野田首相はいじめている子、いじめられている子、周りの子に語りかけるよりも同じ大人の教師に語りかけよ

2012-07-17 12:10:46 | Weblog

 人の心に直接訴えかけて感動を与える美しい言葉を紡ぎ出す能力の長けた言葉の人、野田首相が昨日、祭日である「海の日」の7月16日、フジテレビ番組に出演し、大津市の中2男子いじめ自殺に関して、「いじめは卑劣」と呼び掛けるメッセージを送ったという。

 「海の日」にふさわしく、青々とした海の色を見たときの清々しが多くの国民の心に染み渡って、誰もがいじめはいけないんだという思いを強くしたに違いない。

 《首相「いじめは卑劣」 テレビ番組でメッセージ》MSN産経/2012.7.17 00:29)

 メッセージの前なのか、いじめに関わる自身の思い出を発言している。

 野田首相「小学校3年生か4年生の時に、養護施設から通っている女の子をやんちゃな何人かの男の子がいじめて、その時の担任の毅然たる態度は今も忘れられない」

 いじめ側の生徒を語るとき、「やんちゃ」と表現する言葉の能力は素晴らしい。さすがは言葉の人である。「やんちゃ」には憎めないという意味を併せ持ち、いじめ側の子どもに対するのとは違って、決して否定すべき対象とはしていないことになる。

 もし野田首相が言っているように実際にいじめ側の何人かの男の子が「やんちゃ」であったなら、いじめではなく、単なる悪ふざけの類だったことになるはずだ。

 但し、悪ふざけに対して担任の教師が「毅然たる態度」と取ったというのは矛盾することになる。

 勿論、最初は悪ふざけでも、悪ふざけの対象を固定化し、度重なって度を越すと、行為主体の子ども自身があくまでも悪ふざけを装っていたとしても、実質的には悪ふざけから遠ざかって陰湿的な攻撃の姿を取ることになり、いじめとの境をなくして逆転した姿を見せることになる。

 だが、こういった経緯を取ること自体、悪ふざけがいじめとの境をなくして逆転した姿を現すように、「やんちゃな」性格にしても、既にその姿を隠して陰湿的・攻撃的な姿を取っているはずで、やはり「やんちゃな」という表現は不適切であって、使うべき言葉とは決して言えない。となる。

 次にメッセージ。 

 「弱い者を、集団でいじめている子がいるならば、その行為はとても恥ずかしい、卑劣だと理解してもらわなければいけないと思います。

 人間として大事なのは、自分が相手の立場になった時にどう思うかということです。その痛みを感じる心を、持ってもらわなければいけない。

 いじめられている子がいるならば、ぜひ伝えたいことがあります。あなたは独りではありません。あなたを守ろうという人は必ずいます。それを信じてお父さん、お母さん、先生、友だち、誰でもよいから相談してください。

 一番大事なのは、その周りにいる子です。いじめている子がいる、いじめられている子がいると分かっているならば、見て見ぬふりをしないこと。そばにいる生徒さんたちが先生と相談する、あるいは両親と相談する、見て見ぬふりをしない、これが一番大事なことなので、ぜひ理解してほしいと思います」 

 ときおり声を詰まらせながら語りかけたと伝えている記事もあるが、決して演技であるはずはない。あるいは自分のメッセージに酔ったわけでもあるまい。いじめを受けて自殺した子どもの苦しみを心から思い、万感込み上げてきて、思わず涙ぐんだに違いない。

 だが、鈍感なまでにあまりにも理解していない。学校は一つの社会である。そこに陰湿ないじめが起きたとき、学校という一つの社会の上に位置する主たる構成員である校長・教師、下に位置する生徒それぞれが構成員として上下担っている役割と、担っているがゆえに上下期待される役割の遂行(=責任と義務の履行)にまで含めて考察すべきだが、野田首相は生徒の役割にのみ視点を置き、他を除外する偏った考察となっている。

