安倍教育政策の矛盾/武道必修化

2007-09-12 04:18:27 | Weblog

 伝統と文化を教えるとはどういうことなのか

 最初に「伝統」なる言葉の意味を確認してみる。

 <ある集団・社会において、歴史的に形成・蓄積され、世代をこえて受け継がれた精神的・文化的遺産や慣習。>(『大辞林』三省堂)

 <特定の社会集団において、一個人を越えて世代間に伝達、継承され、望ましいものとしての価値判断に支えられている態度・行動様式。望ましさの根拠を伝達の長さに求めるところがあり、その非合理性ゆえに、しばし進歩や創造を求める態度・行動と対立する。>(『社会心理学小事典』有斐閣)

 要するに世代を超えて受け継がれるにしても、『社会心理学小事典』が言うように<望ましいものとしての価値判断に支えられ>ることを「伝統」の必須項目としなければならないということだろう。そこに強制の介入はあってはならず、常に個人的自発性を基本としなければならない。少なくとも自由主義社会に於いては。

 日本の伝統文化と言うと、華道・茶道・陶芸・剣道・柔道・歌舞伎・古典落語・島国根性と島国根性が原因したケツの穴の小ささ等を挙げることができるが、島国根性以下は<望ましいものとしての価値判断に支えられ>て受け継がれてきたわけのものではなく、日本人を取り巻く国土的風土・環境が日本人の精神に逃れる術もなく自然に作用して形成した伝統的民族性だから、<望ましいものとしての価値判断>を基準とするなら、残念ながら一般的な伝統の内に入らないことになる。

 華道・茶道・陶芸・剣道・柔道・歌舞伎・古典落語等は確かに<望ましいものとしての価値判断に支えられ>て時代的継承を経ているが、決して日本人全体の文化ではなく、それぞれに限定された範囲の継承となっている。

 さらに華道に対してガーデニング、茶道に対してコーヒーを豆から煎り、粉に挽いてブレンドし、サイフォンでたてる、あるいは布フィルターで漉して独自の味を作り出して味見し合い、お喋りに花を咲かせるコーヒークラッチ、あるいは中国茶を飲み合う小さなパーティ、剣道・柔道に対して野球やサッカー、歌舞伎に対して演劇、オペラ、バレエ、古典落語に対してコミック演劇というふうに西洋の文化が同じくそれぞれに限定された範囲内の継承ではあるが、<望ましいものとしての価値判断に支えられ>て新しい伝統・新しい文化となりつつある。

 これら文化・伝統の多様化はそれが個人それぞれの<望ましいものとしての価値判断に支えられ>た自由選択を条件としていることから可能となった多様化であろう。戦争中のジャズ等のアメリカ音楽をレコードで聴くことを禁じ、演奏することを禁じたことに代表されるアメリカ文化の禁止に見ることができるように、強制は多様化の障害としかならない。当然日本の伝統・文化だとする武道(剣道・柔道)の強制は現代社会の価値観の多様性に対する逆の阻害要件としかならない。

 それとも、日本の伝統・文化以外は排斥しようとする国家主義的、あるいは国粋主義的衝動が働いている日本の武道(剣道・柔道)への拘りというわけなのだろうか。

 剣道・柔道といった日本古来の武道は礼に始まって礼に終わるから規律の育成には役に立つと言うが、例えお辞儀という形式を取らなくても、好ましい対人関係はすべて礼に始まって礼に終わる。相手への敬意なくして好ましい対人関係は成り立たないからだ。お辞儀が単に形だけのもので、そこに敬意が込もっていなければ、いわば形だけで済ませていたなら、意味をなさない。

 勿論形だけの態度を取る人間の方が常に悪いとは限らない。敬意を持てない相手というものがどうしようもなく存在するからである。教師の言うことを聞かない生徒にしても、その教師にどうしても敬意を払うことができないというケースもあるだろう。上司に対しては盆暮れの高額の付け届け、同僚・部下にはやたらと飲みに連れて行って影響力を確保する政治力とハッタリで校長にまでのし上がった事情は知らされていなくても、そういった人間には直感的に胡散臭さを感じて敬意の感情がどうしても湧いてこないといった生徒も出てくるものである。

