活の仕方、人間関係の在り方」が社会に出て役立つだけではなく、親となって子どもに対したとき、それはしつけにも応用されるはずである。
さらに言えば、親が子どもの人間性の育成ではなく、テストの成績や受験で子どもの尻を叩くことを自らの役目とするのは、基本的には学校で生徒であった頃に学校・教師に同じように尻を叩かれ、社会に出ても学歴で人間を価値づけられ、習性化した自己性の単なる反復であって、人生のそれぞれの段階で刷込まれた価値観(学歴価値)以外に自己表現方法を教えられなかったからだろう。このことは「生活の仕方、人間関係の在り方」の教えが何ら実効性を上げていなかったことを改めて証明するだけではなく、親にとってテストの成績や受験で子どもの尻を叩くことがしつけそのものとなった要因となるものである。テストでよい成績を取れば、いい子となるのだから。
となれば、改めて言うまでもなく、親を親たらしめるためにはまず学校教育をテスト教育一辺倒から、生徒が将来親の資格を十分に持てる人間に育む教育に修正する以外に道はない。これは学力を暗記知識から、自ら考え、身につける応用性を持った知識への転換を図ることにもなる。いわば学歴教育の廃止以外に道はない。
例え実際に行ったとしても、「生活の仕方、人間関係の在り方」の教えが実効性を見なかったのは学校社会に於いてテストの成績が支配的価値となっていることと、教師が教科書の内容をなぞり、それを解説し、生徒がそれをノートに書いたりして暗記する機械的で一方通行の勉強と同じように、掃除はしっかりやりなさい、老人には優しくしなさい、人の命は大切にしなさい、他人には優しくしなさいといった機械的で一方通行形式の言葉の伝えで生徒とのコミュニケーションを完結させている成果としてあるものだろう。いわば勉強に関してはテストの解答を通して暗記力で自己を価値づけることが可能で、「生活の仕方、人間関係の在り方」はマイナス評価を受けない程度の表面的な対応で誤魔化すことが可能の、双方共に教師の意志に対する生徒の側からの納得のプロセスを踏まないことが、身につかない原因となっているのだろう。勉強も人間の生き方・あり方も、なぜそうしなければならないのか・なぜそうするのかの教師対生徒・生徒対生徒の言葉の闘わせを納得いくまで行って初めて単なる言葉としてではなく、応用性を備えた思想として身につくからである。応用性とは、創造力(想像力)が効くということである。
このことは提言の(6)と(7)の<一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入する>ことと、<記憶力偏重を改め、大学入試を多様化する>方法論ともなり得るものである。「日本の教育システムは知識を暗記することが中心で、大学を卒業しても考えることができない」(『開かれた知 米国の強み』00.1.9「朝日」朝刊)といったアメリカ人ジャーナリストを介した指摘は、多くの欧米人が共有する指摘であって、日本の学校教育が創造力(想像力)の効く応用性を備えた思想にまで達することのない知識の授受に終始していることを証明している。
提言(1)の<教育の原点は家庭であることを自覚する>の解説として、<家庭は厳しいしつけの場であり、同時に、会話と笑いのある「心の庭」である>などと美しい言葉を連ねているが、学校空間で家庭同様に<会話と笑い>が日常的に存在しなければ(家庭では存在したが、学校で失うというケースもあるはずである)、それを自己性格化しようもない。学校のテストの成績で生徒を価値づける成績価値観・学歴価値観が家庭にも及んで学校社会の相似形を成していることが、<会話>が主として勉強しろ、勉強しろといった子どもの尻を叩く言葉に限定され、その代償として<笑い>が失われているという側面もあるはずである。当然、<会話と笑い>を性格化し得ない将来の親を家庭共々学校が大量生産することになるのである。このことからも、<教育の原点は>学校としなければならないだろう。
