大津いじめ自殺事件の報道が跡を絶たない。ニュース番組は勿論だが、ワイドショー番組が連日、必ずと言っていい程に一コーナーを設けて報道している。ワイドショーが暫くは主役の地位を演じるのではないだろうか。
それだけ教育委員会、学校、校長、教員ぐるみの、自己中心的に平穏無事を祈る事勿れ主義の自己保身と責任回避、自らの経歴に傷がつくことを恐れた事実隠蔽に目に余るものがあるからだろう。
1994年の大河内清輝君のいじめ自殺事件後も同様に情報の氾濫が起きた。テレビ・新聞、その他が発信する大量の情報が大河内清輝君のいじめ自殺事件以外も対象として教育委員会や学校、教師の無神経な対応を糾弾したとしても、教育委員会、学校、校長、教員はいじめ等の面倒事には殆どが自己保身と責任逃れに閉じ込もって、見て見ぬ振りをすることからスタートを切る。
マスメディアの大量の情報発信が世間を騒がす役には立ったとしても、教育委員会や校長、教師の自己保身と責任逃れには太刀打ちできない状態にあるということであろう。
糾弾は悪質ないじめや無残ないじめ自殺が起きてからの事後の現象としかなっていない。
このことは文部科学省の2010年度学校のいじめ認知件数全国調査が前年度比6.7%増の7万7630件としている、一向になくならないどころか、逆に増加している状況が証明している。
校長や教師の経歴が傷つくことを恐れるだけではなく、いじめ自殺が起きた学校だという、学校の評判が傷つくことを恐れて、傷つかない方策にのみ頭を巡らすことから、結果的に一人の人間の生命(いのち)よりも隠蔽が最良の方法となる。
何度でも言っていることだが、生命(いのち)とは心臓を動かし、血液が流れて、歩いたり、食べたり、眠ったり等々の物理的な身体動作のみの状態を言うのではなく、精神的に健全に生きて在る状態――健全な精神的存在性までを含めて生命(いのち)と言う。
いじめは身体的と精神的と両面の生命(いのち)に同時に作用し、損ない、歪め、非人間的状態に貶めていく。
いわばいじめは身体的にも精神的にも健全であるべき存在性、健全であるべき人間性を奪う。当たり前の人間であることを許さない。当たり前の喜怒哀楽の感情の発露を歪め、抑圧する。
報道番組やワイドショー番組の中にはいじめにどう対処すべきか、その処方箋を取り上げている番組もある。7月23日(2012年)TBS「ひるおび!」も一コーナを設けて、民間人初の公立中学校校長となった藤原和博氏(現東京学芸大学客員教授)の出演で取り上げていた。
独創的な教育方法で有名となった藤原氏である。どんな見解を持っているか、興味を持って眺めた。
総合司会者恵俊彰、尾木直樹教育評論家がコメンテーターとして出演している。
藤原氏は2002年に杉並区教育委員会・参与(教育改革担当)となり、100を超える教育改革に関わるアクションプランを共同で作成。
しかし多くの学校がアクションプランを採用しなかった。そこで校長と教頭は教員免許がなくてもなれる制度を利用して自ら校長になる決心をした。
藤原氏は、民間企業の場合、一つの会社が優れた業績を上げれば、2年ぐらいで他の会社にキャッチアップされる構造になっているが、教育界にはこの構造がない、和田中で新規につくった制度は東京都の公立中学校で真似されないことが多いと、その消極姿勢と現状維持の惰性を批判した。
藤原和博「校長はやらない自由を握っている。教育課程の編成権を握っている。隣の学校がいくらいいことをしても、真似はしなくても罰せられないし、給料も減らない」
要するに多くの校長が現状維持の事勿れ主義に陥っていて、日々の平穏だけを願っているために新しい改革に挑戦しない。万が一の失敗で経歴に傷がつくのを恐れているということであろう。つまり自己中心主義で公職に就いている。
このような自己中心主義の事勿れ主義がいじめにも働いて、自己保身と責任回避に陥り、その結果として事実隠蔽を専らとすることになるに違いない。
大津中学校のいじめ自殺問題に入る。
大津中学校は「わが校のストップいじめアクションプラン」名の月1回のアンケート調査の実施方針を掲げていたが、1学期に1回程度の実施で済んでいた。去年9月は行わず、10月11日に実施を予定していたが、生徒の自殺によって中止。
果たして実際に実施予定でいたのだろうか。私自身は自殺後、いじめ問題に取り組んでいることの証明、あるいはアリバイ作りとして後付けで実施を予定していたと偽装したのではないかと疑っている。
すべての公立小中学校が週一回のアンケートを実施している下関市の紹介に入る。
成果として、いじめ認知件数の増加といじめの未然防止ケースの増加を挙げている。
小川下関市立日進中学校校長「できるだけ短い期間に小さい出来事についてもキャッチするのが大切。いじめる側にとっても、『陰で変なことはできない』と抑止力にもなっている」
効果が上がっていると見ているようである。
結構なことで、ケチをつけるつもりはないが、いじめ認知件数の増加といじめの未然防止ケースの増加は二律背反の関係にある効果ということになる。
いじめの未然防止ケースが増加していながら、いじめ認知件数が増加しているという二律背反である。
それとも、「未然防止」ということはいじめそのものの「未然防止」ではなく、認知したいじめの悪質化に対する「未然防止」ということなのだろうか。
とすると、いじめそのものの「未然防止」には役に立っていないことになる。だから、認知件数の増加という状況まで抑制できないのだろう。
しかしいじめの悪質化を未然に防止しているなら、アンケートはそのことに関しては効果的である証明となる。
その理由として、小川校長はいじめる側の生徒がアンケートに何を書かれるか分からないために「陰で変なことはできない」と自らを戒めるためだとしている。
