安倍に問う。「モラルが確立していた時代があったのか」

2007-09-07 09:28:49 | Weblog

 9月4日(07年)、NHK「ニュースウオッチ9」。年金保険料着服問題で厚生労働省での朝10時の桝添厚労相の記者会見。

 桝添「こんなこと許される?ないですよ。泥棒でしょ?盗っ人なわけですよ。そういう人が抜けぬけと、また、どの役場で仕事していていいですか?」

 解説によると、新たに明らかになった年金保険料の横領や着服、その額3億4千万円余り。そのうち社会保険庁職員による昭和37年度から昨平成18年度まで50件。被害総額1億4200万円。50件のうち26件は社会保険庁が自ら公表はしていなかった。さらに保険料の着服は市区町村の職員の間でも行われていたと。例として、岡崎県旧寄島町は昭和50年度から56年度にかけて6240万円余りを着服。昭和36年度から平成13年度まで市区町村は国民年金保険料の収納業務を委託されていて、全国23の都道府県で49件、2億77万円余りが着服されていた。49件の事案のうち、12件はまったく公表されていなかった。すべての事案でどのような処分が行われたかは不明。

 再び桝添厚労相「全部洗いざらいどういう職員がどういう着服をして、それはどういう処分をやってんのかね?やっていなくて、宙ぶらりんになったら、ちゃんとその、首長(くびちょう)さんが告発しなさいと。まあ、そういうことを法務大臣に至急申し入れようと思っています。法に反して国民の税金をかすみ取った人間はきちっと厳正なる法の処分に従うんだってことがないと、我々、あの、命がけでやってるんだから、徹底的に膿を出してやらないといけないと思っています」

 日本にはかつて支配階級に位置していた日本人の美しい振舞いを称える「斬り取り強盗は武士の習い」という諺があったが、「横領・着服は役人・官僚の習い」と言い替えて、現在の日本の社会的上位者たる役人・官僚の美しい習性として後世に伝えるべきではないだろうか。

 勿論国会議員だって、その例に漏れない。「事務所費の架空・付け替え・二重計上は国会議員の習い」とすることができる。

 江戸時代から明治・大正・戦前昭和を飛び越えて戦後昭和に現れた習性とは考え難いから、明治・大正・戦前昭和の時代もきっちりと受け継いできたに違いない「横領・着服」であろう。いわば江戸時代の武士の「切り取り強盗」の習性を受け継いだ今に始まった現象ではない現在の官僚・役人の「横領・着服」の伝統的習性と言えるだろうから、当然言い替え可能となる。伝統=文化である。

 単細胞な保守政治家は戦後アメリカ文化が移入され日本人がアメリカナイズされた結果、自分さえよければいいという個人主義・利己主義が蔓延するようになったと言い、さも戦前の日本には悪しき個人主義・利己主義の類が存在しなかったかのように言うが、この言葉を信じるとしたら、「横領・着服」は日本の伝統文化ではないことになる。

 『国体の本義』ではさらに遡って<個人の自由なる営利活動の結果に対して、国家の繁栄を期待するところに、西洋に於ける近代自由主義経済の濫觴(らんしょう・物事の始まり)がある。西洋に発達した近代の産業組織が我が国に輸入せられた場合も、国利民福といふ精神が強く人心を支配してゐた間は、個人の溌剌たる自由活動は著しく国富の増進に寄与し得たのであるけれども、その後、個人主義・自由主義思想の普及と共に、漸く経済運営に於て利己主義が公然正当化せられるが如き傾向を馴致(じゅんち・馴れさせること)するに至つた>と明治以降に移入された欧米文化に利己主義発生の責任を帰し、やはり「横領・着服」といった利己主義が日本の伝統文化ではないことを主張している。(語訳・「大辞林」三省堂)

 1998年放送のNHKテレビ『敗戦、そのとき日本人は』は、「本土決戦に備えて蓄えられていた軍需物資はアメリカ軍の調査によれば、全部で2400億円にのぼる。敗戦と同時に放出された軍需物資をめぐる不正は内務省に報告されている。軍やその関係者が物資を隠匿・流用していた。東京の陸軍の工場では、ダイヤモンドが2億4000万円程度紛失した。滋賀県では、特攻隊員が特攻機に物資を満載し、自宅に運んだあと、機体を焼却。不正に流失した軍需物資は闇市に溢れた――」

 ダイヤモンドの2億4000万円をだけを取っても、昭和20年12月時点で米10Kが6円だというから、現在5000円としても、2億4000万円の833倍、現在の貨幣価値に換算すると、2兆円近くの自分さえよければいいの個人主義・利己主義の見事な発揮である。