反語的に言うなら、家庭に<会話と笑い>がなくても、学校に存在したなら、それを自己性格化することも可能で、親となって子どもに<会話と笑い>を親子関係の貴重な柱とする必然が働かないこともないと言える。このことは子どもの頃は人と満足に話すこともできない引っ込み思案の田舎の人間だったのに、東京に出て演劇や落語に出会ってから、ウソのように引込み思案が取れて人前で話すことができるようになったタレントや落語家がいることが証拠立てていることである。
この例はまた、人間が相互に意志・感情・思考を伝達し合うこと(コミュニケーション)に関して、親の教育と同様に学校教育が何ら機能しなかったことをも証拠立てている。
3.果たして道徳教育は役立つのか
提言(2)は<学校は道徳を教えることをためらわない> としている。そして次のように解説している。<学校は、子どもの社会的自立を促す場であり、社会性の育成を重視し、自由と規律のバランスの回復を図ることが重要である。また、善悪をわきまえる感覚が、常に知育に優先して存在することを忘れてはならない。人間は先人から学びつつ、自らの多様な体験からも学ぶことが必要である。少子化、核家族時代における自我形成、社会性の育成のために、体験活動を通じた教育が必要である>
その具体的内容は、
<(1)小学校に「道徳」、中学校に「人間科」、高校に「
人生科」などの教科を設け、専門の教師や人生経験
豊かな社会人が教えられるようにする。そこでは、
死とは何か、生とは何かを含め、人間として生きて
いく上での基本の型を教え、自らの人生を切り拓く
高い精神と志を持たせる。
(2)人間性をより豊かにするために、読み、書き、話す
など言葉の教育を大切にする。特に幼児期において
は、言葉の教育を重視する。
(3)学校教育においては、伝統や文化を尊重するととも
に、古典、哲学、歴史などの学習を重視する。また
、音楽、美術、演劇などの芸術・文化活動、体育活
動 動を教育の大きな柱に位置付ける。
(4)子どもの自然体験、職場体験、芸術・文化体験など
の体験学習を充実する。また、「通学合宿」などの
異年齢交流や地域の社会教育活動への参加を促進す
る。>となっている。
まず最初に言いたいのは、既に述べているように、子どもは大人の文化を自分の文化として受継ぐのと同じ原理で、親や学校教師だけではなく、政治家や役人、その他を含めたすべての大人が子ども・生徒に対する<人間として生きていく上での基本の型を教え>る道徳教師なのであって、無責任な大人が支配的地位に立てるような社会であるなら、現在の子ども・生徒状況はそのような大人の状況を受けた当然の姿としてある存在様式である。そのことへの認識を欠いたどのような「教育改革」もこれまでの「学習要領」が教育荒廃に役立たなかったのと同じ道をたどることになるだろう。
日本の学校を<豊かな><人間性>教育の場ではなく、受験教育の場として放置したままなのは誰なのか。政治家であり、文部官僚であり、学校教師がその主な戦争犯罪人である。プロ教師は著作で、「もともと、学校は〝学歴主義〟だけで成り立たせることなどできはしないのだ」が、「親や社会の要求することを完全に拒否する力はありはしない。残念ながらそれにのみ込まれ流されていることは事実だから、責任がないなどと言うつもりはない」とか、「学力だけで生徒を評価するようになってはいない。ただし、教師が親と子の強い要求に引きずられ、受験競争に生徒を追い立ててしまっているということもある」などと責任薄めの綺麗事を並べ立てているが、それが事実だとしても、教師の主体性・自立性の欠如=無定見・無責任な同調・従属を証明してあまりある。大体が、「受験競争に生徒を追い立ててしまっているということもある」ということは、「学力だけで生徒を評価」しているということ、少なくとも「学力」を主体的に「生徒を評価」しているということで、言っていることに矛盾がある。尤も矛盾と綺麗事はプロ教師のお得意中のお得意である。
