政治家と「言語力」

2007-09-16 07:26:50 | Weblog

 学習指導要領改定は子どもの能力欠如の原因の特定から始めるべき

 前日のブログ記事≪オシムが言う「即興性・柔軟性・創造性」の欠如からの年金記録回復作業の停滞≫の中で文科省は次期学習指導要領の柱に自分の言葉で物事を的確に表現する「言語力の育成」を据えるとする新聞記事を紹介した。

 その中で「自分の言葉で物事を的確に表現する『言語力』の育成は従来の教育がそのことを欠いていたことへの反省に立った政策転換であ」ろうといったことを書いた。

 問題としなければならないこととして今まで言われてきた子どもたちの「読解力」や「多角的思考」といった能力の欠如は大人たちのそれら能力の欠如を受けた子どもたちの欠如で、大人たちがそれらの能力を満たしていたなら、子どもたちは自然と受け継ぐものだと以前から主張しているが、当然のこととして「言語力の育成」は日本の大人たちがそれを欠いていることの反映としてある子どもたちの「言語力」の欠如であり、その是正という関係をなす。

 「総合的学習」として育もうとした自ら考え、自ら判断して自ら決定するといった主体的判断能力・自己決定能力の育成にしても、そのことを欠いていることからの育成であって、その欠如は日本の大人たちが欠いていることの反映としてある子どもの欠如であろう。

 このことを証明する記事が今朝の『朝日』朝刊に載っている。

 ≪耕論 宰相の条件≫(07.9.16)の中で、浜矩子同志社大教授が「メディア時代の宰相のあり方は」と問われて、次のように答えている。

 「言葉を大事にすること。よく考えられた脈絡のある言葉でメディアに訴えかけてほしい。訴えかける窓は、世界に広がっている。翻訳されても意味不明ではなく、きちんとした文章になる言葉で語りかける気構えが必要。メディアをパフォーマンスの場ではなく、有権者とのきずなを形成する場にすることが知的緊張感につながっていく」と答えている。

 このような要望は、言葉を大事にしていない、メディアで訴えかけている言葉が十分に考え練った言葉となっていない、きちんとした文章になる言葉で語りかける気構えがそもそもからしてないから、翻訳すると意味不明の言葉となることが多い。メディアをパフォーマンス披露の場としていて、有権者とのきずなを形成する場としていないために、知的緊張感が感じられない「宰相」の姿となっていることからの、その逆を求めた「宰相の条件」の提示であろう。

 言っていることの姿を要約すると、誠実さといった人格的要素もさることながら、何よりも「言語力」の欠如を指摘した内容となっている。

 ということは、「言語力」の欠如は子どもだけの問題ではなく、日本の大人の問題でもあり、大人たちの欠如の反映としてある子どもたちの欠如だということが分かる。

 前日のブログで「脱暗記教育」の立場に立たないと、「言語力」の育成にしても形式化・画一化すると警告したが、「読解力」や「多角的思考」といった能力の欠如にしても、自ら考え、自ら判断して自ら決定するといった主体的判断能力・自己決定能力の欠如にしても、勿論「言語力」の欠如にしても、その原因を私自身は知識伝達がなぞりの形式を取るためにそこにそれぞれの判断の介在を必要としない暗記教育にあるとしているが、私自身のこの指摘が他人によっても正当性を得ることができる原因かどうかは分からない。しかし、少なくと欠如の拠って来る原因を特定しないことには、不足しているから、あるいは欠如しているから育成しようというその場を取り繕うだけの表面的な対症療法に終始することとなり、本質部分を是正する原因療法はいつまでも期待できないことになる。

 「ゆとりの時間」にしても「総合的な学習の時間」にしても、原因を特定しないことからの成果なしの画一化・形式化ということもあるに違いない。 

 日本の教育は暗記教育などではないと主張する向きもあるが、では子どもたちのそれぞれの能力の欠如・不足の原因はどこにあるのだろうか。まず原因を特定することから指導要領の改訂に取り掛かるべきだろう。

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