 これらの美しいばかりの個人主義・利己主義は「横領・着服」があって初めて可能となる「隠匿・流用」であろう。天皇の兵士たる大日本帝国軍隊の面々が殆ど敗戦と同時に、いわば戦後のアメリカ文化に触れる暇もない、当然アメリカナイズされていない皇民化教育を受けてそれがまだ剥がれるはずはない純粋な美しい日本人そのままであった時期に「横領・着服」という自分さえよければの個人主義・利己主義に走った。

 それとも明治以降の欧化主義に毒された利己主義がなさしめた「隠匿・流用」だとでも言うのだろうか。

 支配的地位にいて命令を権力慣習としていただけではなく、軍の機密をより知り得る機会に恵まれてもいただろうから、「横領・着服」にしても「隠匿・流用」にしても下級兵士よりも上官の方が行うに有利な立場にいたに違いない関係を考えると、職務的にも社会的にも優越セル日本の優越セル伝統・文化を説く側に立たなければならない人間がその立場と責任を裏切って不正を働いていたと見なければならない。当然そのような地位が上の者がいくら欧化主義に悪影響を受けた利己主義だといっても、利己主義に毒されていいはずはなく、社会的地位及び社会的責任という点でモラルとの間に矛盾が生じる。どのような事情があろうと、欧化主義からの利己主義に責任を帰していいわけはない。

 地位・責任の上の者が下の者よりも不正をよりよく行う。この逆説の起因はどこにあり、どのような理由からなのだろうか。

 いずれにしても戦後の自分さえよければいいという個人主義・利己主義がアメリカ文化にどっぷりと馴染むアメリカナイズによって生起された性格傾向とは限らないということを証明することになり、日本の保守政治家の主張はアメリカ的なるものに対する名誉毀損で訴えられても仕方のない薄汚い濡れ衣、根拠もない冤罪となろう。

 桝添厚労相は社会保険庁職員や市区町村職員の年金保険料着服を「こんなこと許される?ないですよ。泥棒でしょ?盗っ人なわけですよ」と憤っているが、厚生労働省という所管官庁の長に座った関係から当然見せなければならない憤りとも言える。着服は何も社会保険庁職員や市区町村の年金課の職員に限った専門行為ではなく、殆どの省庁、地方自治体がホテル代金やタクシー代金の水増しさせ、その水増し分を業者や内部でプールして飲み食いなどに使う、パンフレット等の出版物を高値で随意契約して、その高値分から監修料と称してキックバックさせ、それを職員で分配したり、飲み食いに使う、格安の航空運賃で視察や出張に出かけながら、当たり前の航空運賃を請求して、その水増し分を懐する、ヤミ残業手当、ヤミ給与等々、これらはすべて「横領・着服」に当たる卑しいコジキ行為であって、年金保険料着服もそのような「横領・着服」の一環に過ぎない。しかも管理・監督の立場にある自民党政府はそれを放置し、「横領・着服」を官僚・役人の伝統・文化とするに任せてきた。

 外務省を例に取ると、1980年代に複数部署でホテル代金をホテル側と共謀して、水増しして不正請求し、水増し分をプールして裏ガネとして管理、私的流用する「横領・着服」を、多分喉元通れば暑さ忘れるで世間の噂が収まった頃を見計らってまたぞろ卑しいコジキ根性が頭をもたげてきたのだろう、懲りもせずにホテル代金の水増し請求を通した裏ガネ作り、ノンキャリアによる官房機密費の不正流用(競走馬を14頭も所有して大尽気分を満喫していた)、その他外国派遣の大使や大使館員の公金着服や流用(パラオ大使館の会計担当館員が公金1500万円を不正流用したにも関わらず、1年間の停職処分という軽い罰則で済ませている。しかも月初めに処分を発令していたが、一旦公表しないことを決め、処分を2週間近く隠す身内庇いをやらかしている。2001・8.14.『朝日』朝刊)≪「外務省、不祥事隠蔽」≫)等の新たな「横領・着服」が2001年に発覚している。

 社会保険庁にしても、「横領・着服」が年金保険料に限った行為ではなく、それ以外にも予算の不正流用、随意契約、便宜供与等々を通じて間接的・直接的な「横領・着服」を伝統・文化としてきているのである。

