菅の東電と電事連を軍部同然の凶悪犯に仕立てて自己責任の免罪符とした国会事故調参考人証言最終陳述

2012-07-04 10:21:26 | Weblog

 5月28日(2012年)国会事故調菅参考人証言。

 黒井委員長「ありがとうございます。ちょっと時間をオーバーをしましたが、今の、本当にあの、菅さん色んなことに答えていただきまして、色々なことがまた分かりました。誠にありがとうございました。本当にご苦労さまでした」

 これで終了かと思ったら、黒井委員長がさらに質問を続け、菅が前以て用意していたと分かる原稿を読み読み話し出したから、前以て段取りが決めてあったのだろう、菅が締め括りとする証言を行った。

 但しこの締め括りを無視して、締め括りとは関係のない質問がいくつか行われた。菅の締め括りの証言を無視したということなのだろう。この質問は省略して、以下の発言のみを扱う。

 黒井委員長「日本では一国として世界の情勢が変わってきて、また似たような自然災害がどうか分かりませんが、危機的状況が続く可能性があるかもしれません。そのとき、是非本当に大災害、非常に複雑な複合災害のトップをされた菅総理からは、現在の野田総理、あるいは将来の日本のリーダーになろうという人たち、あるいは大きな組織のトップに繋がっていく人たちに、是非どういうことが大変であるかということを二つ三つ、是非、野田総理にもお話になっているでしょうが、こんなことがあったら、こうしなくちゃいけないというような話もあると思うんですが、是非お伝え頂ければと思います」――

 「日本では一国として世界の情勢が変わってきて、また似たような自然災害がどうか分かりませんが」と意味がよく取れない言い回しをしているが、日本一国の原子力災害で世界の原子力状況に影響を与えたといった意味なのだろう。

 菅が原稿に適宜目をやりながら、一語一語力を込めるように静かな演説口調で話し出す。

 菅仮免「私は冒頭ご質問に答えましたように3月11日までは安全性を確認して原発を活用すると、そういう立場で、総理としても活動を致しました。

しかしこの原発事故を体験する中で根本的に考え方を改めました。その中でかってソ連、務められたゴルバチョフ氏が、その回顧録の中でチェルノブイリ事故は我々体制全体の病根を照らし出したと、こう述べておられます。

 私は今回の福島原発事故は同じことが言える。我が国全体の病根をある意味照らし出した。このように認識をしております。

 戦前軍部が政治の実権を掌握していきました。そのプロセスに東電と電事連(電気事業連合会)を中心とする、いわゆる原子力村と言われるものが私には重なって思えて参りました。

 つまり東電と電事連を中心に原子力行政の実権をこの40年間の間に次第に掌握をして、そして批判的な専門家や政治家、官僚は村の掟によって村八分にされ、主流から外されてきたんだと思います。

 そしてそれを見ていた多くの関係者は自己保身と事勿れ主義に陥って、それを眺めていた。これは私自身の反省を込めて申し上げております。

 現在原子力村は今回の事故に対する深刻な反省をしないままに原子力行政の実権をさらに握り続けようとしています。

 こうした戦前の軍部に似た原子力村の組織的な構造、社会心理的な構造を徹底的に解明して解体することが原子力行政の抜本改革の、私は第一歩だと考えております。

 原子力規制組織として原子力規制委員会をつくるときに、例えばアメリカやヨーロッパの原子力規制の経験者である外国の方を招聘することも、そういう村社会を壊す上で一つの大きな手法ではないかと思っております。

 またさらに申し上げれば、今後、この3・11原発事故の教訓を日本人、私たち全体がどう受け止めて、日本の将来をどう決めていくか、一人ひとりの日本人が問われていると思います。根本的な問題としては原発依存を続けるのかどうかという判断です。

 今回の事故が稼働中の原子炉だけではなく、最終処分ができない使用済み燃料の危険性も明らかになりました。今回の原発事故では最悪の場合、首都圏3千万人の人の避難が必要となり、国家機能が崩壊しかねなかった。そういう状況もありました。

 テロや戦争を含めて、人間的要素まで含めれば、国家崩壊のリスクに対応できる確実な安全性確保というのは、それは不可能であります。私は今回の事故を体験して、最も安全な原発は原発に依存しないこと。つまり脱原発の実現だと確信致しました。

 是非とも野田総理は勿論のこと、すべての日本人の皆さんに、あるいは世界の皆さんにそういう方向での努力を心からお願い申しあげたいと思います」――

 「戦前軍部が政治の実権を掌握」できたのは、政治が屈服したからに他ならない。政治の屈服という文脈があって、軍部支配の確立が可能となった。

 屈服の中には政治による軍部に対する妥協、慣れ合い、癒着、傍観、放置、従属といった行動要素も入る。

 国家行政は政府が掌握する業務行為であるのに反して、「東電と電事連を中心に原子力行政の実権」を掌握したということなら、この掌握過程に於いても政治の屈服という文脈を必要とする。

