社会的成功者の言葉の信用性を考える
07年9月5日の朝日新聞夕刊。≪人生の贈りもの かけがえのない子ども時代 霊長類学者 河合雅雄(83)≫
<――人間にとって子ども時代って何でしょう?
今も昔も、人生に一度しかないかけがえのない時期だと思いますよ。寿命がどれほど延びたって、子ども時代は延びるわけじゃないからね。
――今の子どもたち、幸せでしょうか。
一概に不幸とは言えないけど、群れて遊ぶことがなくなってしまった。子供同士で遊ぶ中で覚えることがたくさんあるのにね。それと自然と切り離されてしまっているのが残念でね。大人は、子どもたちに自然を返してやる工夫と努力をしてもいいんじゃないかな。
――ご自身も活動を
小6から高3までの子どもたちを連れてボルネオに行く「ジャングルスクール」を、10年ほど続けています。
ジャングルの夜は真の闇だ。子どもたちはショックを受けているけれど、森を出て降るような星に星空に迎えられると歓声を上げる。川では最初は裸になって泳ぐのを恥ずかしがっているが、いつの間にかパンツ一丁ではしゃぎ始める。親元を離れて集団生活をしてるうちに、力強くなっていくのがわかったよ。
僕は今「顧問」なんやけど、つまるところガキ大将やね。先頭に立って遊ぶ体力はさすがにもうないから、心のガキ大将。実際に指導する専門家を手下に従えて全体を仕切ってるんだな。子どもの頃と同じことを、老人になってもやっている。
――子どもは野山で育つ
子どもたちは時に、おそろしく残忍であったりもする。でも生命の尊さに気づくのは自分の残酷さを自覚したときなのだよ。
僕だってひどいことをした。カエルをパチンコで撃つ。ピーンと足を伸ばしてひっくり返るそれがおもしろくて、ふと気づくと、白いおなかを出したカエルが田んぼにずらっと並んでいた。すごくぞっとしてね。
――どこまでが許容の範囲なのでしょうか
確かに、猫を殺して自分の残酷さを悟った、という話を聞いて共感できる人はいないだろうね。このあたりはとても微妙んものを含んでいる。どこまでだったらやっていいか。やっぱり僕みたいな大人のガキ大将が一緒にいて体験させるのが一番いいんだろうなあ。 (聞き手・赤岩なほみ)>
かつて「群れて遊ぶ」んだ。「子供同士で遊ぶ中で」たくさんのことを「覚え」た。我々の子ども時代は「自然と切り離されて」いなかったから、身近にあった自然の中でいつでも好きなときに好きなだけ思う存分に「群れて遊ぶ」ことができた。今の子どもは「自然と切り離されてしまっている」から、自然の中で思う存分に「群れて遊ぶ」こともできないし、「子供同士で遊ぶ中で覚える」べきことを「覚え」ることもできない。
こういったことが人間関係をうまく築けなくて、すぐキレてしまう子や、長時間座っていることができずに、落着きのない態度を取る、自分や他人を大切にしない、基本や義務や責任を軽く見る、規範意識や共同体意識が欠けた子どもをつくり出しているのではないか。
このような主張に多くの人間がその通りだ、言っているとおりだと頷く。子ども時代の「群れて遊ぶ」経験が人格形成と社会性獲得の何よりの重要な条件だとお守り札とすることになる。
この手の主張を正しいとするなら、身近にあった自然の中でいつでも好きなときに好きなだけ思う存分に「群れて遊ぶ」ことができたかつての子どもたちはすべてと言わなくても、その多くが「子供同士で遊ぶ中で」人格形成と社会性に関わるたくさんのことを「覚え」、責任感と社会意識・社会性を備えた自律した大人の社会人として立派に成長していったことになる。
霊長類学者・河合雅雄は83歳となっている。1924年(大正13)生まれであろう。少なく見積もっても河合雅雄以前に生まれ、社会に育った日本人と、河合雅雄と同時代かそれ以降の10年ないし15年の間に生まれ育った日本人は身近な自然に恵まれていただろうし、当然好きなときに好きなだけ思う存分に自然の中でいつでも「群れて遊ぶ」ことができ、人間関係の規律を様々に「覚え」ていくことができた環境にあったと言える。
豊富な美しい自然に恵まれた日本の農村は大日本帝国軍隊の最大の供給源だったと言う。農村の食えない次男・三男が軍隊は食いっぱぐれがないからと食うための駆け込み寺としたからだろうが、豊富な美しい自然とその美しさに反する生活の貧しさという逆説は皮肉である。
だが例え貧しくとも、子供同士で「群れて遊ぶ」ことのできる豊富な美しい自然に恵まれていただろうから、人間関係やら何やら「子供同士で遊ぶ中で覚えることがたくさんあ」ったと見なければならない。
だが、軍隊に入った彼らは古参兵の地位を獲得すると、自分たちも入隊したての新兵時代にその多くが自分たちと同じ農村出身だったに違いない古参兵にしきたりとして加えられた新兵いじめをやはりその多くが自分たちと同じ農村出身だったに違いない次の新兵に順繰りに行ういじめの循環に身を任せた。特に戦争が激しくなって多くの都市労働者や学歴を持ったサラリーマンが赤紙一枚で軍隊に新兵として招集されると、農村出の古参兵は、農村よりも生活が楽な都市出身兵に対する嫉妬と悪意から先輩の地位を利用して、彼らを陰湿ないじめの標的とする傾向があったというが、自然の中で子供同士で「群れて遊ん」で学んだとする社会性や人間関係術は姿を消して何ら助けとはならなかったようである。