 だから、少なくとも大津市の中2男子いじめ自殺事件で、今何が問題となっているのかに気づかないトンチンカンなメッセージとなっている。

 2006年11月17日に当時の自民党政府伊吹文科相もいじめ事件に関するメッセージを発している。

 後を絶たないいじめやいじめが原因の自殺事件を受けたものだが、主な事件では2005年9月9日には北海道滝川市の小6女児がいじめを受けて自殺している。「Wikipedia」によると、滝川市教育委員会は2005年11月に聞き取り調査を行い、いじめは無かったと結論づけているが、2006年9月、遺族が新聞社に遺書を公開、2006年10月上旬にマスコミが報道。

 滝川市教育委員会は2006年10月5日に遺族に謝罪したものの、マスコミに対しては女児の遺書について「遺書ではなく『手紙』である」と回答。

 2006年10月14日に滝川市教育長が辞職、滝川市は同年10月16日付で教育委員会幹部職員2人を不適切対応で更迭した上で停職2ヶ月の懲戒処分、滝川市教育委員会は同年12月5日に調査報告をまとめ、同月9日調査報告書の市民説明会を開催。

 札幌法務局がこの事件の調査を行い、人権侵害事件と認定。

 2007年5月8日付で札幌法務局が事件発生当時の校長(事件後他校に異動)に対して事件の反省を促す説示の措置を、また滝川市教育委員長と2007年時点の校長に対して再発防止を求める要請の措置をそれぞれ行なっている。

 北海道教育委員会は2006年12月にいじめの実態の調査を実施しようとしたが、2007年1月、北海道教職員組合の執行部が21ヶ所の支部に対して調査に協力しないよう指導していたことが報道された。(以上)

 札幌法務局がこの小6女児いじめ自殺事件を人権侵害事件と認定後、新旧学校長と市教育委員長それぞれに勧告を行ったのは2007年5月8日であって、伊吹文科相がメッセージを発した2006年11月17日以後のことである。

 だが、2006年10月14日に滝川市教育長が辞職、滝川市は同年10月16日付で教育委員会幹部職員2人を不適切対応で更迭した上で停職2ヶ月の懲戒処分を行なったのは伊吹文科相がメッセージを発する前のことであって、伊吹文科相は学校教育を所管する文科省の責任者として、他のいじめ事件とも照らし合わせて主として何が問題となっていたかを把握していなかければならなかった。 

 未来のある君たちへ

 弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのは、はずかしいこと。

 仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。

 君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんな恥ずかしいことをしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今やっているいじめすぐやめよう。

    ○      〇      〇

 いじめられて苦しんでいる君は、けっして一人ぼっちじゃないんだよ。

 お父さん、お母さん、おじいちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所のお友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきを持とう。話せば楽に張るからね。きっとみんなが助けてくれる。

 平成18年11月17日

 文部科学大臣 伊吹 文明 

 野田首相のメッセージと伊吹文科相のメッセージは6年以上の経過を感じさせない、言っている趣旨も形式も、ほぼ同じで、何の発展もない。伊吹文科相のメッセージが漢字を殆ど使わずに平仮名を多用しているのは小学生への語りかけの体裁を取っているからだろう。

 両者とも何が問題となっているのか把握できずに、いじめている子、いじめられている子、そして周囲の子への語りかけで終わっている。児童・生徒のみで成り立っているわけではない学校という一つの社会を上の立場で構成し、下の立場で構成する児童・生徒を律する役割を担っている校長・教師がいじめという学校社会に於ける否定的な一つの営為に関しても上下の立場で相互に影響し合う関係性を築いているはずだが、その関係性を取り払って、いじめを児童・生徒だけの問題、いわば学校社会を児童・生徒だけの社会だと見做している。

