時太山暴行死は親方の自律性(自立性)欠如が原因

2007-09-29 08:53:19 | Weblog

 自律性(自立性)は主体性・自主性を基盤とする

 大相撲の時津風部屋の力士、時太山(ときたいざん)が入門して2ヶ月の名古屋場所前の6月26日、愛知県犬山市内の宿舎で兄弟子たちから暴行を受けて17歳の若さで死亡した事件。9月26日(07年)の時事通信社のインターネット記事は次のように伝えている。

 ≪今も残る「制裁」=問われる角界の体質-時津風部屋暴行事件≫

 <大相撲の時津風部屋で6月に若手力士が死亡した問題は、師匠の時津風親方(元小結双津竜)らが刑事立件されるという異例の事態に発展する可能性が出てきた。死亡との直接の因果関係は別としても、角界の指導の在り方が厳しく問われそうだ。
 相撲部屋には「かわいがり」といって、特定の若手を集中的にしごく慣習がある。親方衆らによると、純粋に期待の若手を鍛える場合と、脱走や盗みなどの不始末をした者への制裁として行う場合があり、後者は辛抱の重要性や集団生活のルールを教え込むのが目的で、鉄拳や竹刀を振るうことも多いという。
 制裁は近年、減る傾向にあった。若い力士の心身がひ弱になったことや、アットホームな雰囲気の少人数の部屋が増えたこと、厳しい指導を望まない親が増えたことなどが理由だ。
 しかし、時太山の場合は、時津風親方らが再三の脱走を理由に挙げており、普段ならけいこが終わる時間帯に事故が起きている点などからも、何らかの制裁だったとみてよさそうだ。親方らの供述通りなら、ビール瓶で殴るなど、けいこの延長線上ではない暴行も加えられたことになる。
スポーツの世界では、しばしば「愛のムチ」が正当化されてきたが、こうした制裁の慣習が残る社会が、今の時代に受け入れられるのか。角界は「厳しさ」の意味を見詰め直す必要に迫られている。(了)>

 記事中の<若い力士の心身がひ弱になった>、<厳しい指導を望まない親が増えた>といった状況を同じ時事通信社の9月26日インターネット記事≪独自の調査、議論を=力士急死、スカウトにも影響-大相撲≫)が<「少し厳しくすると親に電話をかけ、親が迎えにくる力士がいる」「親から、訴えてやると言われた」>といった実態例で説明している。その結果<相撲部屋の指導はかつての面影がないほど甘くなり、有望力士が育ちにくくなった。>(同記事)と。

 だが、<辛抱の重要性や集団生活のルール>は人が教えて身につくものではなく、自らが学び取るべき資質であろう。例えば上位力士であっても、本場所中の取組みで不利な体勢を強いられて辛抱すべきところを辛抱しきれずにあれこれ仕掛けて裏目に出るといったことがよくあるが、それは辛抱が厳しい稽古に耐えるだけで身につくといった種類のものではないことから起きる。真の辛抱とは精神面の資質を言うはずである。

 厳しい稽古は肉体が許すなら受身の姿勢でも凌ぐことができることから、肉体面での耐性はついても、それが精神面の耐性につながる保証とはならない。要求されて示す肉体面での辛抱は単に肉体的に従うだけの形式を取るに過ぎない。

 「ああ、あの時もう少し辛抱すべきだったけど、つい焦って仕掛けてしまった」と後になって述懐する。弟子のときの竹刀やあるいはビール瓶で殴られた訓練が辛抱の育みに効果がなかったことの証明でもある。

 また<集団生活のルール>にしても、自分から学び取ったものではない規範は状況次第で簡単に崩れる。

 事件は9月26日のasahi.com記事≪時津風親方を立件へ 力士急死巡り傷害容疑 愛知県警≫を見ると、さらに詳しく知ることができる。

 <県警は、親方や同部屋の力士ら関係者から、任意で事情を聴取。死亡前日の25日午前、斉藤さんは部屋を逃げ出そうとして兄弟子らに連れ戻された。こうした斉藤さんの態度に腹を立てた親方が、力士らとの夕食の席上、ビール瓶で斉藤さんの額を殴り、切り傷を負わせていたことがわかった。その後、けいこ場の裏手で兄弟子数人が斉藤さんを取り囲み、数十分にわたって殴るけるの暴行を加えたことも、親方らは認めているという。
 26日は午前7時半ごろからけいこの予定だったが、斉藤さんは起きてこず、午前11時10分ごろ兄弟子とぶつかりげいこを開始。約30分後に土俵上で倒れたが、119番通報がされたのは午後0時50分ごろで、それまでは近くの通路に寝かされていたという。>