 次期学習指導要領は自分の考えを文章や言葉で表現する「言語力」・「論理的な思考力」を全教科で育成していく方針を盛り込むと言うことだが、「自分の考え」とは他人の考えに従うのでもなく、また他人の考えをなぞるのでもなく、自分で考え、自分の考えに従う自発的判断を言う。このような自発的判断の構造に対して<礼儀や公正な態度など、日本の伝統文化に触れる機会を広げるのが狙い>(≪中学で武道必修化へ 中教審体育部会 「伝統文化」重視で≫Sankei Web/07/09/04 21:02)だとする武道必修化に於ける「日本の伝統文化」への執着の構造は自発性を限定するもので、相互に相容れない、前者を阻害する構図を取るものではないだろうか。

 「自分の考え」の尊重、自発的判断の尊重は価値観の多様性を肯定する土壌を常に用意しておかなければ機能しない。「論理的な思考力」の発動媒体となる「自分の考え」求めるなら、剣道も柔道も部活次元の活動機会にとどめておくべきではないだろうか。

 「日本の伝統文化」だとする武道の剣道をどう把えているか、インターネットで調べてみた。

 まず「武道」をWikipediaは次のように解説している。<武道とは、心身を鍛え技を磨く稽古を通じて人格の完成をめざす、伝統日本武術から発展した素手もしくは武器を使用した技術体系。また道の追求という点については、残心などの共通する心構え所作などから茶道や日本舞踊、芸道ともかかわりを持つ>と、心身の鍛錬と人格形成を目的としていることを伝えている。

 【残心】「ざんしん・武道に於ける心構え。一つの動作が終わってもなお緊張を解かないこと。剣道では打ち込んだあとの相手の反撃に備える心の構え、弓道では矢を射たあとのその到達点を見極める心の構えを言う。」

 剣道そのものに関しては別のHPが<「剣道は、剣の理法の修錬による人間形成の道である」とされ、その理念に基づいて、「剣の理法を全うしつつ、公明正大に試合をする」>と心身の鍛錬と人間形成(=人格形成)が目的であることを伝えている。

 その人格形成たるや、さらに別のHPは<剣道は、剣の理法を探求、発見し、自己を向上させる道である。
 竹刀を握り、汗を流して発見された剣の理法は、万物に通じる真理であって、この真理はあらゆる思考、発想、判断力の原点となり、精神的支柱となる。
 また、道場では、日本古来の「和」の世界に身を置く事により、日常生活の拘束から解放され、本当の自分が浮かび上がってくる。
 道場にて、剣の理法を修得する事は、自己を客観的に見つめ直し自己を向上させる最良の道である。 >と高邁な精神性が関わっていると解説している。

 「万物に通じる真理」など存在するのだろうか。具体的に説明してもらいたいものである。「万物に通じる真理」となる「剣の理法」は「あらゆる思考、発想、判断力の原点となり、精神的支柱となる」といいこと尽くめである。

 人間は絶対善の存在ではない。殆どその正反対の不完全で矛盾に満ちた存在である。ところが「剣の理法」を人間のそのような存在性と相対立する絶対善の価値観で把えている。不完全で矛盾に満ちた、そこから逃れることができない人間存在を絶対善の存在に導くとしている。

 何とまあ、欲張った価値づけであることか。この欲張ったいいこと尽くめの言葉通りに「剣の理法」なるものを人間は忠実に体現できるのだろうか。体現できた人間がいたら、お目にかかりたい。一切矛盾のない完璧な、面白くとも何ともない人間ということになるだろう。

 安倍晋三が面白くも何ともない人間なのは、もしかしたら日本の伝統武道だという剣道を若いときやっていたからなのだろうか。

 剣道の修練だけで生活できる人間は技術的な上達に関わる利害に煩わされることはあっても、それ以外の他者との利害関係から離れていることができるだろうが、一般社会を主たる生存の場所としている人間にとっては様々な利害に曝され、利害損得を基準に行動することを迫られる。いわば利害が「あらゆる思考、発想、判断力の原点」・基準と化す。人間が利害の生きものと言われる所以である。

 例え「道場では、日本古来の『和』の世界に身を置く」ことができようと、それが一般社会と境界なく相互往来できる『和』の世界」でなければ意味はない。

 大体が「道場」という場所に限ったとしても、「日本古来の『和』の世界」など存在するのか。現在の価値観の中で生きている人間がその価値観を払拭して「日本古来の『和』の」価値観・「世界」に自己を置くことが可能なのか。理想化し過ぎていないか。