 そのような各省庁に亘る、あるいは多くの自治体に亘る倫理欠如(モラルの破綻)の卑しい体質を自民党内閣は放置してきて、「こんなこと許される?ないですよ。泥棒でしょ?盗っ人なわけですよ」の憤りは今さらながらのものに過ぎず、外局である社会保険庁を管理・監督する厚労省の責任者の立場に立ったことと、参議院与野党逆転の状況下で生ぬるい対応したなら即内閣支持率に撥ね返ってくる関係からの、そうせざるを得ない憤りと見ないわけにはいかない。

 もしも参議院も自民党圧倒多数という状況にあったなら、国民の怒りが収まるまで低姿勢という従来どおりの生ぬるい対応に終始したに違いない。そのようなナアナアの事勿れな態度が官僚・役人だけではなく、政治家の倫理欠如(モラルの破綻)を助長させてきた一因ともなってきたのは事実なのだから、そのことから判断すると、そう考えざるを得ない。

 同じ憤るなら、官僚・役人に対して管理・監督の責任を負う歴代自民党内閣の官僚・役人の「横領・着服」等のモラル破綻を跡を絶たない伝統・文化とさせるに至った事勿れな対応と不始末・無責任をこそ憤るべきだろう。自民党政治の総合制作とも言うべき官僚・役人のモラル破綻なのである。もし桝添要一が自分は利口な政治家だと思うなら、こういった客観的事実に立って行動を起こすべきだろう。間違った事実の上に正しい目標を築くことはできない。

 安倍信三は自らの偉大な著書『美しい国へ』の「第7章 教育再生」で、<学力回復より時間がかかるモラルの回復>なる一読どころか二読、三読にも値する貴重な主張を展開している。

 <じつをいえば、日本の子どもたちの学力の低下については、わたしはそれほど心配していない。もともと高い学力があった国だし、事実いまでも、小学生が九九をそらんじていえるというのは、世界のトップレベルに近い。したがって、前述したような大胆な教育改革(ダメ教師はやめさせる、年功序列の昇進・給与システムの見直しによるやる気と能力のある教師の優遇、学校評価制度の導入、校長の権限拡大と保護者の参加、地元住民や地元企業の学校運営への参加等権威主義の強化にしかならない主張を前述している。)を導入すれば、学力の回復は、比較的短期期間にはかれるのではないか。
 問題はモラルの低下のほうである。とりわけ気がかりなのは、若者たちが刹那的なことだ。前述した日本青少年研究所の意識調査(2004年)では、「若いときは将来のことを思い悩むよりも、そのときを大いに楽しむべきだ」と考えている高校生が、アメリカの39・7パーセントにたいし、50・7パーセントもいた。若者が未来を信じなくなれば、、社会は活力を失い、秩序はおのずから崩壊していく。
 教育は学校だけで全うできるものではない。何よりも大切なのは、家庭である。だからモラルの回復には時間がかかる。ある世代に成果があらわれたとしても、その世代が親になり次の世代が育つころにならなければ、社会のモラルは回復したことにならないからである。
 かつて家庭と地域社会は子どもたちのモラルを助成する役割を果たしていた。人と人との助け合いをとおして、道徳を学び、健全な地域社会が構成されてきたのである。

 <かつて家庭と地域社会は子どもたちのモラルを助成する役割を果たしていた。>の<かつて>とはいつの時代を指すのだろうか。戦前なのか。だとしたら、戦争中から自分の立場がそれなりに備えていた権威・権力を利用して配給品の横流し受けたり、それを転売して利益を得たりの役得行為に走った大人たちのモラルと子ども時代に<家庭と地域社会>によって<助成>されたモラルとの辻褄はどう説明したらいいのだろうか。

 すべての人間に教えが行き渡るわけではない。いつの時代も一部の不心得者は存在するのだから、言っていることに間違いがあるわけではないとでも言うのだろうか。

 だが、「世の中は星に碇に闇に顔、馬鹿者のみが行列に立つ」と、陸(星)海(碇)軍人や闇屋や裏世界の人間(闇)、隣組長や町内会長、あるいは医者・官吏といった地域の有力者(顔)は物資配給の行列に並ぶ必要なく、特別な横流しで手に入れることができ、一般市民(馬鹿者)だけがバカッ正直に長時間並ばなければならなかった不公平が戦争中戯れ歌として人口に膾炙されていたということは、地位の上の者が社会ルールを無視しても許され、そのようなルール無視が不当な利益を保証する不公正の横行を一般風景化していたことの証明以外の何ものでもなく、そのことはそのままほんの一部の不心得者の出来事ではないことを物語っているだけではなく、<人と人との助け合いをとおして、道徳を学び、健全な地域社会が構成されてきた>といった風景はどこにも見受けることができないことを示している。