何度でも例として引き合いに出すことだが、戦前の軍国主義は軍部と政・官・財がつくり出したことだが、学校・教師は世間の大人たち同様にそれに無定見・無責任に同調・従属し(=付和雷同し)、自らの生き方として生徒に吹き込んだのであり、決して「親と子の強い要求に引きずられ」て軍国主義に、もしくは戦場に「生徒を追い立て」たわけではない。
もし学校教育をプロ教師が言う通りに「〝学歴主義〟だけで成り立たせ」ていなかったなら、「生活の仕方、人間関係の在り方」を教育の実効性ある柱としていたなら、<社会的自立を促す>とか<社会性の育成>だとか、<自由と規律のバランス>だとか、いまさら課題とすることはなかったろう。
日本の学校は教師が教科書を機械的になぞり、それを機械的に解説し、生徒が必要個所を機械的に鵜呑みに暗記して、それをテストの設問に解答として機械的に当てはめる機械的な一方通行形式の受験教育の場とはなっていても、〝なぜ〟、〝どうして〟を問う教師対生徒・生徒対生徒の言葉の闘わせを行い、お互いの思考・想像力に刺激を与える学問の場(体系的に学び問う場)では決してなかったのである。これは過去においても、一度もなかった伝統である。学校教育に言葉の闘わせが不在だったからこそ、<死とは何か、生とは何か>を教えたり、考えたりしなければならない緊急的な必要が生じているのである。また、〝なぜ〟、〝どうして〟を問うことをしない場所から、「生活の仕方、人間関係の在り方」に関わる理性も創造力も育ちようがない。育つとしたなら、単に言われたことだけはする態度でしかないだろう。
国語や英語の授業で学ぶ小説や詩の一節に人間の死、あるいは生活の友・仲間としていた動物の死を描いたものがあったはずで、あるいは生徒の中に若くして不幸な死を迎えた親、生徒自身の病気や事故での死もあったかもしれない、そのことに関して言葉を闘わせることを教育の一つとしていたなら、ただ単に機械的な解説や事情説明で完結させていなかったなら、いまさらながらに<死とは何か、生とは何か>の教えが問題として浮上することはないはずである。
<善悪をわきまえる感覚が、常に知育に優先して存在することを忘れてはならない>なら、学校教師になるための学問と訓練を大学に行ってまで受けている教師のすべてが<善悪をわきまえる感覚>を備えているはずで、その道徳観も倫理観も生命観(<死とは何か、生とは何か>)も授業における学び問う過程で教師の発する日常普段の言葉に否応もなしに反映されるはずである。いわば教師の発する何気ない言葉からも、その教師の思想・哲学が自然とにじみ出て、生徒に伝わるプロセスを踏み、何もわざわざ<小学校に「道徳」、中学校に「人間科」、高校に「人生科」などの教科を設け、専門の教師>を雇って教える必要性はどこにあるだろうか。一般の教師には<道徳>教育は期待できないからだと言うなら、家庭での子どものしつけに親が期待できないなら、<専門の教師>を雇って家庭にも派遣すべきである。
教師となる人間が小中高と同じく大学でもコマ切れ知識体得の表面的な暗記教育で教師の資格を獲得してきただけだから、生徒に対しても同じ教育方法で臨むしかないのである。同じ形態の意思伝達の人間関係しか結べない。いわば、小中高・大学共、学問の場(体系的に学び問う場)とはなっていなくて、例え教えられたとしても、<善悪をわきまえる感覚>は単に試験に応用するための暗記でやり過ごしただけで、身につくはずもなく、当然生徒に伝わるはずもない。
教師による幼児ワイセツ、教え子を含めた未成年女子との性交渉、女子生徒に対するビデオでの下着盗撮、校長や教頭といった立場の教師でさえ、宴会で女性教師の身体を触ったりのセクハラ事件等々が跡を絶たないのは、<善悪をわきまえる感覚>を暗記でやり過ごしただけなのを証拠立てている。
