子ども達の言語力低下に力を貸す麻生の『漫画の殿堂』117億円

2009-05-26 14:25:03 | Weblog

 事業費117億円で09年度補正予算案に盛り込み、文化庁所管で設立構想されている「国立メディア芸術総合センター(仮称)」を野党はムダ遣い・バラ撒きの「漫画の殿堂」と揶揄・批判。マンガ好きで、自らマンガの読書量を誇り、その努力の甲斐があって、自らの知性をマンガで染めている日本のマンガチック総理大臣・麻生太郎は勿論のこと、マンガを貶(けな)されたのだから、野党のバラ撒き・ムダ遣い批判に反論。

 「メディア芸術の分野はわれわれが思っている以上に国際的評価は高い。日本のソフトパワーをきちんと評価すべきだ」(≪麻生首相「漫画の殿堂」批判に反論≫スポニチ/ 2009年05月21日 21:12)

 文化庁HP、≪メディア芸術の国際的な拠点の整備について≫
で『メディア芸術の国際的な拠点の整備について』、いわゆる「国立メディア芸術総合センター(仮称)」について次のように紹介している。

 <「メディア芸術」とは、映画マンガアニメーションCGアートゲーム電子機器等を利用した新しい分野の芸術の総称です。

 1997年以来、文化庁主催で「文化庁メディア芸術祭」を毎年開催、(2009年)2月に開催された「第12回文化庁メディア芸術祭」においては、「アート」「エンターテインメント」「アニメーション」「マンガ」の4部門合計で2,146作品の応募があり、うち、外国からは、43カ国・地域より512作品の応募がありました。
 
 今日「文化庁メディア芸術祭」は、世界のクリエーターの登龍門として着実に実績を積み上げています。

 本年の「アニメーション部門」の大賞を受賞した「つみきのいえ」(加藤久仁生監督)は、その直後に、映画「おくりびと」とともに米国アカデミー賞を受賞(短編アニメーション賞)し、映画・アニメーションなど日本のメディア芸術が高く評価されたことは記憶に新しいところです。

 メディア芸術祭は,年に1回2週間程度の開催期間に過ぎず、国際的な評価や関心は高まってきているにもかかわらず、国内においていつでも観ることができる施設はありません。

 また、国内に点在する既存のメディア芸術関連施設は、それぞれ独自の取組を進めており、相互の情報の集約・発信や連携協力を図る中核的な機能を果たす拠点が求められています。

 さらに、現在は世界的に親しまれている我が国のメディア芸術を、今後もその強みを維持していくためには、この分野の人材育成や調査研究を推進していく拠点が必要となっています。

 このことから,本年(2009年)4月に,文化庁「メディア芸術の国際的な拠点の整備に関する検討会」において,これまでの「文化庁メディア芸術祭」などの成果の蓄積を踏まえて,メディア芸術に関する国際的な拠点の整備を求める報告書がとりまとめられました。>云々――

 「アート」、「エンターテインメント」、「アニメーション」、「マンガ」の4部門の作品を世界から募集して「文化庁メディア芸術祭」を開催するまでは結構毛だらけ、猫灰だらけである。

 最初にひっかかったことは、「新しい分野の芸術」としての「メディア芸術」の中に映画、マンガを持ってきて、「国立メディア芸術総合センター(仮称)」の展示品目としていることである。両者は従来的な芸術・文化の類だと思うのだが、そうではないのだろうか。しかも、最初に持ってきている。

 大体からして文化庁主催の「文化庁メディア芸術祭」は「アート」「エンターテインメント」「アニメーション」「マンガ」の4部門に限られていた。だが、4部門に付け加えて、「国立メディア芸術総合センター」は新たに「映画」を付け加えようとしている。

 アニメーション「つみきのいえ」と映画「おくりびと」を例に挙げて、日本のメディア芸術が高く評価されているとしているが、アニメーションの場合は宮崎駿監督のいくつかとその他のアニメーションがここ暫くの間は世界的に高い評価を受けている。映画の場合は散発的にではあっても、恒常的に高い評価を受けているというわけではあるまい。

 「アニメーション、CGアート、ゲーム」等を「新しい文野の芸術」の仲間に入れるのは理解できる。アニメーション自体はかなり歴史を経ているが、コンピューターグラフィックス(CG)と合体させた新しい形式のアニメーションへと発展していているから、「新しい文野の芸術」としたに違いない。