 「かわいがる」という名のもとの制裁で時太山が受けた傷を9月26日のライブドアニュース≪[時津風親方]「通常のけいこ」一転 遺族に暴行認める≫)で見てみると、<今年6月26日深夜、亡くなった愛知県犬山市のけいこ場から自宅に運ばれた斉藤さんの遺体の傷を目にして、遺族は言葉を失った。割れた額、腫れ上がった顔、全身に無数のあざ、足にたばこを押しつけたような複数の跡――。
 無残な遺体を前に、時津風親方は「通常のけいこだった」と遺族に説明した。正人さんは「普通のけいこじゃないと思った。あれじゃ幕内力士でも死んでしまう。相撲のけいこの名の下に殺されたんだ」。抗議したが、親方の説明は変わらなかった。
 しかし8月6日、時津風親方は斉藤家を訪れ、一転して正人さんら遺族に自分や弟子の暴行を認めたという。>と伝えている。

 9月27早朝の「日テレ24」は時津風親方へのインタビューを伝えている。「大事な子どもを死なせるようなことは私はしませんよ、正直言って。何がいけないって言われてもですね、正直言って、今答えようがないですよ。別に普通どおりっていう頭ありましたんで・・・・」

 「正直言って」と言う言葉が如何に当てにならないことか。

 <一転して正人さんら遺族に自分や弟子の暴行を認めた>のは警察の取り調べですべて認めることになったからだろう。最初の「大事な子どもを死なせるようなことは私はしませんよ」という態度から判断すると、散々に追及されて、認めざるを得ない状況に追い込まれた挙句の自白だったに違いない。死亡した後、時津風親方は葬式はこちらに任せてくれと親に言い、親が断って遺体を引き取って体の傷に気づいたことから、証拠隠滅のために自分の方で火葬に付そうとした疑いまで出ている。何という性悪。

 上記「ライブドアニュース」が「元NHKアナウンサーで相撲ジャーナリストの杉山邦博さんの話」なるものを伝えている。

 「極めて残念だ。相撲の世界は厳しさの中にも師弟関係を大事にし、激しい稽古の中で時に良かれと思って厳しく指導することは過去にもあった。まれに竹刀などを使って厳しく指導した場合もあったが、当然、度を超してはいけない。今回はその範囲を超えて、ある種の制裁的なこともあったやに聞いている。厳しさが求められる勝負の世界で、過保護の時代を反映してややもすると指導が甘すぎるという批判もあるが、だからといって今回のようなことは決してあってはならない。協会も大切な子どもさんを預かっているのだから、配慮の行き届いた指導が望まれる」

 16、7歳の少年を「子どもさん」と言う感覚。例え主体性・自主性を備えていなければならない一個の人間と見ることができない程に人間的に幼稚であったとしても、一個の人間と扱うことで、相手に個の意識を自覚させることができる。相手が未成年者の下の者であっても、一個の人間と見ることができない〝幼稚さ〟が杉山某にはある。

 テレビや新聞、それに相撲ジャーナリストの杉山某が言うように暴行死は単に厳しい指導が度を越したといった問題なのだろうか。「過保護の時代を反映してややもすると指導が甘すぎるという」状況を快く思っていなくて、そのことへの「批判」から生じた、指導は厳しさを以って旨となすの「かわいがり」がついエスカレートして「かわいがり」過ぎて死なせてしまったといった事柄なのだろうか。

 このような論理は時太山が「再三」部屋から逃げ出し、親に説得されて親と共に部屋に戻り、親共々親方に謝罪の頭を下げているイキサツから、強い力士に育てる必要条件としての厳しい指導に対して、そのような厳しい指導を生理的に受け付けない今の若者の柔な資質とのミスマッチが引き起こした予期しない行き過ぎだったで片付けることになりかねない。

 日本人は大相撲に限らず、ハードトレーニング、スパルタ式トレーニングを好む。民族性から来ているのだろう。それが許される状況にあるなら、体罰まで加えてハードな練習を課す。現在の時代的に許されない状況下でも、時折り体罰まがいの練習や直接的な体罰そのものが露見して、問題となることがある。試合に負けて、たるんでいる、緊張感がなかった、勝とうという意欲がなかった、格下のチームに負けてだらしがないと言って、試合後に殴ったり、あるいは運動場を何周という制裁のための過度なランニングを強制したりする。
 