 何をやっていようと、それがスポーツであろうと音楽を聴く、楽器を演奏する、遊びに夢中になることであろうと、あるいはそれがセックスであろうと、不倫であろうと、我を忘れて無我夢中で没頭できたなら、そのことを行っている限りに於いては、「日常生活の拘束から解放され」る。だが、その姿はすべてに亘っての「本当の自分」というわけではなく、単なる部分的姿に過ぎない。別のことをしているときは別の姿を取る。剣道に於いても同じであろう。

 剣道にしても柔道にしても一般のスポーツと同様に技(=技術)の取得と取得にそれぞれに必要な身体を訓練する機会に過ぎない。技(=技術)の取得と身体訓練を通して、忍耐心や精神力が養われるのは他のスポーツと同じである。

 但し、そのように取得した忍耐心や精神力が一般社会に於ける生存機会に役立つかどうかは別問題である。このことは後で証明する。

 「日本の伝統文化」であるもう一つの武道である柔道を見てみる。柔術を近代スポーツに変えると同時に講道館は柔道を「精力善用」・「自他共栄」という精神修養の機会としたとインターネットに出ている。「精力善用」とは、道場での乱取り稽古で技をかける動きに力学的な無駄を省き、スムーズな効率のよい流れを仕掛け技に持たせること(=善用)を言い、「自他共栄」は乱取り稽古が自分も相手も相互に技の上達を助け合っている構造を取っていることからの効用をそのように名づけ、これら二つを柔道の理念だとしている。

 剣道のいいこと尽くめの理念よりもかなり控え目な柔道の理念となっているが、精神修養と把えている以上、人格形成の役目を持たせているのは武道の理念に添ったものであろう。

 だが、<「精力善用」・「自他共栄」なる柔道の理念は人間すべての社会生活のあらゆる分野で適用できる>と考えているとなると、剣道で取得した忍耐心や精神力が一般社会に於ける生存機会に役立つかどうかは別問題であると異議申立てしたように、同じ異議の線上で把えざるを得ない。

 ではその証明に移ろう。

 日本の警察官は警察学校で警察官となる訓練を受ける。その訓練は身体訓練から「職務倫理」の学習とその学習を通した人格形成、「法学」・「憲法」・「警察行政法」・「刑法」・「刑事訴訟法」・「民法」、さらに警察官という職務従事に必要な「基本実務」を学び、国民の生命・身体・財産の保護、犯罪の予防・捜査、被疑者の逮捕、交通の取締まり等に役立てることのできる知識と能力を身につける。

 身体訓練は短期・長期の山岳訓練や日本の伝統武道のうち、剣道か柔道を選択すると言う。当然技の取得を含んだ身体訓練と同時に人格形成も目的に入っていなければならない。

 警察学校で警察官にふさわしい人格の形成のために「職務倫理」やその他以外に剣道か柔道を学ぶ。警察学校を卒業して、警察官となってからも勤務署内で剣道もしくは柔道を続けている者もいることだろう。日々人格形成に励んでいるわけである。剣道を通しては<日本古来の「和」の世界に身を置く事により、日常生活の拘束から解放され、本当の自分>を<浮かび上が>らせ<自己を客観的に見つめ直し自己を向上させる最良の道である >鍛錬によって<あらゆる思考、発想、判断力の原点となり、精神的支柱>を形成して<万物に通じる真理>ともなる「剣の理法」の獲得に邁進している。

 柔道を通しては<人間すべての社会生活のあらゆる分野で適用できる>「精力善用」・「自他共栄」の理念の獲得、・人格形成に汗を流し、力を振り絞って勤しんでいる。

 だが、現実の職業警察官の姿を見ると、剣道・柔道は日本の伝統だ、文化だ、これこれの高邁な理念に支えられているとぶち上げてはいても、教えられる理念を単に耳に入れ、剣道・柔道を嗜んだ、人格形成に役立てましたと言うだけのことで、人格形成に固定的な成果を与えることができていない姿が浮き上がってくる。伝統・文化が何ら役に立たずに終わっている姿が曝されるだけのこととなっている。このことは「理念」が単なるスローガンで終わっていることの証明でしかない。

