オシムが言う「即興性・柔軟性・創造性」の欠如からの年金記録回復作業の停滞

2007-09-15 09:16:57 | Weblog

 07年9月8日の『朝日』朝刊に≪時時刻刻 年金回復ノロノロ≫なる見出しの記事が載っている

 内容は、年金記録確認地方第三者委員会が全国各地に発足して1カ月余りだが、肝心の認定作業は停滞気味で、記録訂正を申立てる申請書類は溜まるばかりといった状況を伝えている。その原因として、<事例多様 戸惑う地方委>との中見出しで、<北陸のある地方第三者委員会の事務方は「中央委が示す典型例に合致するようなものは、ほとんどない」と話す。中央で示される先例が少ないのに、持ち込まれる実際の事例が多様。それが判断の遅れにつながっているという解釈だ。(後略)>――

 「中央委が示す典型例」とは、記事に書いてあるが、「未納になっていると申し立てている期間が短い」、「申立て期間以外は保険料を収めている」といった記録を訂正してもいいとする「典型例」こと、サンプルとして中央委が示した事例のことで、そういったサンプル事例にそのまま入り切る申込みが殆どなく、判断に時間がかかって訂正作業が捗らないと言うことのようである。

 ここで思い出したのが1998(平成10)年学習指導要領第6次改訂、2000年(平成12)4月から一部導入、小・中校は2002年、高校は2003年から全面実施した「総合的な学習の時間」(=「総合学習」)と、その前段階であった1977(昭和52)年の学習指導要領第4次改訂で導入した「ゆとりの時間」で、それを具体化する教科書がないためにどのような内容の授業をしていいのか判断に迷った学校側が文部省に指示を仰いだところ、文部省(あるいは文科省)が総合学習やゆとり教育を「成立させる方法や手引き」といったサンプルを示して授業内容を指示した事実である。

 ところが学校側は目の前にぶら下げてもらったエサだけに目を奪われて食らいつく犬さながらに文部省(あるいは文科省)が投げてくれたサンプルをなぞることしかできなかったために、各学校ともサンプルの範囲内で授業が画一化し、形式化してしまったという。

 年金記録確認中央第三者委員会が地方委に示した「典型例」が文部省(あるいは文科省)が学校側に示した総合学習やゆとり教育を「成立させる方法や手引き」に相当する。違う点は地方組織である学校側の求めに応じて中央省庁である文部省が与えたのに対して、年金記録訂正の認定のための「典型例」は中央機関である年金記録確認中央第三者委員会が地方機関である年金記録確認地方第三者委員会に示した逆のコースを辿っていることだけで、サンプルがなければ何もできないこととサンプルをなぞるだけで、サンプルから一歩も出ることも、自らの解釈を入れてサンプルを臨機に幅広く応用することもできない姿は両者とも共通している。

 常にサンプルを必要とし、与えられたサンプルをなぞることしかできずにそこから一歩も出れない状況は「即興性、柔軟性、創造性」の欠如を物語るものであろう。

 文科省が改訂作業を進めている「言語力の育成」が柱だという次期学習指導要領に関しても中央教育審議会が教科ごとの具体例(=サンプル)を出すというのは、政策の徹底化の意図もあるだろうが、徹底化のためには学校側からのサンプル要請の前例を先取りして、その手間を省いて文科省側から前以て配布する必要があったからの動きでもあるに違いない。

 具体例の一部がasahi.com記事(07年08月17日)≪全教科を通じ「言語力」育成文科省の有識者会議≫に載っている。

 <「身近な地域の観察・調査などで的確に記述し解釈を加えて報告する」(社会、地理歴史、公民)
 「観察などで問題意識や見通しをもちながら視点を明確にし、差異点や共通点をとらえて記録・表現する」(小学校中学年理科)
 「皆で一つの音楽をつくっていく体験を重視し、表現したいイメージを伝えあったり他者の意図に共感したりする指導を充実」(音楽)>

 そして学校が全国的規模で「具体例」を機械的になぞることだけに終始したなら、「ゆとり教育」と「総合学習」で既に演じた形式化・画一化の道を辿り、そのことの再上演ということになる。

 常々日本の教育は教師の教えを生徒が機械的になぞるだけの創造性の関与を必要条件としない暗記教育だと言ってきたが、日本人の「創造性」に関してサッカー日本代表監督のオシムが興味ある指摘を行っている。