 繰返しになるが、政治による「東電と電事連」に対する妥協、慣れ合い、癒着、傍観、放置、従属といった行動要素が成り立たせた屈服であるのは断るまでもない。

 このような政治の屈服という文脈から解釈すると、政治の責任は非常に重大なものがあるはずで、その責任の重大さを深く認識していたなら、単に「批判的な専門家や政治家、官僚は村の掟によって村八分にされ、主流から外されてきた」と他人事(たにんごと)のように把える感覚は責任意識が希薄でなければできない解釈となる。

 希薄な責任意識を漂わせたこの他人事視は、「そしてそれを見ていた多くの関係者は自己保身と事勿れ主義に陥って、それを眺めていた」という言葉にも物の見事に現れている。

 一国の首相として自身の責任も絡んでいたのである。政治の責任の重大さから言っても、自身の責任から言っても、多くの関係者が「それを眺めていた」では済まないはずだし、第三者の責任の重大さはもとより、自身の責任の重大さに目を向けるべき立場にあったにも関わらず、「これは私自身の反省を込めて申し上げております」と「反省」で片付けている責任感の自覚のなさは一体どう解釈したらいいのだろうか。

 冒頭の「3月11日までは安全性を確認して原発を活用すると、そういう立場で、総理としても活動を致しました」であっさりと片付けている言葉にも責任感に対する自覚のなさが如実に現れている。

 実際は2010年6月8日首相就任後の6月18日に2030年までのエネルギー基本計画を閣議決定、〈2020 年までに、9基の原子力発電所の新増設を行うとともに、設備利用率約85%を目指す(現状:54 基稼働、設備利用率:(2008 年度)約60%、(1998年度)約84%)。さらに、2030 年までに、少なくとも14 基以上の原子力発電所の新増設を行うとともに、設備利用率約90%を目指していく。これらの実現により、水力等に加え、原子力を含むゼロ・エミッション電源比率を、2020 年までに50%以上、2030 年までに約70%とすることを目指す。〉とする内容で、「原子力行政の実権」を掌握した、戦前の軍部同然とした「東電と電事連」と行動を共にし、政治の屈服になお一層の拍車をかけることになる片棒を担ごうとしていたのである。

 いわば菅が言っているとおりに「戦前軍部が政治の実権を掌握」した「プロセスに東電と電事連(電気事業連合会)」「原子力行政の実権」を掌握した事実が重なるとする解釈が事実そのとおりなら、そのプロセスに自らも一旦は連なったことになり、言葉を替えて言うと、主犯に屈服する共犯関係に一旦は自ら立ったことになり、政治の重大な責任ばかりか、その責任に加えた自らの責任の重大さを認識しなければならないはずだが、原稿を読み読みした言葉からは、そのような責任意識は一切感じ取ることができない。

 自身をも厳しく責めなければならないはずだが、厳しく責める言葉がどこにもないということである。

 この責任意識の希薄さを通り越した責任意識の欠如は次の言葉が決定的となる。

 菅仮免「現在原子力村は今回の事故に対する深刻な反省をしないままに原子力行政の実権をさらに握り続けようとしています」

 このことを認識していながら、その掌握に向けてどのような抵抗を試みたのだろうか。どのような阻止行動に出たのだろうか。 

 政治の屈服を意味する「原子力行政の実権をさらに握り続けようとしています」という言葉が意味する状況は菅が傍観してきた状況を示すはずだ。あるいは傍観している状況を示す。

 「最も安全な原発は原発に依存しないこと。つまり脱原発の実現だと確信致しました」と言っているが、脱原発を果たしたとしても、屈服する政治の状況から言って、このままでは東電と電事連は今度は自然エネルギー行政の実権を掌握することになることは間違いない。

 菅は東電と電事連が原子力行政を牛耳る姿を軍部の政治権力掌握に擬えて、軍部同然の凶悪犯に仕立てた。だが、そこに両者共に通じる政治の屈服という文脈の存在を一切認識しない姿は戦前、戦後を通じた政治の重大な責任意識の欠如、自身もエネルギー政策を通して絡んだことに対する責任意識の欠如を対照として成り立ち可能となる。

 いわば戦前の軍部と東電及び電事連を同等の凶悪犯に仕立てながら、自身には責任はないとしている。東電と電事連を凶悪犯とすることで自己責任の免罪符としたということであろう。

 最後に一言。

 菅仮免「今回の原発事故では最悪の場合、首都圏3千万人の人の避難が必要となり、国家機能が崩壊しかねなかった。そういう状況もありました」

 これも実際に起こる確率が高かったように言うことで東電と電事連を凶悪犯に仕立てる道具立てに過ぎない。確かに近藤原子力委員会委員長に依頼した、いわゆる「最悪シナリオ」ではそのように予想したが、実際に起きる確率が高かったなら、その確率に対する危機管理対応を政府として行ったはずだ。

 だが、実際の避難範囲は米政府が在日米国人に指示した避難範囲よりも狭いままで終始した。さも自身が回避した「首都圏3千万人の人の避難」であり、「国家機能」「崩壊」である功績であるかのように装っているに過ぎない。

 自身の功績と東電・電事連の悪を対置させて責任回避、自己責任免罪符の道具立てとしている。

 一国の首相でありながら、この狡猾一点張りの責任転嫁と責任回避は如何ともし難い。

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