鳩山首相の「桜を見る会」挨拶、勘違いしていないか

2010-04-18 06:03:53 | Weblog

   

 鳩山首相が昨17日午前、東京都新宿区・新宿御苑で「桜を見る会」を催したという。そこでの挨拶。《首相“桜の花を咲かせたい”》NHK/10年4月17日 12時59分)

 鳩山首相「桜も雪も見られるたいへんな日になった。人生の晴れたとき、人は集まってくるが、いったん人生に雨が降ると、いなくなってしまう。雨のときに集まってくれる友こそ真の友であり、皆さんは鳩山政権の『雨天の友』だ」

 「桜の花が、『寒いときこそ頑張らなければ』と美しさを競って咲いている。新政権も現在、厳しい状況を迎えているが、改革の志を持って、時計の針を大きく前に進め、新しい時代にふさわしい桜の花を咲かせたい。新しい日本づくりのために頑張ることを誓いたい」

 〈会場には、各界から招かれたおよそ1万人が訪れ、鳩山総理大臣は、元プロテニスプレーヤーの杉山愛さんや大相撲の大関・把瑠都関らと握手をしたり、記念撮影をしたりしてい〉たという。

 「皆さんは鳩山政権の『雨天の友』」だったから、首相は終始ご機嫌だったに違いない。

 「雨のときに集まってくれる友こそ真の友であ」ると言っているが、一国の総理大臣が“友”とすべき対象は招待を受けたからと各界から集まった「1万人」なのか、総理大臣の椅子を最終的に約束し、その政治的能力の評価を最終的に下す有権者(=国民)なのだろうか。

 一国の総理大臣は国会で各党議員を相手に政治を行いながら、常に国民と対峙している。一国の政治は国民のためにあり、国民のためにするからだ。当然、最終評価は国民の手にある。いわば如何に国民を“友”とするかにその政治的力量はかかっている。

 雨が降ろうが降るまいが、集まってくる国民が存在してこそ、初めて有能な総理大臣であることの証明となる

 それを「桜を見る会」に招待を受けたからとある意味当然集まってくる、いわば招待を動機として集まった各界からの「1万人」のみを相手に「雨のときに集まってくれる友こそ真の友」だと言っている。

 あるいは視野を国全体、国民全体に置くべきを招待客の「1万人」のみに置いて、“友”か否かを悲壮感すら漂わせて語っている。

 大いなる勘違い以外の何ものでもあるまい。

 例えそこに比喩的な意味を持たせていたとしても、集まる集まらないは、あるいは“友”となる、ならないは本質的には相手が問題ではなく、自身の能力や人柄に関わる問題であろう。

 例えばカネをたくさん持っていたときは友人がたくさん集まってきたが、財産を失い、一文無しになると、一人去り、二人去りして、すべての人間が去っていった。去っていった人間を薄情だと非難することはできるが、実際はカネの関係しか築くことができなかった本人の人柄や人間性こそ問題にしなければならないはずだ。カネが友人をつくる力となっていたに過ぎなかったということだからだ。

 それを鳩山首相は、「いったん人生に雨が降ると、いなくなってしまう」人間を否定的に評価し、「雨のときに集まってくれる」人間を肯定的に評価しているが、そのような状況をつくり出す自身の資質は一切問題にしていない。

 この点でも鳩山首相は大いなる勘違いを犯している。

 政権発足から7ヶ月かそこらで発足当初と比較して国民の支持を急激に失った。鳩山首相から見たら、「人生に雨が降」った状況であろう。多くの国民が「いなくなってしまう」支持状況に立たされた。

 「いなくなってしま」った国民が問題なのか、そういう状況をつくり出した鳩山首相に問題があるのか。

 「桜を見る会」の挨拶からすると、鳩山首相は自身を問題とせずに国民を問題にしている。
 
 一国の総理大臣としての指導力や政策実現能力は「雨のときに集まってくれる」「真の友」「雨天の友」たる「各界から招かれたおよそ1万人」に納得させていたとしても、そのことを以て支持を失って「いなくなってしまう」大多数の国民に対する納得を補うことはできないはずだ。

 鳩山首相を見ていると、「政治は結果責任」という言葉が常に頭の中に入っていないように見える。少々認識が甘いのではないのか。文学的言辞に浸っている場合ではないはずだ。

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