 マンガも最近は線描・色づけ共にコンピューターで仕上げる作家が増えていると言うことだが、例えCGソフトを利用して人物や事物を描いたとしても、仕上がった作品自体はコンピューターの関与を残さない昔ながらの静止画の仕様となっていて、デジタルアートとは言い難い。

 パソコンの文章作成ソフトを使って小説を書き、それを印刷した作品をデジタル小説と言わないと同じであろう。「アート」、「エンターテインメント」、「アニメーション」、「マンガ」の4部門だけ集めて「国立メディア芸術総合センター」と銘打つには内容不足があるから、映画を付け加えて盛り沢山とし、正当性を持たせようとしたということだろうか。

 「国立メディア芸術総合センター」を正当づけることができると、「新しい文野の芸術」の範疇に入れ難いマンガにもその正当性が逆照射して、それらしく正当性を纏わせることが可能となる。

 当然、マンガが大好きで肩入れしている麻生首相の顔を立てることもできるし、出番を作ることもできる。

 「文化庁メディア芸術祭」が主催し、「アート」、「エンターテインメント」、「アニメーション」、「マンガ」の4部門でどのような作品を優秀作品としているか見ることによって、この芸術祭の趣旨・性格を窺うことができる。昨08年第12回の各部門の優秀作品だけを取り上げてみる。

 上記文化庁HP、≪メディア芸術の国際的な拠点の整備について≫では、「(2009年)2月に開催された「第12回文化庁メディア芸術祭」においては」と言い、「本年の『アニメーション部門』の大賞を受賞した『つみきのいえ」(加藤久仁生監督)となっているが、同じ文化庁のHP≪平成20年度(第12回)文化庁メディア芸術祭 受賞作品 文化庁メディア芸術プラザ≫では「20年度受賞作品」となっている。

 まず、「アート部門」はMarcio AMBROSIOなる人物の『Oups!』という作品が「大賞」作品となっている。テレビ画面をさらに大きくした大型のスクリーンの前で人物が踊るように手足、腰を動かすと、その姿がスクリーンに映し出されて同じ動きをすると同時に、その人物が跳び上がると、CG操作によるものだろう、画面の人物の腰の左右に火花を吹くロケットエンジンが現れ、人物がロケットのようにとび上がって見えたり、子どもが腰をぐるぐるまわすと、回転するレコード盤が現れて、その上で腰をまわしているように見え、子どもが腰を止めるとレコードの回転も止まるといった構成のアニメーションとなっている。私は芸術的センスがゼロだから、ちょっと気の利いた作品にしか思えなかったが、少なくとも大衆受けする作品には見えなかった。HP「文化庁メディア芸術プラザ」でその動画を見ることができる。
 
 「エンターテインメント部門」は岩井俊雄なる人物がヤマハと共同で制作した電子楽器「TENORI-ON」が受賞している。「Yue-Tube」で紹介しているが、30センチ四方程度の矩形の板にボタンが相当数ついていて、それを様々に押すと様々に演奏を奏でる。電子音ではあっても、リズム・音色共に素晴らしい。

 この電子楽器が「エンターテインメント部門」で優れているとの評価を受けたと言うことは、「エンターテインメント」とは娯楽を意味する英語なのだから、楽器としての“つくり”以上に、娯楽の道具とするには最適の楽器だとの紹介をしたということではないだろうか。

 一昨年の07年第11回の「エンターテインメント部門」は任天堂のWii Sportsが受賞しているが、部屋でWiiリモコンを手に握ってテニス・ベースボール・ゴルフ・ボウリング・ボクシングの5種類のスポーツに限って実際の競技に近い動きで動かすと、ゲーム場面に競技の模様が映し出されて、実際に自分がプレーしているような臨場感を味わえるというテレビゲームらしいが、このことも娯楽性の優秀さ、適合性を評価したものであろう。

 「アニメーション部門」は最初に紹介してあった、日本初となるアカデミー賞短編アニメーション賞を受賞したという加藤久仁生監督の「つみきのいえ」である。海面上昇に伴い上へ上へと建て増しされていく家に、たった一人で暮らす老人が馳せる「家族」への思いを描き12分の短編アニメ作品だそうだ。