となると、生徒に<道徳を教えることをためらわない>とするよりも、教師にこそ<道徳を教えることをためらわない>としなければならない。<読み、書き、話すなど言葉の教育>も、教師にこそ必要である。教科書をなぞることからさして踏み外すことのない、いわば自前のものではない発展も変化もない平板な言葉を操り、それを生徒に暗記させるだけの教育プロセスからは、体系的に学び問うことをしない言葉の闘わせのない教育プロセスからは、例え<死とは何か、生とは何か>を口にしたとしても、教師自身の社会的経験から得た生命観を濾過したものではない誰か他人の考え・思想を披露するだけのことで終わり、生徒にしても他の授業と同じく、テストが終わるまでの暗記でしのぐことになるだろう。いわばテストの用には立っても、生徒自身の感性・想像力を刺激して生徒独自の生命観として確立するはずもなく、単なる形式だけの授業ということになるだろう。
繰返しになるが、教師がテスト用の言葉以外の言葉を獲得できていないなら、子ども・生徒にテスト教育用の言葉しか伝えることも教えることもできないのだから、受験教育が主体となっている現在の教育を、例えそれがプロ教師の言うように「親や社会の要求」だったとしても、それを学校・教師は「完全に拒否する力はありはしない」などと敗北主義なことは言わず、根本から変えることを先決としなければ、<人間性をより豊かにするために、読み、書き、話すなど言葉の教育を大切にする>も、単なる掛け声倒れに終わるだろう。
厳しく言い換えるなら、学歴主義と真に<豊かな><人間性>とは両立しないことと同様にテスト教育と<言葉の教育>とは相対立する概念であり、決して両立はしない。現在と似たり寄ったりのテスト教育・学歴主義を続けるなら、<言葉の教育>は願うべきではない。プロ教師のように「日本の学校にはもともと学力、生活の仕方、人間関係の在り方の三つを身につけさせるという目標があったから、学力だけで生徒を評価するようなことは基本的にはしていない」とか、「教師が親と子の強い要求に引きずられ、受験競争に生徒を追い立ててしまっているということもある」などと責任逃れの綺麗事を並べ立てるだけで終わらせておいた方がいい。
要は、しつけ可能な親を育むには学校教育が重要であるように、子どもの豊かな言葉の獲得には、まず教師が豊かな言葉を自分のものとし、それを生徒に伝えて、将来の親として社会に送り出すことをすれば、そのような親を親とした子どもは家庭の段階から豊かな言葉に接することが可能となり、自然とそれを自分のものとして受継ぎ、学校に入ってからはさらに教師の豊かな言葉に触れて、より高度な言葉へと向上・発展させていく。その循環こそが必要なのである。そうなったときこそ、「大学を卒業しても考えることができない」などと誰からも言われなくなるだろう。現在の教育荒廃状況は学校教育の矛盾を源流としているのであり、<家庭のしつけ>云々も、<道徳>云々も、責任転嫁以外の何ものでもない。
また、<学校は、子どもの社会的自立を促す場であり、社会性の育成を重視>するも、テスト教育とは相容れない価値観でしかない。先述したように、学歴人間も会社人間も組織人間も社会的自立性(自律性)とは相対立する同調・従属性を傾向として成り立つ存在様式――いわば、自分の頭で考えることをしない、他人の考えに従う存在様式であって、だからこそ「大学を卒業しても考えることができない」と言われるのだが、学校・教師は社会の学歴主義に無節操に付和雷同することによって、テスト教育を通して学校空間を<社会的自立>ではなく、社会的同調を<促す場>としてきたに過ぎない。まさしく生徒は教師の叱咤・号令を受けてテスト、テストで社会の学歴主義への同調・従属を目的としてきたのである。学歴主義に最初から自立(自律)できた生徒が何人いただろうか。教育改革国民会議はプロ教師と同じく、出発点から読み違いがあるのである。暗記教育からはそもそもからして教師自身の<社会的自立>もなければ、<社会性>の獲得もないのである。