 「剣の理法は、万物に通じる真理であって、この真理はあらゆる思考、発想、判断力の原点となり、精神的支柱となる」が真正の事実であるなら、あるいは柔道の「精力善用」・「自他共栄」の理念が<人間すべての社会生活のあらゆる分野で適用できる>現実的に体現可能な理念であるなら、警察学校で剣道か柔道のいずれかを選択し、ベテランの武道の教官から基礎から訓練を受けて警察官として巣立っていった者の中で痴漢だ、強盗だ、盗撮だ、公金着服だ、自販機荒らしで逮捕された現職巡査部長もいた、2004年には北海道化の30%に当たる3200人の警察官が架空の捜査協力者をデッチ上げて支払ったことにした操作報償費を裏ガネにプール、私的流用したとして処分を受けた、その額は10億だ、操作報償費操作は殆ど全国各地の警察署で慣習としていた、パソコンを通した情報喪失、飲酒運転、婦女強姦、捜査報告書の捏造etc.etc. 跡を絶たないそれぞれの「理念」を真っ向から裏切る不祥事・犯罪・卑しいコジキ行為といった現象は日本の伝統だという武道がその理念を通して役目としている人格形成に何ら機能していないことの物語でしかない。

 「礼に始まって礼に終わる」効用にしても、「礼儀や公正な態度など、日本の伝統文化に触れる」(上記Sankei Web)効用にしても、何ら生きていない。

 もし理念は正しいが、それを学ぶことができない人間の問題だとするなら、様々な宗教と同じく、人間のあるべき姿の提示を役目とすることのみで終わる。社保庁や自治体職員の年金着服といった倫理意識、それを管理・指導できなかった自治体幹部や社保庁幹部、その上部の厚生省及び厚生大臣の職務上の管理・監督と責任意識が問題となっているように、常に問題となるのは理念が役に立たない人間なのだから、学ぶことができない人間にこそ有効な理念の提示と伝達の方法を創造し、構築すべきだろう。それは決していいこと尽くめの美しい理念ではないはずだ。あまりにも人間の現実の姿から離れ過ぎているからだ。人間の現実の姿を踏まえた実効性を持たせなければ意味をなさない。

 人間は美しいばかりの姿を取るわけではない。ときには醜い姿を取ることもあり、狡い姿も取る。ウソもつけば、言い訳もする。ゴマカシもするし卑しさに流されることもある。それが人間の現実の姿である。それを特に「剣の理法は、万物に通じる真理」云々の「理念」はそういった人間の現実の姿から離れた場所に置いて「剣道」のみを絶対とする(絶対的価値を有するとする)独善に身を置いている。

 それは日本の武道を日本の善なる伝統・文化と位置づけて、さらに遡って日本そのものを絶対としたい意識がなさしめている民族優越意識からの自己絶対化であろう。「伝統と文化を教える」とはそのことが含まれている。

 何かを絶対とする考えは、あるいは絶対としている「伝統と文化を教える」こととは、次期学習指導要領で狙っている「論理的な思考力」の育成の基礎となるそれぞれの「自分の考え」の尊重の否定への力学として働く。絶対価値観と人それぞれが独自に持つ「自分の考え」とは独自性の点で相容れない対立する関係を持つことになるからだ。その対立を解くには絶対価値観への従属のみ、「自分の考え」の抹消である。

 剣道・柔道なる日本の伝統・文化が示す理念を額面どおりに受け止めるなら、剣道・柔道のいずれかを学んでいる日本の「警察官は正義の人」を絶対真理としなければならなくなる。

 安倍内閣の教育政策は一方で日本の伝統・文化として絶対的価値観を置いている武道(剣道・柔道)の必修化という強制を行い、それと対立関係にある自発的判断によって成り立たせ得る「論理的思考」・「自分の考え」をもう一方で求める矛盾を犯している。

 こういったこととは別に、剣道を選択した場合は面や竹刀、剣道着を含めた道具セットが3万から4~5万円とするいうが、親の一方的な負担となるのだろうか。経済的な負担の加減で剣道か柔道か、選択が違ってくる。これも自発性を阻む要因の一つとなるだろう。それともすべて学校で用意するのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする