9月21日(07年)の日本記者クラブ主催の自民党総裁選公開討論会。拉致問題で一方の総裁候補の麻生太郎は小泉訪朝時の官房長官だった福田康夫総裁候補の対応を批判したが、続いての討論で国家観の違いを浮き立たせた。福田康夫の国民への視点を持った国家観に対して麻生太郎は安倍晋三同様に日本の伝統と歴史に最重要の価値を置き、そのような伝統と歴史を織り成してきた日本人に絶対的信頼を寄せた国家観に立っている。いわば日本人、そして日本の伝統と歴史をすべて肯定する立場に立っている。否定要素を排除し、肯定要素のみに目を向ける。そこから侵略戦争否定につながっていくのだろう。「創氏改名は朝鮮人が望んだ」という話になっていくのだろう。
福田(過去の総裁選でも考え方に違いがあるように見えても、ニュアンスの違い程度で基本的な考え方は似通っているものだ、目指すところは似ていると前置きした上で)「ちょっと違いがあるとすれば、私の方は割合と遠くに、将来を見据えた議論をしている。麻生候補は割合と近場を中心とした議論をされている。こういう違いがあるかなというふうに思う。そういう意味で言うと、例えば『誇れる国日本』というキャッチフレーズを(麻生候補が)挙げている。『誇れる国』とは将来誇れる国であって欲しいということだと私は理解する。そういうことでそれでよろしいですか?」
麻生「私は自由民主党の党員として、自民党員です。自民党の青年局ですと、言うように誇れるようになりたい。私は党員に対していつもそう思っている。同様に日本人も、何人ですかと聞かれたときには私は日本人ですと、いうことを堂々と誇れるような日本、という国が私共の目的とすべきだと。落着くところは、一番大事なところはここが一番国民として大事なところではないかと申して、思っておりますんで、短期的にも長期的にも誇れる国というのは短期の目標でもあり、長期の目標でもあり、私はそう思っている」
――(こういった物言いが翻訳不可能に当たるのだろう。日本という国を誇る、日本人であることを誇る。だが、1億3千万人近くもいる様々な人間を日本人と単一に把え、様々な社会の集合体であることを超えて日本国と単一に把えたとき、その日本人・日本国は全体的な装いを指すこととなり、そのような全体的な装いである日本人・日本国を誇るのはそれぞれの背後に抱えている矛盾や間違いを排除・抹消、あるいは無視する客観性を欠落させた意識があって成り立つ誇りであろう。
いわば間違いはない、矛盾はないとする自己無誤謬性を客観性とするゆえに、その誇りは少なくとも優越意識を纏わせることになる。自分が社会の一員として求められている責任を十分に果たしているのか、日本が先進国、経済大国として求められている責任を他の国々に対して果たしているのか、そこに矛盾や過誤はないか、優越意識につながりかねない誇ることよりも、そういった個別的な社会関係意識、対外関係意識こそが必要なのではないだろうか。)
福田「そこでさらに尋ねるが、時々BBCの調査を例に挙げているが、BBCの調査によると、日本は非常に国際社会に役に立っているいい国だと、そういうことなんだけど。世界で一番だと、そういう説明をしている。しかし昨年のBBC調査、1月のね、今年のBBC調査では若干下がる。昨年は本当の1番だった。今はもう一つ1番の国が出てきた。日本が下がって、一番の国が出てきた。日本が下がって、他の国が上がってきた。ですから、どうも誇れる、そういう意味では『誇れる国日本』と言うのは昨年、一昨年とか、そういうのをピークにして段々下がっていく心配があるのではないか。そんなふうにも思う。特に最近はODAも相当減額して、一頃は10年ほど前は世界で一番のODA供与をしていた。それが二番手になり、そしてどうやら来年辺りは四番、五番になるんじゃないかというようなことを言っている。それが金額的に多いというのであればいいのだが、人口当たりの、一人当たりのODAということになると、一番いいときでもやはり10番以内、今は恐らく20番近くになってきているのではないか。それだと国民一人ひとりが負担しているODAというのは諸外国に比べて少ない。そういう実情を先の外務大臣としてどう考えているのか」
麻生「基本的に今言われたのは昨年同率2位になった。カナダが2位。同率2位。同率1位になった、カナダが。3位は確かイギリスだったと記憶している。そういう意味で私共も少なくとも誇れる国であったという話で、今誇れる国でないと言うんであれば、なおさら今誇れる国にすべきなんだと、私はそう思っている。ODAの額というものもきわめて大きい。確かにおっしゃるとおりにODAの総額は例の一律3%のマイナスという指示によってODAは減らされ続けてきたのは、この5,6年間間違いのない事情です。その前からも減らされてきている。そういう意味では日本として、日本にはきちんとした対応をもっとしてもらいたいと国連からの要請は度々あったところでもある。それに対して我々として色々なこれら努力してきた。間違いない事実だと思う。しかしカネと同時にやはり日本という国がやっていることは、例えばよく例に引くホンジュラス、中米の小さな国だが、そのホンジュラスで行っている海外協力隊員、何でホンジュラスの子どもはこれだけ計算できない、算数ができないということを色々と考えて、要は教科書が悪いという結論に達して、海外協力隊員みんなで集まって、ホンジュラスでスペイン語によって算数の教科書を作っている。これによって結果は出た。そしてホンジュラス政府は昨年から日本が海外協力隊員が作った初めて、国定教科書に指定。隣国にも是非にという話をしている。算数の先生が作ったんじゃあない。海外青年協力隊員、色々な文野の人たちが行って作っている。こういったものが日本として大きな力を出しているものだと私は思っている。カネも大きい。確かに大きい。日本というものが出しているその他のものも大きく評価されて然るべきだと私はそう思っている」
――(ODAの金額がすべてではない。福田氏にしても金額を問題にしているが、被援助国の国民生活の向上に直接的に役立っているかということが最も問題とされるべきで、かつてのインドネシアに対する日本の援助がスカルノやスハルト独裁体制の維持と独裁権力者たちの私腹肥やし役立ったが、インドネシア国民の生活向上にさして役には立たなかった。軍事独裁国家ミャンマーに対しても日本は現在でも最大の援助国でありながら、ミャンマーの民主化には役立たず、却って軍事独裁権力強化にこそ役立っているのではないだろうか。
こういったことを無視・排除して「日本人を誇る、日本という国を誇る」というのは少なくともミャンマーの独裁体制下にある国民の不自由に胸を痛めている人間にはあまりにも単細胞、悪い冗談と映るに違いない。
ホンジュラスの日本の海外協力隊員による算数教科書の作成が現地の子どもたちの成績向上に役立ったという話にしても、それはそれで評価されるべき事柄だが、個別の成果であって、それを以て日本が関わっている援助事業全体の成果とするわけにはいかないはずである。そのことはたくさんの例があって然るべきだが、普遍性を持たせないまま「よく例に引く」個別性がよりよく証明していることである。)
福田「そうおっしゃるけど、それは過去のことで、これからどうするか。これから本当に誇れる国になるかどうかということが問題だと思う。私はどちらかと言うと、後者の方を取りたいと思う。そのために日本がどういうふうにすべきか、格好だけじゃダメで、中身が伴っていなければいけない。内容の充実化が必要だというふうに思っている。環境問題についても日本が先進的な立場で諸外国をリードするということが必要なんだと思う。そのため具体的な提案を私は用意しているけれども、部分的に用意しているけれども、そういうものを核にして諸政策を展開していきたいと思っている。そういうようなことで、同じ考え方では?」
――(ここで初めて福田康夫は全体的は装いやハコモノではなく、「中身」に言及している。全体的な装いでしかない日本人であることを誇ることよりも、一人ひとりが現に生き、活動している中身の姿に注意を払い、社会的なその充実度をこそ誇るべきだろう。)
麻生「質問ですか、今のは?」
福田「同じような考え方ですよね?」
麻生「誇れる国というのは常に今でも必要以上に自虐的な史観を私は持っておりませんし、そういった自虐史観に基づく考え方は私の哲学とは合わない。したがって誇れる国と思っていますし、今後とも誇れる国であるようにするというところが一番肝心なところだと私は基本的にそう思っている」
福田「誇れる国でいいですよ。これからの問題なんです。そういう意見が出るとすぐに自虐史観とか、そういうように切り捨ててしまうということにはやはり問題があるのではないかというように私は思うが、どうなのか」
――(麻生太郎は日本の歴史と伝統を金ピカに裏打ちした国家という全体的な装いを常に優先させた意識・考え方をここでも示している。「誇れる国」に異議を唱えてさえ、「自虐史観」と看做す。裏返すなら、日本の伝統と歴史、それらに培われた日本という国に絶対的価値を置いているからに他ならない。相対価値で把えていたなら、福田が言うように、「そういう意見が出るとすぐに自虐史観とか、そういうように切り捨ててしまう」といった極端な評価に走ることはないに違いない。)
麻生「私は自分の国を少なくとも私共親が習い、また私共幸いに学校から習った時期に於いて、そういう感じで自分の先祖、何となく明治、またその前に向かって、色々な脈々として続いてきた伝統というものは誇れるものだと、私はそう思っている。事実、それに立脚して全く過去60年前と60年以後を全く違う国かの如き話には私は組しない。従って、そういうものを前提にして伝統・歴史を伝統にして、それに立脚して今後どうやっていくかということを申し上げているのであって、今後もこれからも我々がつくり上げてきたそういったものを一つ一つ、紙芝居を例に引いたけれども、そういった例も含めて、今後とも土台の上に立ってという話をしております」