 このような構図から窺えることは、監督が選手に、大相撲で言うなら、親方が弟子にすべてを任せることができない姿がそこにあるということではないだろうか。上達するもしないも本人次第、試合(取組み)に勝つも負けるも本人の意欲・気力次第だと任せる。任せる厳しさと任せられて自分で一つ一つ解決していかなければならない厳しさがぶつかり合って、そこに技術的な強さと精神面の強さが生まれてくるのではないのだろうか。

 そもそもからして制裁・体罰の類はそれを加えられる側が内心は反発していたとしても受容する姿勢にあるときに成立する。いわば体罰を加える側と加えられる側が支配と被支配の関係(言うことを聞かす者と言うことを聞く者との関係)にあることを条件としている。ハードトレーニング、あるいは厳しい稽古にしても、指導する側と指導される側が言うことを聞かすことと言うことを聞くことという支配と被支配の関係になければ、成立しない。

 支配と被支配の関係は相互に自律(自立)していない関係を言う。上が下を従わせ、下が上に従う権威主義を両者間の行動力学としているからだ。

 支配が厳しい稽古やハードな練習によって強まれば強まるほど、相互の自律(自立)性は狭まっていく。指導する側が指導を受ける側にすべてを任せることができないから、自らの自律性(自立性)を自ら狭めて指導という支配を強め、その支配を受け入れることによって、指導を受ける側も自らの自律性(自立性)を狭めていく。言ってみれば、指導や練習を厳しく要求すればする程、自律性(自立性)は相互縮小が進む。

 大相撲で言うなら、親方が自律(自立)していないから、弟子の稽古に口出ししないでいられず、親方の非自律(自立)性を受けて、弟子も自律(自立)できない関係となっているということではないだろうか。

 一通りの稽古方法を教えて、あとは足りないところをああしたらいいじゃないのか、こうしたらいいじゃないかといったアドバイス程度にとどめて、強い相撲取りになるもならないも本人の努力次第だと、その自律性(自立性)に任せることができない。自律性(自立性)とは反対の支配意志が働き、指導という名のもとにあれこれと厳しく世話を焼く、あるいは「かわいがる」という名目で稽古を利用して兄弟子たちに弟弟子を痛めつけさせる。

 自律(自立)していないから親方にしても兄弟子にしても下の者に対する指導という名の命令・支配でしか自己の力、自己存在を証明できない。

 今の若者は我慢強くない。飽きっぽい、ひ弱だという先入観――これも本人の自律性(自立性)に任せることができない支配意志を生じせしめる原因となっている。

 「Sankei Web」の9月26日の記事≪相撲部屋の聖域、けいこ場にメス “愛のむち”逸脱?≫、<大相撲におけるけいこの厳しさは、昔からの伝統だ。親方や兄弟子が竹刀で殴るのはよくあることで、力士が血を流し、気絶寸前の状態になることも、相撲部屋では少なからず見られる。
 ただ、その過程で一人の尊い命が失われたとなれば話は全くの別問題だ。
 “制裁”と“愛のむち”を混同してはならない。>は、<その過程で一人の尊い命が失われ>なければ、<昔からの伝統だ>だ、<“愛のむち”>なら許せるとしている。親方や兄弟子たちの下の者たちに対する任せることのできない典型例を図らずも示している。

 相撲協会(北の湖理事長)が<警察の捜査を理由に協会としては独自には調べないことと、身内による「力士指導に関する検討委員会」を設置する方針を決めた>ことに対して、文科省が<①自ら真相究明して必要な処分をする②過去の類似例を検証し、再発防止策を検討する③協会の「力士指導に関する検討委員会」に外部の識者を加える――ように指導した。>(9月29日『朝日』朝刊≪相撲協会に文科省指導 力士急死の究明求める≫)という関係は、自分たち協会の問題、大相撲の問題なのに自らは主体的・自主的に動かない姿勢であったにも関わらず文科省の指導で動くのは文科省の支配を受けることを意味し、このことはそのまま相撲協会の非自律性(自立性)を証拠立てる文科省と相撲協会の支配と被支配の関係であろう。

 【支配】「意志・命令・運動などが、ほかの人間や物事を規定し束縛すること」(『大辞林』三省堂)

 身体ばかり大きくても、大人になり切れていないと言うことである。この場合の大人とは単に年齢的に成長した人間のことを言うのではなく、主体性・自主性と響き合わせた自律性(自立性)を備えるに至った人間のことを言う。

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