 2003年の言葉だそうだが、「日本人コーチに即興性、柔軟性、創造性が欠けているから、選手にもそれが欠ける。コーチが変わらないと選手は変わらない。そういう指導者からは、創造性に欠ける選手しか生まれない。
文化、教育、世情、社会に左右されることはよくない。サッカーは普遍的なもの。そして常に変わっていくからコーチも常に変わっていく必要がある」

 コーチはその殆どが元選手であろう。「日本人コーチに即興性、柔軟性、創造性が欠けているから、選手にもそれが欠ける」は「即興性、柔軟性、創造性」の欠如が循環していくことの指摘でもある。即興性、柔軟性、創造性が欠けているコーチにサッカー技術を教えられて即興性、柔軟性、創造性が欠けたまま育った選手がコーチとなって即興性、柔軟性、創造性の欠けた技術を次の世代の選手に伝える。そん循環である。

 さらに「文化、教育、世情、社会に左右されることはよくない」との指摘で「即興性、柔軟性、創造性の欠如」が日本人全体の傾向としてあることを言い、そこから離れなければ日本サッカーは進歩しないと警告を発している。このことは単に日本人がなぞりを基本能力としたマニュアル人間、横並び人間、指示待ち人間と言われていることの証明でしかない。

 日本人サッカー選手の「即興性、柔軟性、創造性」の欠如は一度当ブログで書いたことだが、98年の日本チーム監督の岡田武史氏も言っている。「コーチが言ったとおりのことをするだけではダメで、何をするか分からないというところがなければダメだ」

 このことは日本人選手がコーチの指示をなぞるだけの動きしかできないことへの警告であると同時に、コーチの指示から離れた選手個人の瞬間的な判断から生まれる「何をするか分からない」「即興性、柔軟性、創造性」溢れるプレーへの期待を述べたものであろう。

 ところが如何せん、即興性、柔軟性、創造性が欠けているコーチが「言ったとおり」の指示をなぞるのみで、選手自らも「即興性、柔軟性、創造性」の欠如を機械的に受け継いだ、その範囲内のプレーしかできない。

 当然のこととして、このことは日本の教育についても言える。創造性の欠ける教師からは創造性の欠ける生徒しか育たない。創造性を必要条件としない暗記教育のごく自然な帰結でもある。

 このような「即興性、柔軟性、創造性の欠如」の循環の先に年金記録確認中央第三者委員会の「典型例」をなぞるだけで自らの解釈を入れて臨機に幅広く応用し、解決していくことができない全国各地の年金記録確認地方第三者委員会の「即興性、柔軟性、創造性」の欠如した姿があり、そのことが原因となった訂正作業の停滞であり、<年金回復ノロノロ>ということであろう。

 次期学習指導要領で教育の柱に据えようとしている教科書や教師などの他人の言葉をなぞったものではない、自分の言葉で物事を的確に表現する「言語力」の育成は従来の教育がそのことを欠いていたことへの反省に立った政策転換であり、当然なぞりを基本とした暗記教育から離れた場所でのみ可能となる。自分の言葉ではなく、他人の言葉をなぞった「言語力」という相矛盾した関係の能力は厳密には存在しないからなのは断るまでもない。

 学校・教師が「言語力」の育成を従来の教育の画一化・形式化の弊害を免れて地に足の着いた生きた教育として授業に活用させることができ、そのような生きた「言語力」教育を生きたまま学び取り、自らの能力とした生徒が社会に出て各種職業につき次世代に伝える「言語力」の伝達が自然な循環となったとき、なぞりの呪縛から解き放たれてこれまでの「即興性、柔軟性、創造性の欠如」の循環は終止符を打つこととなる。年金記録回復に於ける「典型例」をなぞるだけの処理といった場面も、サッカーに於ける日本人コーチの「即興性、柔軟性、創造性」を欠いた指導をなぞるだけのプレーといった場面も影を潜めることとなり、当然「即興性、柔軟性、創造性」を欠いたプレーではなく、逆の「即興性、柔軟性、創造性」に溢れたスピード感あるプレーが期待可能となる。

 公務員を含めた日本人ホワイトカラーの世界標準に劣る生産性も軌道修正を図ることができるのではないだろうか。

 かなりの時間の経過を待たなければならない将来的な可能性だが、出発点は脱暗記教育を絶対条件としなければ、これまでと同じように日本の教育は変わらないことになり、その先に「即興性、柔軟性、創造性」の欠如を原因とした日本社会の非効率性という変わらない姿を変わらないまま見ることになるに違いない。

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