――(この件(くだり)も翻訳しづらいに違いない。
戦前の天皇絶対性を頭上に装った軍部独裁体制は明治・大正・昭和初期からの発展した政治体制、発展形であり、日本人が営々としてつくり上げた国家であり、国家体制だった。それは日本人がすべての時代を通して民族性としてきた集団主義・権威主義が最も先鋭的・暴力的な形で露礁した国家の姿であったはずである。つまり、江戸時代も明治も大正も戦前昭和も日本人がつくり出したそれぞれの時代であり、社会である。また戦後はアメリカの影響を受けたとはいえ、その影響下で日本人がつくり出した時代であり・社会である。日本が最も成功した社会主義国であると言われるのは、アメリカの自由主義・個人主義の影響を受けつつも日本人が民族性としている集団主義・権威主義から離れることができなかったことを証明している。社会主義国にしてもその基本的な国家経営原理、もしくは行動原理は集団主義・権威主義をルールとしていることから、日本人の似た者の行動性と響き合い、社会主義国の装いを取るに至ったということだろう。
同じ日本人がつくり出した戦後の時代、戦後の社会ということで、麻生の言うとおりに
決して「過去60年前と60年以後を全く違う国」ではない。珍しくまともなことを言っている。
下線部分の「紙芝居を例に引いたけれども」は、確か他のテレビで「昭和恐慌機に紙芝居を始めて不況を乗り切った日本人の優れたチエ」として称賛していたのを思い出した。これも個別的成果を全体的な成果と勘違いさせる詭弁の類だろう。
詳しく知ろうとインターネットで探すと、幸か不幸か麻生太郎のHPに遭遇した。そこに次のような件(くだり)を見つけた。
<「桃太郎、一寸法師、また浦島太郎等々、子供向けの物語があんなに早くからあった、という国は、ほかの国にはありません。
ちなみに大人向けの童話ではありますけれども、グリム童話集、あれは1812年が初版であります。19世紀に入ってから。
私はこれが文化の土台としてあったからこそ、昭和に入って大恐慌になったとき、私はある偉大な失業対策事業が全国に広まったんだと存じます。
何かといえば、紙芝居です。
失業者が手軽に出来る仕事でもありました。>(『たろうのひめくり 麻生太郎さんの講演』)
「グリム童話集」は「集」となっているから、時代的には遡った時代から、地理的には各方面から「集」められて「集」となしたことを意味しているはずである。そこで『大辞林』三省堂)で調べてみると、「グリム兄弟がドイツのヘッセンを中心に、民間の伝承を採取して編集した童話集」と出ている。「民間伝承」ということなら、麻生太郎の言う「子供向けの物語があんなに早くからあった、という国は、ほかの国にはありません」はたちまち合理性を失う。「グリム童話集、あれは1812年」以前から、遥か昔に溯って物語の形を取って語り継がれてきた童話も「グリム童話集」の中に存在する可能性も否定できないからだ。物語は人類が言葉を話す能力を持つと同時にそれがごく単純でごく短いストーリー、起承転結であっても作られるようになっただろうし、例え文字を持たなくても口承の形で言い伝えられてきたのである。
また旧約聖書には神々の、紀元前8世紀ごろの作だという『ホメロスの叙事詩』にはギリシャやトロイの英雄たちの活躍物語がたくさん語られている。親が子どもに読んで聞かせ、子どもの胸を躍らせたといったことは否定できない事実であろう。あるいは子ども向けに脚色した物語もできただろうことは容易に想像できる。と言うことは、「子供向けの物語があんなに早くからあった、という国は、ほかの国にはありません」は根拠のない優越感と化す。決めつけるところが麻生らしい単細胞と言えば「誇れる」単細胞と言える。
「偉大な失業対策事業」だったとする昭和初期の「紙芝居」にしても、『日本史広辞典』(山川出版社)によると、「昭和初期に出現し、香具師支配の飴売り行商のおまけとして街頭で演じられた。」と出ている。不況時代、失業した人間は労働時間ばかり長くて賃金の安い職業に流れていくものだが、紙芝居という職業も失業者を吸収したかもしれないが(日本が高度経済成長に差し掛かる頃だったと思うが、まだ朝鮮人差別が強く残っていてまともな就職先を探すのが困難だった時代、差別されて職業に就けない在日朝鮮人を我々は受け入れて、無差別に犯罪に走るのを防いでいると胸を張った暴力団の組長がいた)、香具師の支配下にあったことが事実とすると、「偉大な失業対策事業」と麻生が言う程に大層なものではないように思える。