 「マンガ部門」は一色まこと作「ピアノの森」

 <町外れの「ピアノの森」で育った少年カイの物語。はじめは楽譜すら読めないカイが周囲を取り巻く人々によりピアニストとしての才能を開花させていく過程を描いている。>と「Wikipedia」が紹介している。

 つまり「文化庁メディア芸術祭」が毎年取り上げてきた開催テーマに連なる優れた作品を事業費117億円もかけて取り上げ、まだ仮称だが、「国立メディア芸術総合センター」なる施設を造って、誰もがいつでも観ることができると同時にそこに国内に点在する既存のメディア芸術関連施設がそれぞれに独自に発信してきた情報を集約・発信・相互連携形成の中核的機能を担わせ、尚且つメディア芸術分野の人材育成や調査研究を推進していく拠点とする。

 だがである、メディア芸術分野の人材育成や調査研究は文科系、あるいは芸術科系の大学、専門学校が既に行っていることで、それぞれに足りないところに補助金を出せば済むことで、官が上の立場に立って関与することになったなら、それぞれが持つ発想・意識にある種の枠をはめ込むことにならないだろうか。

 例えば安倍晋三と並び立つ国家主義者自民党議員稲田朋美が今年の2月12日に中国人監督のドキュメンタリー映画『靖国 YASUKUNI』の内容を確認したいと文化庁に申し出て、国会議員に特別試写を行うこととなったが、稲田は「靖国神社が、侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージを感じた、反日的だ」と御託宣。この映画製作に日本国行政機関である文化庁管轄の独立行政法人「日本芸術文化振興会」が750万円補助したことを問題視、3月4月に右翼が街宣車を繰り出して騒ぎ出し、各映画館が相次いで上映自粛に出たが、文化庁は自民党国家主義議員の批判や口出しを恐れて、彼らの政治思想に抵触する人材や作品を敬遠するという枠をはめることになる恐れは十分にある。

 少なくとも映画『靖国 YASUKUNI』の思想・テーマに相通じる映画・アート・エンターテインメント・アニメーション・マンガの類は排除を受けることになることを教えている。

 また「msn産経」記事(≪安倍、町村氏らがNHK番組を批判「偏っている」≫/2009.4.23 22:53 )によると、今年の4月には日本の台湾統治を取り上げたNHKスペシャル『アジアの“一等国”』を狙い打ちして、自民党右翼議員、お馴染みの稲田朋美は「台湾は李登輝元総統など親日家が多いのに番組は反日の部分だけを偏向して報じた」

 同じく右翼議員安倍晋三「週刊新潮も取り上げたが、番組はひどすぎる。関心を持ってこのシリーズを見てほしい」との呼びかけを行った。

 これは言葉の圧力・干渉の類だろう。

 <中山成彬(なりあき)元文部科学相も記者団に、自らが会長を務める議連「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」としてNHKへ公開質問状を出す意向を示した。>――

 この例はこれまでの例と同様に戦前の日本の国家的過ちを指摘すると批判を受けるという教訓を与えるもので、批判の対象となり、排除されると分かっている人材側も自分たちの方から近づくまいとして、結果として思想的に無難な作品、あるいは思想的に無色の作品のみの情報の集約・発信・相互連携形成の中核的機能と化しやすくなる。

 このことを言葉を違えて言うと、責任を取らなくてもいい、政治色のない娯楽一辺倒の作品のみを扱う無難を優先させたお役所仕事の施設となりがちとなるということになる。そうなった場合、「国内においていつでも観ることができる施設」と言っても、主として小・中・高生が修学旅行で立ち寄る目玉施設として最も役に立つ場となりかねない。117億もかけて。

 修学旅行訪問の定番施設となった場合、問題は別にも生じる。麻生の言うように「メディア芸術の分野はわれわれが思っている以上に国際的評価は高い。日本のソフトパワーをきちんと評価すべきだ」としても、国が映画・アート・エンターテインメント・アニメーション・マンガの文化を突出させた場合、一頃言われていたテレビばかり見ていて、最近の子どもは本を読まなくなったという社会風潮のテレビ原因説を転移・増殖させる決定的要因とならないだろうか。