 だからだろう、野田首相が言っていることも、伊吹元文科相が言っていることも、趣旨自体は既に前々から教育評論家やその他の識者が繰返し言っていたことの手垢のついた百番煎じとなって、似たり寄ったりのキーワードから踏み出すこともできないでいる。

 相手の立場に立て、君は一人ではない、勇気を持って相談しよう、痛みを感じる心を持て、見て見ぬ振りの傍観はいけない・・・・・等々、何度繰返し言われてきたことか。

 繰返し言われてきながら、なお繰返す。一向に通じない、何ら役に立っていない言葉、メッセージの類いでしかないことの証明としかならないのだが、合理的判断能力を生まれながらに持ち合わせていなからなのか、通じることのない役に立たない言葉、メッセージの類でしかないことに気づきもしないで、繰返している。

 国民の目線に立つとか、国民に寄り添うという言葉がウソでしかないことの証明ともなる。真に国民の目線に立っていたなら、真に国民に寄り添う気持を持っていたなら、学校社会を児童・生徒だけの社会だと勘違いして、いじめを児童・生徒だけの問題と扱うこともなく、何が問題となっているのか直視できたろう。

 当然、メッセージは違った言葉となる。

 何が問題となっているのか、報道番組が集中する15日曜日に大津市の中2いじめ自殺問題を取り扱った番組が多くあった中から、あさひテレビの「報道ステーションSUNDAY」から、いくつかを改めて取り上げてみる。

 自殺して生徒の祖父「生徒がな、(いじめを)先生に言うとるのだけどな、真剣にやってくれたら、こんなことならんかったさかいにな。

 ウーン、それが悔しい」

 何が問題なのか、何が問題となっているのか的確に指摘している。

 7月14日・大津市役所記者会見。

 中学校校長「トイレでいじめ、ということで、女の子が、あの、通報を、おー、してきました。担任が、あー、行きました。そしたら、既に、イー、そういった状況は終わっていました。

 険悪な状況と、いうようなものではなかったと、いうふうに記憶していると。じゃれ合いという言葉を使うとるわけですけれども。えー、その中で、えー、例えば、ヘッドロック。えー、それから、後ろからですね、覆いかぶさる(自分で腕を回す仕草をする)、ということについてですね、えーやられる方の立場ということが、あー、見受けられたと。力関係については。

 あー、そういった、えー、そういった形で――」

 いじめの場合、よく使う手として、仲間の誰かを少し離れた場所に見張り役に立てて、先生が来たらすぐ知らせるというのがある。知らせが入ると、それまでは無抵抗の相手を顔は痕がついて露見するから、首から下を服の上から殴っていたとしても、さもじゃれ合ったり、ふざけ合ったりしているかのようにプロセスごっこなどを始めて、教師の目からいじめを隠すといったことはよくある例として、学校教師であるなら、学習していなければならないはずだ。

 もし教師がこういったことを学習していなかったとしたら、学校社会に於ける上の立場としての役割(責任と義務)を果たしていないことになり、学校教師としての資格を失う。

 学習していながら、いじめ側の生徒の存在を恐れて何もなかったことにする事勿れな態度に出たとしたなら、あるいはいじめの存在が自らの教師としての教育能力に関わってくるからと自己保身と責任回避から気づかない振りをしたなら、なおのこと学校教師としての資格はないことになる。

 このトイレ事件は女子生徒がトイレで男子生徒が殴られているのを目撃、教師に「(男子生徒が)いじめられている。やめさせてほしい」と訴えたと他の記事では伝えている。

 校長がこのことを把握した時点で、それが最近のことであっても、教師に、見張りを立てたり、いじめをプロレスごっこに偽装したりすることがあると、自らが学習しているいじめに関わる知識を教師に伝えて、教師の取り扱いに間違いはなかったか問い質すべきだが、校長の記者会見は目撃者の証言に一切意味を持たせず、いじめの疑いを排除しているところを見ると、学習していなかったのか、学校にいじめが存在することは校長としての職責に関わってくるという事勿れが働いて見て見ぬ振りの傍観の態度に出たか、いずれかの疑いが出てくる。