このような無意味性は何を物語るのだろうか。軍隊という特殊な組織がなさしめた姿だと言うなら、自然の中で子供同士で「群れて遊ん」で学ぶ規範意識や対人感受性、あるいは人間関係は自分が置かれる環境次第で変わる変数ということになって、実体的にはそうなのだが、子ども時代の「群れて遊ぶ」経験が人格形成と社会性獲得の何よりの重要な条件だとする河合氏の主張は主張としての意味を失う。
勿論新兵いじめは農村出身の古参兵のみの仕業ではなく、都会出身の古参兵も加わった共同作業であったろうことは容易に想像できる。学校のいじめと同じで、加わるべき人間が加わらないと、自分だけいい子になってと憎まれることになるだろうし、あるいは自分が受けたいじめの仕返しを次の新兵で晴らすべく、それが都会出身であろうと農村出身であろうと構わずに積極的に攻撃するといった人間もいたろう。
自然の中で子ども時代に「群れて遊ぶ」ことによって「覚え」ていくはずの人間関係術や社会性が大人になって必ずしも役に立つとは限らない条件付の可能性というだけではなく、子ども時代から条件付きである例として、戦争末期の都会からの集団疎開学童に対する田舎の子のいじめを挙げることができる。
もし田舎の子が「群れて遊ぶ」ことによって対人感受性や社会性を「覚え」つつあったというなら、集団疎開学童に対するいじめは仲間内でしか通用しない、まさに条件付きの対人感受性及び社会性ということになる。
仲間内には通用するが、他処者には通用しない社会性や人間関係術はそれがまだ学習発展途上にある子どもの社会だからで、大人に向かう成長過程で解決する問題だとすると、軍隊内の新兵いじめもそうだが、広い範囲に亘っていた日本の大人たちの戦中・戦後に於ける朝鮮人差別、中国人差別は説明がつかなくなる。そして今もなお、韓国・朝鮮人差別や有色人差別は以前ほど強くはないが、日本人の意識の暗流に生きづいている。
こう見てくると、安倍首相の「かつて家庭と地域社会は子どもたちのモラルを助成する役割を果たしていた。人と人との助け合いをとおして、道徳を学び、健全な地域社会が構成されてきた」と同様に河合雅雄氏の子ども時代に自然の中で「群れて遊ぶ」経験が人格形成や社会性獲得の何よりの重要な条件だとする主張が根拠のないものに思えてくる。
こういうことではないのだろうか。誰にとっても思い出し可能な社会性獲得の入口となっている子ども時代を社会人の出発点としていることから、社会的成功者たちはその成功の出発点にしても自然の中で子どもたち同士で「群れて遊」んだことに置くことになり、そういった社会的成功者が新聞やテレビ等のマスメディアに応じてそのことを発言した場合、少なくとも表面的にはそれなりの社会性を獲得し、それなりの人格形成を果たしていると世間に認知されていることから、言っていることになる程なと思わせてしまう力が働くのではないだろうか。
少なくとも自然の中で子どもたち同士で「群れて遊」んだ子どもたちすべてが規範意識や社会性を獲得するわけではないことがその証明となる。
河合氏は「子どもたちを連れてボルネオに行く『ジャングルスクール』」の「顧問」を務めているということだが、どんなスクールなのかインターネットで調べてみると、期間は1週間前後、費用は20万円前後だそうだ。
自然の中で子どもたち同士が「群れて遊ぶ」ことで社会性その他を「覚え」ていくという河合氏の主張が正しいとしても、1週間前後の自然体験で追いつく社会性その他なのだろうか。
また20万円前後という費用は出せる家庭ばかりではないから、もし追いつく社会性その他ということなら、今の時代、社会性獲得もカネ次第ということになりかねない。
河合氏は学者でありながら、子どもたちを取り囲む今の社会の矛盾を言いながら、新たな矛盾をつくり出していないだろうか。「ジャングルの夜は真の闇だ。子どもたちはショックを受けているけれど、森を出て降るような星に星空に迎えられると歓声を上げる。川では最初は裸になって泳ぐのを恥ずかしがっているが、いつの間にかパンツ一丁ではしゃぎ始める。親元を離れて集団生活をしてるうちに、力強くなっていくのがわかったよ」と「ジャングルスクール」を自賛しているが、ボルネオのジャングルが身近では体験できない全く異質の環境であっても、大人たちがお膳立てした環境であることに変わりはなく、1週間という期間を考え併せると、お膳立てされた環境での社会性の獲得という形式は「パンツ一丁ではしゃぎ始める」といったその環境に慣れる成果は期待できても、自覚的社会性の獲得にまでいかないのではないだろうか。
河合氏は「大人は、子どもたちに自然を返してやる工夫と努力をしてもいいんじゃないかな」と元の昔に戻らないことを無視して言っているが、人間もその一員となっている霊長類学者なのだから、「自然の中で」ではなく〝学校社会の中で〟子供同士で「群れて遊ぶ」社会性・人間関係術を育む処方箋をこそ示すべきではないだろうか。