 また戦争中の天皇の軍隊であった大日本帝国軍隊兵士の強姦や略奪、理由なき殺害、捕虜虐待のモラルにしても<家庭と地域社会>によって<助成>されたモラルが何ら役に立ったなかったことの証明ではないだろうか。それとも<助成>されたモラルの忠実な実践がなさしめた行為の数々だとでも言うのだろうか。

 戦争中の日本の大人たちの上記モラルの質と、敗戦を境に「軍やその関係者が物資を隠匿・流用していた」モラルの質、<新たに明らかになった年金保険料の横領や着服、その額3億4千万円余り。そのうち社会保険庁職員による昭和37年度から昨平成18年度まで50件。被害総額1億4200万円>ということは、<昭和37年度>には大人の年齢に達していて、家庭や地域の教育力の恩恵を受けた時代は戦前ということになるから、戦前の教育を受け戦後大人となった日本人のモラルを逸した行為の数々等を考え併せると、<かつて家庭と地域社会は子どもたちのモラルを助成する役割を果たしていた>ことが付け焼刃の<助成>に過ぎず、<かつて>の<家庭と地域社会>が何ら役に立たなかった、あると信じ、言い触らしている<かつて>の<家庭と地域社会>の教育力が幻想に過ぎないことを物語っていないだろうか。

 <人と人との助け合いをとおして、道徳を学び、健全な地域社会が構成されてきた>にしても、人間が自己利害の生きものであることから免れることができないその存在性から考えたなら、願望の域を出ない念仏の類で、客観性を欠いた根拠のない美化に過ぎないのではないだろうか。

 大体がモラルがきちんと確立していた時代などあったろうか。江戸時代の役人の地位にいた、あるいは人事選定の地位にいた武士たちのワイロで役目を左右し、依怙贔屓を働かすモラル、特に年貢徴収を預かる役人たちの自分たちからワイロを請求して百姓たちの応じ方次第で手心を加えるモラルが当たり前となっていた時代光景、時代が下り武士の生活が困窮していくと「斬り取り強盗は武士の習い」となっていくモラル放棄の時代状況は今の時代の政治家・官僚・役人のモラル破綻と同質の姿を映していると言える。

 こういった経緯から導き出すことのできる答、あるいは結論はモラルが確立していた時代など存在しなかったという事実であろう。このことはモラルの確立を訴える宗教の有史以来の存在が何よりも証明している。キリスト教を例に取るなら、汝、殺すことなかれや汝、盗むことなかれ、汝、姦淫することなかれ等は殺す人間にしても盗む人間にしても姦淫する人間にしても無視できない数で存在する社会的なモラルの破綻に対応したモラル確立に向けた戒めであり、今以てその役目を担っていることがモラルの確立が未到の目標であることを示している。

 安部流の言い方で裏返すとすると。<かつて家庭と地域社会は子どもたちのモラルを助成する役割を果たしていた>なら、宗教の戒めは無用の長物となり、道徳律としての宗教の存在意義は失われる。

 <子どもたちのモラルを助成する役割を果た>すために<家庭と地域社会>は宗教を用いていたとするなら、宗教の戒めが持つ失われることのない非抹消な永遠性(例えばキリスト教の汝、人を殺すことなかれや仏教の悪いことをしたら地獄に落ちるのいつまでも抹消されることなく持ち続ける永遠性)によって、逆に宗教の役に立たないことの証明にしかならない。

 年貢徴収に関してワイロに応じることのできる財力のある百姓は役人の受けもよく、それ相応の様々な便宜も与えられて勢力を拡大し、応じるだけの財力のない百姓は役人に疎まれ、権威主義社会であるゆえに学校や会社のいじめと同様の構図で上の者である役人と同じ態度を取らなければ自分まで疎まれることから地域全体から阻害されることとなって、ワイロが経済的格差ばかりか、生存上の格差まで広げる要因となったに違いない。

 <かつて家庭と地域社会は子どもたちのモラルを助成する役割を果たしていた>とするそもそもの前提が既に意味を失っている。間違った事実の上に正しい目標を築くことはできないのと同様に意味を失った前提に立って、教育再生を果たせるとするのは安部晋三だからできる滑稽な倒錯を犯すことでしかない。如何なる時代も、如何なる社会も矛盾・格差・不公平を付き纏わせてきたのである。美しい時代とか美しい社会など存在しなかった。どのような時代もどのような社会もキレイゴトで規定したなら、スローガンを掲げただけといった不毛の結果に終わる。