 事程左様に生徒が見て見ぬ振りの傍観の態度を取らずに教師に訴えていながら、教師の側が見て見ぬ振りの傍観の態度に出ていることが問題となっているのであって、このことを把握もできす、野田首相のメッセージは生徒の見て見ぬ振りの傍観を問題としている。

 ここで番組は自殺した生徒と幼馴染の女子生徒の顔を撮さない証言の場面となる。

 女子生徒「あの事件、どうなってるのーって先生に聞きはったら、何か・・・・ってとぼけはる。

 詳しいこととかは一切、あのー、私たちにとかは、言わない」

 女子生徒の母親「この子たちィーの心の気持というのも、聞いてやって欲しい。で、先生の正直なー、心の気持ィーも、教えてやって欲しい。言ってやって欲しい」

 二人共野田首相とは違って、何が問題なのか的確に把握して、発言している。
 
 女子生徒「隠して、隠して、隠してという、ことをして欲しくない。これからどうしていいのかとかいうのを、言って欲しいし――」

 ここで保護者会での自殺した生徒の父親の発言を伝聞の形で伝える。

 父親の発言「ご迷惑をお掛けしていることに本当に申し訳なく思っております。私自身、把握し切れないことがたくさんありまして、何卒、ご協力をお願いしたいと思います。

 よろしくお願いします」

 再び幼馴染の女子生徒の証言。

 女子生徒「学校が隠蔽だとか、裏切られている内容じゃないですか、お父さんにしたら。それでも、お父さんは謝りはるんですよ。声を震わせてー。どん底というか、ウーン、声を震わせて、泣いてはりました」

 父親は学校に対して怒りを示してもいい立場にあるが、謝罪し、声を震わして協力を願った。

 女子生徒「『無理しとんきやー』とか、『無理して笑わんときやー』とか、『大丈夫、大丈夫、言うてたら、あかんでー』とか、私から絶対、何かもっと言えることがあったと思う(泣きながら)。

 こんなに限界の限界だったん、思います。不登校でも良かったのにとか、引きこもりでも何でもいいから、死んで欲しくはなかったです」

 学校社会を上の立場で構成し、上の立場として担っている期待されている役割を期待されているとおりには満足に果たさなかった結末が13歳の少年の自殺だった。

 役割の不履行を犯していながら、なお言い逃れに終始している。

 役割の不履行に対するこの見苦しいばかりの言い逃れは自己保身と責任回避に起因していることは断るまでもない。

 自己保身と責任回避の意識を働かす余り、事実を事実として扱うことができずに事実を誤魔化すか、事実の隠蔽に走ることになる。

 いじめやいじめ自殺が起きるたびに繰返されてきた自己保身と責任回避と事実隠蔽であるはずだ。

 政治家や教育評論家等の識者が語りかけるべきは先ずは学校社会を構成する大人たちであろう。

 野田首相の奇麗事のメッセージは要らない。

 いじめを受けて自殺を選択する児童・生徒はいじめる児童・生徒や周囲の児童・生徒よりも学校社会の大人である校長や教師に絶望し、その虚無感から自殺を選択するのではないだろうか。

 自殺の3日前だかに自殺した生徒が、「泣きながら電話で担任教諭に相談したと聞いた」と、昨年11月実施の2回目の全校生徒アンケート調査の回答の形で2人の生徒が証言している事実に対して担任は救いとなる具体的などのような措置も取らなかったのである。

 何が問題となっているのかの何がに焦点を合わせずに、それが一向に解決されずにのさばらせていることが結果的に子どもを犠牲にしているように思える。

 何がとは改めて言うまでもなく、校長や教師、あるいは市教育委員会委員長まで含めた、いじめをなかったことにしようとする自己保身と責任回避、事実隠蔽である。

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