郵貯資金で介護等の社会保障にまわす国家ファンドを設立できないものだろうか

2010-04-07 04:34:55 | Weblog

   ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを――

 郵便貯金の預入れ限度額を1000万円から2000万円に引き上げ、簡保の保険金上限額を1300万円から2500万円に引き上げる。〈「暗黙の政府保証」がついた郵貯・簡保に民間から資金が流入するのは避けられそうにない。〉と《公共事業?国家ファンド? 郵貯マネーの使い道に閣内騒然…》msn産経/2010/03/31 19:37)が他のマスコミと同様の懸念を示している。

 懸念は一つでとどまらない。〈郵貯マネーの増加は家計の資産を政府が吸い上げる結果となり、「官の肥大化」につながるとの懸念も指摘されている。〉と解説している。

 記事は政府が吸い上げた郵貯マネーの「使い道」が早くも閣内で議論の的となっていると書いている。

 先ずは鳩山首相。

 鳩山首相「国債の単なる引受機関にはしない。地域金融機関と共存共栄できる状況を作りたい」

 これは従来からの〈国債に依存していた運用を見直し、地域活性化に役立てる運用方法を検討する方針を示した〉ものだそうだ。

 但し、具体的中身の指摘はない。
 
 亀井静香郵政改革相(民放の番組で)「太陽光発電とか(道路の)立体交差とか電線の地中化などに郵貯の金を出していけばいい」

 公共事業信仰者らしく公共事業等への活用を訴えている。

 前原誠司国土交通相(郵貯マネーで国家ファンドを立ち上げて)「海外の発電所や高速鉄道など、インフラ輸出の資金として活用できないか」

 記事は批判も取り上げている。

 大村敬一・早稲田大学大学院教授(元内閣府審議官)「郵貯や簡保が家計の資金を集め、それが政府支出に充てられるなら、財政投融資の形で公的投資に使われていた時代に先祖返りすることになる」

 郵便貯金や年金積立金等の資金を国が預託を受け、道路公団等の特殊法人に2001年3月まで融資、特殊法人は自分が集めたのではない潤沢な資金ゆえに糸目をつけない大型公共事業等にコスト意識なく投資、役員の高額な人件費にまで有効活用、官僚OBの優雅な天下りを支えてきた。

 尤も預託廃止後も天下りは官僚たちの既得権としてのさばり続けた。

 「先祖返り」は勿論許すことはできないが、前原国交相が言うように郵貯マネーで国家ファンドを立ち上げて海外の発電所や高速鉄道等、インフラ輸出の資金として活用できるなら、同じ国家ファンドでも国内外で資金を運用、その利益を介護や医療に限った社会保障関係の資金にまわすことも可能なはずだが、そうではないだろうか。

 記事は〈郵便貯金と簡易保険をあわせた資金は計300兆円〉と書いている。すべてではないにしても、相当規模の国家ファンドを立ち上げることができる。

 家計資産を政府が吸い上げて「官の肥大化」を同じ招くとしても、介護や医療等の社会保障関係の「官の肥大化」はそこに天下りや高額人件費、杜撰経営といった不適切な要素を入り込ませさえしなければ、批判される国の関与ではないと思うが。

 偉大なまでに頭の古い政治家亀井静香は「太陽光発電とか(道路の)立体交差とか電線の地中化などに郵貯の金を出していけばいい」と言っているが、5日付の「asahi.com」記事を見ると、「立体交差とか電線の地中化」などよりも社会的にやらなければならないもっと重要なことがあるのではないだろうかという思いに駆られる。 
 
 《民家に70代と40代の女性遺体、親子か 福岡》(2010年4月5日23時50分)

 5日午後1時半ごろ、福岡県小郡市上西鰺坂の民家で、女性2人が死亡しているのを県警小郡署員が発見した。同署はこの家に住んでいた70代女性と40代の娘とみて身元を確認している。

 同署によると、3月末に近くの住人から市役所に「1カ月くらい前から2人の姿を見ていない。郵便物もたまっており確認してほしい」と連絡があり、署員がこの日、市職員と確認に行ったという。年長とみられる遺体の方は一部が腐乱していた。もう1人のは左手首に切り傷があり、周りに包丁や薬があった。この家は親子2人暮らしで、足が不自由な母親を視覚障害がある娘が介護していたという。同署は、母親が死亡後、娘が自殺した可能性もあるとみて調べている。

 「1カ月くらい前から2人の姿を見ていない」にも関わらず、その間近所で話し合って自分たちで訪れてみるといったことはしなかった。

 日本の社会は「老いた親は家族が面倒見るのが日本のよき伝統だ」の意識的・無意識的な押しつけのもと、多くの要介護者や介護者を孤立させ、介護疲れからの殺人や嘱託殺人などの悲劇を生んでいる。社会の一員としての可能な限りの生活を送ることができるよう、手を差し伸べる社会関係が不足しているように思える。
  
 「立体交差とか電線の地中化」を日本全国果たして町並みを綺麗さっぱりさせたとしても、身体が不自由で寝たきりの年老いた親を歳のいった介護の子どもが介護疲れから無理心中を図るような風景を日本の社会に残していたなら、どれ程意味があるのだろうか。

 「コンクリートから人へ」の目的達成ではなく、「コンクリート」の達成で終わることになる。

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