 そのことは安倍晋三の上記「九九論」に既に現れている。<小学生が九九をそらんじていえるというのは、世界のトップレベルに近い。>と学力の低下は心配していないようなことを言っているが、「九九」などは機械的訓練の積み重ねで取得可能な技術であって、暗記学力に役立っても、創造的学力には役立たないことに気づかない単細胞である。

 小鳥だって訓練すれば模型の神社の扉を嘴で開けて、おみくじを嘴に挟み、指示した人間の手のひらに戻ってくるぐらいのことはする。犬にしたって訓練次第で簡単な足し算の問いかけに答が書いてある紙を口にくわえて戻ってくるぐらいのことはする。小学生の年齢で九九を知らない国の子どもたちは国も国民も貧しく、学校に行ける子どもが少数で九九の訓練を受ける機会のないことが寄与していることから比較した日本の<小学生が九九をそらんじていえるというのは、世界のトップレベルに近い>成績といったところだろう。

 いわば就学の機会と集中的訓練が決定要因となる九九の技術に過ぎないのだが、日本の学力自体が暗記の積み重ねによる機械的技術となっている関係から、九九の技術を基準に学力を論ずる安倍式教育論は珍しく間違っていない。但し、九九を含めた機械的訓練の積み重ね学力は訓練の指示を受けた受身の学力であり、自発的判断の創造的要素を必要とせずに成り立たせ可能な知識であることから、受身の機械的思考を自らの習性としかねない。

 安倍晋三は「第7章 教育再生」の<学力回復より時間がかかるモラルの回復>の後段でモラル確立方法としてボランティア活動を提案している。

 <そこで考えられるのが、若者たちにボランティアを通して、人と人とのつながりの大切さを学んでもらう方法だ。人間は一人では生きていけないのだ、ということを知るうえで、また、自分が他人の役に立てる存在だったということを発見するうえでも、ボランティアは貴重な体験になる。
 たとえば、大学入学の条件として、一定のボランティア活動を義務づける方法が考えられる。大学の入学時期を原則9月にあらため、高校卒業後、大学の合格決定があったなら、それから三ヶ月間をその活動にあてるのである。
 ボランティアの義務付けというと、自発的にやるからボランティアなのであって、強制するのは意味がないとか、やる気のない若者がやってきても現場が迷惑する、というような批判が必ず出る。しかしみんなが助け合いながら共生する社会をつくりあげるためには、たとえ最初は強制であっても、まず若者にそうした機会を与えることに大きな意味があるのではないか。

 言っていることは一見まともなことに見えるが、若者に強制的にボランティアの機会を与えることが<みんなが助け合いながら共生する社会をつくりあげる>ことになるとする結論に合理的な根拠を読み取ることはできない。前提と結論を単純に結び付けているだけに見える。

 <かつて家庭と地域社会は子どもたちのモラルを助成する役割を果たしていた。人と人との助け合いをとおして、道徳を学び、健全な地域社会が構成されてきた>が既に事実無根の前提に過ぎず、意味を失っているのである。そのようなキレイゴトに過ぎない前提に立ち、なおかつ暗記教育を通して受身の機械的思考を習性とさせている人間を相手に<みんなが助け合いながら共生する社会をつくりあげるためには、たとえ最初は強制であっても、まず若者にそうした機会を与えることに大きな意味がある>とないものねだりに過ぎない主体性を求めるのはキレイゴトの上にさらにキレイゴトを重ねるキレイゴトの屋上屋を架す無駄な努力で終わることになるだろう。

 義務づけられたボランティア活動という一種の指示された訓練に対して機械的に従う非自発性をなおのこと重ね着させる機会になり得るだろうことは保証する。

 安倍晋三は<モラルの回復には時間がかかる。ある世代に成果があらわれたとしても、その世代が親になり次の世代が育つころにならなければ、社会のモラルは回復したことにならない>、<何よりも大切なのは、家庭である>と、家庭を場としてモラルを植えつけられた子どもが親となって、その親から次の子へモラルが受け継がれていくことによって社会全般のモラルは確立すると言っているが、自己利害でどうとでも姿を変えるのが人間であり、安倍晋三自体も首相に就任以来支持率と求心力を維持・回復するために主義・主張もない千変万化の巧妙・狡猾な変身と変心を見せてきているのである、このような人間の現実の姿を抜きにモラルの確立をどう語ろうと、絵に描いたモチに終わるだろう。

 まあ、「人と人とのつながりを大切にしよう」「人と人との助け合いをとおして、道徳を学ぼう」、「健全な地域社会をつくりあげよう」といったスローガンだけはよく見える。そういったスローガンを口にして、子ども・生徒に指示を出す教師の姿は既にはっきりと見ることができる。

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