 本離れ・読書離れ・活字離れはテレビだけが原因ではない。テレビの中にはアニメーションも入る。そしてテレビゲーム、最近では携帯メール等への依存へと原因が転移・増殖し、一段と子どもたちの文化・教養の劣化を招いている。

 そこへきて、子どもたちが修学旅行等で大挙して「国立メディア芸術総合センター」を訪れる。その賑わいに麻生太郎が、そら見ろ、と手を叩いて喜んだとしても、そこで子どもたちが目を輝かせた分、なお一層のこと子どもたちを書物から、読書から、活字から遠ざけることになるキッカケとならないだろうか。

 既に前倒し実施を始めている学校もある小・中学校の11年度開始新学習指導要領は全教科で「言語力」育成を図る内容となっているということだが、マンガ・アニメーション・テレビゲーム・携帯メール等々で簡単な短い言葉に慣らされ、軽薄短小文化を血とし、肉としているところへ持ってきて、麻生の117億円「国立メディア芸術総合センター」でなお色濃く肉付けされた子どもたちが果して拒絶反応もなく新学習指導要領「言語力」育成についていけるだろうか。

 かつてのマンガブームは大学生までが本を読まなくなった、電車の中でもマンガを読んでいるといった現象にまで年代的に広範囲化し、そのことを裏合わせとしたマンガ流行現象だった。日本の総理大臣麻生太郎が国会という公の場で常識的な漢字の読みを平気で間違えるのも、マンガ好きでマンガばかり読んでいることと無関係ではあるまい。アメリカの首都の名前も知らず、ロシアという国が世界地図でどこを占めているのか指差すこともできない若者が少なくないのも、マンガやアニメーション、テレビゲーム、携帯メール嗜好の裏返しとしてある現象であろう。

 それらが招いている本離れ・読書離れ・活字離れが強いることとなった現象なのは間違いない。

 言葉のセンテンスが短くなり、言葉遣いが常套句化して、幼稚となっているのも、携帯メールに応用するには好都合であっても、マンガ嗜好と無関係ではあるまい。

 だからこその11年度新学習指導要領「言語力」育成なのだろうが、そのことには無頓着に麻生太郎は日本人の精神を麻生そっくりのマンガ頭脳としようとしている。彼らの精神を麻生太郎が脳ミソとしているマンガ知性で色づけようとしている。

 かなり前のブログに書いたことだが、小泉政権下の03年の「情報通信白書」は、「IT 日本は世界を先導、トップ水準」(03年7月4日『朝日』夕刊)と大体的に謳っていた。

 <携帯電話や携帯端末の普及により、米国が先導してきたパソコン中心の情報技術(IT)の拡大は『限界を露呈している』とする一方、日本が追いつく段階から先導役に移行しつつあると指摘。携帯端末などを通じて、どこでもインターネットに接続できる『ユビキタス』分野で、日本が世界をリードしていく必要があると主張している。>云々――

 ところがそれから6年、「日本が世界をリードしていく」どころか、その携帯たるや、小中高校生には有害なものとして所持禁止にしろだ、有害サイトアクセス規制だと大騒ぎとなっている。携帯を使ったいじめも問題化している。

 マンガ、アニメ、テレビゲーム、携帯と段階を経てつながってきた果ての教養・文化の劣化、精神の劣化のはずだが、麻生太郎はなおマンガ文化・マンガ知性に拘っている。良貨を与えてて悪貨を駆逐すると言うだろうが、人間は悪貨ほど染まりやすい。麻生のマンガ知性も良貨を素材に育てた知性・教養だとは言えまい。悪貨育ちだからこそ、国会で平気で言葉の読みを間違え、「医師は社会的常識に欠ける」といった失言を平気で口にすることができる。

 以上のことから考えると、文化庁は「文化庁メディア芸術祭」毎年開催で満足しておくべきではないだろうか。麻生が主張している「メディア芸術の分野はわれわれが思っている以上に国際的評価は高い。日本のソフトパワーをきちんと評価すべきだ」の「きちんと評価すべきだ」は各コンクールの選者や批評家、あるいはテレビや映画を通じて判断することとなる個人の嗜好・感性に任せればいい。創造力に任せればいい。

 今までもそうしてきた。117億円も費やす必要はない。まさしく民主党や他の野党が批判するようにバラ撒き・ムダ遣い以外の何ものでもない。

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