鳩山首相の発言に見る信念とぶれの支離滅裂な関係

2010-04-25 06:07:56 | Weblog

   

 岡田外相が23日にルース駐日米大使と米大使館で会談、米軍普天間基地の移設問題で2006年に日米が合意した現行案を微修正する形で沖縄県名護市辺野古への移設受入れを伝えたとする24日付米紙ワシントン・ポスト(電子版)の報道を《普天間「現行案修正で受け入れ」 外相が米大使に伝達 米紙報道》日本経済新聞電子版/2010/4/24 13:32)が伝えている。

 〈米軍キャンプ・シュワブの沿岸にV字型の滑走路を建設する部分に関し、形状の変更を希望。海兵隊の施設の一部を沖縄から160キロメートル離れた島に移すことも提案した〉と言う。

 記事は「160キロメートル離れた島」とは、〈鹿児島県の徳之島を指すとみられる。〉と書いている。

 ワシントン・ポスト(電子版)は米政府関係者の話として、〈岡田氏の提案をおおむね歓迎しつつも「まだ第一歩だ」と表明。26日以降にさらなる説明を受ける段取りであることを明らかにした。〉と伝えているそうだが、「日経電子版」は現行案の微修正について、〈米側ではゲーツ国防長官らが、滑走路位置をやや沖合に動かす程度の微修正は現行案の範囲内との見解をかねて示している〉と解説を加えている、

 記事はさらにワシントン・ポスト(電子版)が伝えている鳩山・オバマ10分間会談ならぬ“10分間トーク”の内容を紹介している。

 〈普天間問題を巡り「時間切れが迫っている」と告げ、鳩山氏を信用してよいのかどうかをただした〉こと、〈日本政府はオバマ氏の強硬姿勢に驚き、発言内容を明らかにしないことにした〉こと、〈「大統領は事態の深刻さを指摘し、対処するよう求めた」〉と米政府関係者が同紙に証言したこと。

 さらに、〈同紙の「鳩山氏が最大の敗者」とのコラムが日本で反響を呼んだ〉こと、〈国会での党首討論で鳩山氏がコラムに絡んで自らを「愚か」と認めた〉こと、〈日米関係のこじれを韓国などアジア諸国が憂慮している〉といった鳩山内閣にとって悪いこと尽くめの解説も紹介している。

 この現行案はこれを否定対象とすることで始まった鳩山内閣の移設問題だから、「微修正」を加えると言っても、否定の肯定という非一貫性に各マスコミの報道が相次いだのは当然だが、岡田外相自身と鳩山首相が共にワシントン・ポスト(電子版)の報道を否定している。但し、両者のニュアンスはかなり異なる。

 《外相“米紙報道 事実でない”》NHK/10年4月24日19時16分)

 長崎県佐世保市で記者団に対して答えた発言だという。

 岡田外相「ルース大使とは頻繁に意見交換しているが、そういう事実はない

 ――「政府として現行案やその修正もゼロベースで検討しているのか」

 岡田外相「今検討している案は必ずしもそうではない

 ――「25日に沖縄県で県外や国外移設を求める県民大会が開かれるが」

 岡田外相「重要な集会を控え、今回の報道はきわめて遺憾だ」――

 「必ずしもそうではない」とは、「一部分はそうであっても、全部がそうではないということを表す」(『大辞林』三省堂)。米紙報道を「そういう事実はない」と否定しておきながら、部分的には検討課題としていることを言っていることになる。

 鳩山首相は群馬県内で記者団の質問に答えている。《首相「内容は事実でない」 普天間巡る米紙報道》日本経済新聞電子版/2010/4/24 15:35)

 鳩山首相「岡田外相が昨日、ルース大使と話し合ったのは事実だが、(報道の)内容は必ずしも事実ではない。なぜこんな報道が出たか分からない」

 ――「今後も現行案にするつもりはないのか」

 鳩山首相「辺野古の海を埋め立てることは、自然への冒涜(ぼうとく)だと強く感じている。あそこに立ったら、埋め立てられたらたまったもんじゃないと誰もが思う。現行案を受け入れるような話になってはならない」――

 ポスト紙の報道内容に関する鳩山首相の発言も否定形を伴って「必ずしも」という言葉を使っている。絶対的に事実ではないということではなく、部分的には事実だという意味となる。

 両者の事実関係の証言に関しては共通していることになる。

 現行案に関する発言は誰にも譲ることのできない自らの強い信念を吐露した言葉となっている。「自然への冒涜」とまで言って、現行案を絶対否定している。

 だが、この絶対否定は報道内容を、「必ずしも事実ではない」としていることと微妙に矛盾する。

 だが、例え微妙に矛盾していても、鳩山首相は今後ともこの強い信念を貫き通さなければならない。貫き通さなければ、信念が信念でなくなり、自らの発言に対する責任放棄ともなるからだ。現行案に対する何のための絶対否定だったかということにもなる。

 いわばどのような場合でも現行案の絶対否定を貫き通すことによって、自らの信念を貫き通すことが可能となる。あるいは逆に自らの信念を貫き通すためには、どのような場合でも現行案の絶対否定を貫き通さなければならない。

 だが、4月21日の谷垣自民党総裁との党首討論で述べた、「昨年の12月に於いて、もし、『エイヤ』と、辺野古という場所に新たな普天間の移設先を決めていれば、どんなに楽であったか、計り知れません」は、「辺野古の海を埋め立てることは、自然への冒涜(ぼうとく)だと強く感じている」と自ら吐露した“信念”と絶対否定に矛盾する、絶対否定とは程遠い言葉となっている。

 当然、自らの信念と絶対否定を貫くためには、「辺野古という場所に新たな普天間の移設先を決めていれば、どんなに楽であったか、計り知れません」などと言ってはならないことになる。

 この非整合性を解いて、二つの言葉に整合性を持たせるとしたら、鳩山首相のこれまでの多くの発言のぶれや美しい言葉を得意としていることからしても、信念や“絶対否定”の類がその時々の都合で並べたてている奇麗事に過ぎないということではないだろうか。

 大体が自らが信念としている考えに厳として立っていたなら、否定・肯定の態度や発言がぶれたり、あるいは美しい言葉を必要とすることはないはずである。

 どうも鳩山首相の発言を全体的に見ると、自らの信念を述べていると見える言葉にしても、支離滅裂な関係で成り立っているとしか受け取ることができなくなる。

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