有斐閣選書の『昭和史』は「恐慌下の国民生活」の章で、<大原社会問題研究所発行の『日本労働年鑑』(昭和6年発行)は1930年(昭和5)の「失業者の数が国勢調査の32万の3倍4倍を超ゆるであろうことは全く想像に難くない」と述べており、『エコノミスト』誌も30年の失業者を120万~130万人と推定している。>と言い、これは<6人に1人が失業者>に当たるとしている。また、農村出身の失業者の<農業への還流人口は年々25~30万人に及びながら、しかも農業から非農業への流出人口は、還流人口より年平均(1930~35年平均)13万7000人も多い。>と、農村が全体として農村出身失業者の吸収では納まらないことを解説している。にも関わらず、紙芝居を「偉大な失業対策事業」だっとする。一事の成果を以ってそれを全体の成果となすに等しいゴマカシ・詭弁の類だろう。)
福田「そういう話になってしまうと、現状をすべて認めてしまうというような感じになる。私は現状には色々問題がある。また将来を考える上に於いて、今までの考え方を大いに変えていかなければいけない、そういうような課題がたくさんあるわけで、むしろそういう課題がたくさんあるんだと、今の日本の現状をもっとよくしていこうと、こういう気持ちがなければ日本はよくならないのだというふうに思う。そして誇れる国になりたいというのは実際には妥当なんだというふうに思う」
――(福田康夫はあくまでも中身を問題としている。次期総理・総裁はよりまともな福田康夫ではなく、安倍晋三と同様に今の時代とズレている時代錯誤な国家主義者・麻生太郎になって欲しいが、その希望が打ち砕かれるのは時間の問題のようである。)
司会者から、マトメを3分間ずつ行うよう指示。
福田「現状は肯定したい。肯定したいけど、肯定し切れないところが今色々なところで出てきているわけで、例えば教育の問題にしてもそうです。地方の問題もそうです。そういうことをどうしていくかということが我々の課題と思っている。政治家というものは問題を解決するのが政治家なんです。問題を起こすのが政治家では、政治家の仕事ではない。だから、問題解決、その問題山程ある。いやになる程ある。それを一つ一つ着実に解決していく中で、国民との信頼というものが生まれてくる、というように思っているから、私はそういう方向に努力したいと思っている」
麻生「将来に対するところで、今は誇れる国か、今後とも誇れる国であり続けるかという話で、質問って言うか、福田候補から質問があって、ありました。私は基本的には今後とも、現在も私共は誇れる国なんだということに自信をもっと持つべきなんだと申し上げてきた。日本の底力とか色んな表現を使わしていただいた。1年前もこの言葉を使ったと思う。そういう意味では今我々に課せられている問題というのは少なくとも小泉改革・安倍改革の中で中長期的な方向は決して間違っていなかったと言うことはできると思う。ただそれによって短期的な話が今起きてきている。それが年金であったり、地域間格差であったり色んなところで問題が起きてきている。その問題を我々は長期的にではなくて、短期的な部分を今解決せねばならぬというのが、今の内閣に与えられている最大の仕事なのだと、我々はそう理解しているので、短期的なところだということだと申し上げております。そのためには信頼が必要と、当然のことです。そういった意味では私は今置かれている状況というものは決して絶望もしませんし、あまり悲観主義に陥ることもありません。我々はそういった過去、いくつかの難しい課題を潜り抜けてきたというチエと、そういったものをやってきたという歴史というものをもっと信頼をし、日本人に対する信頼というものをもっときっちりと持った上で、政治というものに取り組んでまいりたいというように思っています」(第1部終了)
――(相変わらず日本の伝統と歴史に優越的な価値を置き、それらを纏わせた日本という全体の姿・国に拘っている。今回の参議院選挙では「今置かれている状況」に「絶望」し、そのような絶望的状況をつくり出した自民党政治に嫌気が差して、投票を政治主体を変えるチャンスとして民主党やその他の野党に票が流れた。その結果の大敗であることを麻生太郎は健忘症にも忘れてしまったのか、少なくともそのことへの視点を持たない議論となっている。単細胞ゆえの気楽さからなのか。
麻生の話は「誇れる国日本」の開祖らしくいいことしか話さない。日本という国のいいところ、日本人のいいところに限られている。宗教の勧誘に似ている。かつて創価学会で会員獲得の方法として、既に会員となっている信者がハンドバックをひったくられた、南無妙法蓮華経と口の中で唱えると、踏切の遮断機が下りてひったくっていった男がそこから逃げられなくなり、ハンドバックを取り返すことができたとか、なかなかやめられなかったギャンブルが入信して一生懸命南無妙法蓮華経と唱えたお陰でギャンブルをやめることができた、アルコール依存症から抜け出ることができたと信心の効果だけを話す。次々と話す信心の効果を信じたなら、創価学会が万能の力を持った宗教に見えてくる。世の中に万能(=オールマイティ)なる仕掛けなど存在しないにも関わらず。麻生太郎の話はそういったいいこと尽くめに満ちている。)