だとしたら、いじめそのものの「未然防止」に役に立っていることになるが、矛盾した認知件数の増加となっている。
校長が言っているこのような自己規制は理性による能動的・自律的な規律からのものではなく、他人の目、他人の判断を基準とした受動的・他律的な規律からの行動となる。
要するに少なくともいじめ側の生徒に関してのみ限って言うと、アンケートは自律的行動を期待できる、あるいは自律的行動を育む教育手段とはなっていないことを示している。
番組はこの週一回という短期間のアンケート調査はいじめだけではなく、気がついた良いことも悪いことも書き記すシステムとなっていて、教師と生徒のコミュニケーションを細かくする目的も持たせていると紹介していた。
アンケートの回答を生徒の貴重な声であると自覚し、位置づけていることになるが、このような間接的なコミュニケーションを以てして直接的なコミュニケーションを補うことができるのだろうか。
生徒がいつでも気軽に教師に声をかけたり相談したりする直接的なコミュニケーションは会話の遣り取りによる考えや意見の発展を望むことができるが、アンケートに書いたことを教師が把握して、その内容から書き主の生徒それぞれの考えなりを理解することとは似て非なるものである。
例えアンケートの回答の中から、気になる回答に関しては生徒と直接話し合うシステムになっていたとしても、中学生という年齢にある生徒のコミュニケーションに於ける能動性という点で何ら問題はないと言えるのだろうか。
アンケート慣れして、アンケートを教師対生徒のコミュニケーション手段として常態化した場合、後は授業で教師が答を生徒に聞き、生徒が答を教師に伝えるレベルのコミュニケーションで終わったなら、真に生徒の能動的なコミュニケーション能力は育つのだろうか。
学校生徒ばかりか、大学生や若者の言語力不足が言われているが、能動的なコミュニケーション能力が育たなければ、言語力も育たないことになる。
平成22年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査について」文部科学省
「いじめ発見のケース」
1位 アンケート 26%
2位 本人からの訴え 23.1%
3位 学級担任から発見 19.9%
恵俊彰「アンケートは有効な手段なんでしょうか」
藤原和博「本人が非常に言いにくいと言うことについてはちゃんと育った子であればある程、親とか教師とかに自分がいい子でいて欲しいと思っていると知ってますから、一旦いじめられる側に回っちゃった場合、そんな格好の悪いことは好きな人に言えないですよ。
だから、そうした意味では誰かが発見しなければならない。その意味の補助手段としてアンケートはあると思うのですが、週1回のアンケートは下関でも同様なことが起こって、ある種のショック療法としてやっているんだと思うんですが、それが手段が目的化しちゃって、(アンケートを)取っていれば大丈夫だろうというふうになったら、本末転倒になっちゃうので、まあ、多分2、3年試行でやっていって、もう少し期限を伸ばすんじゃないかと思うんですが」
いわば週一回の頻度でアンケートを実施した場合の機械化、義務化、形式化することへの懸念を言っている。
尾木直樹「ポイントはね、いじめっていうので認知を取っていないところなんですね。嫌なことや良いことや、どんなのがあったでしょう、もうちょっと広いですよ。そうしたら、言いやすいわけですよ。
いじめ(だけ)って言っちゃうと、いじめと思っていないことを言って、トラブルになっちゃうんですよ。いじめてないとこで取っているところがポイントですね」
意味不明。アンケートを生徒に公表するにしても、個々の名前まで公表するのだろうか。公表しなければ、トラブルにならない。
自分の目撃がいじめ側の生徒に知られていたら、例えばいじめ側の生徒が万引きしているところを偶然目撃し、目撃したことをいじめ側の生徒に知られたとしたら、その目撃した事実をアンケートに書いた場合、誰が書いたか分かっていじめを受ける恐れが生じるためにアンケートには書かない可能性が生じる。
いわば書くことによって予想可能なトラブルを書かないことによって避ける知恵を持っていた場合も、トラブルは発生しない。
アンケートにすべてが現れる保証はないということである。
と言うことは、学校はアンケート調査を以って、これで良しとすることはできないことになる。
和田中学校でのいじめ対策のポイント
1.ナナメの関係
2.いじめを考える授業
3.居場所を作る
1.ナナメの関係
親と子、教師と生徒のタテの関係だけではなく、地域の住人とのナナメの関係の構築。
図書館の管理を司書資格所有の地域の住人に委任して、図書館での教師対生徒のタテの関係を排除する。
土曜寺小屋
土曜日に教室を開放、地元の大学生等に生徒の学習指導を依頼。ここでもナナメの関係の構築を行う。
体育館横の校庭に芝生スペースを設けて、地域の高齢者にラジオ体操をして貰い、生徒と顔見知りになったり、挨拶したりのナナメの関係の構築。
藤原和博「昔、いじめに限らず、色んな悩みごとでしょぼんとしちゃっているうちに地域社会というのがあって、学校と家の中間に地域社会があって、自分の血縁ではないお兄さん、お姉さん、おじさん役、おばさん役、あるいはおじいちゃん役、おばあちゃん役っていうのが一杯いました。
多分そうした人たちに支えられて、ちょっと勇気を持ったり、褒められたりした。ところが今、地域社会が後退しちゃって、特に都市部に顕著ですから、子供たちのナナメの関係の欠乏症なんですよ。
そうしますと、親子とか、先生と生徒のタテの関係がかなりきついことが起こった場合、必要以上にショボンとしてしまうし、あるいはタテの関係では報告できないようなことについて辛くなっちゃうので、学校を核にして地域社会を再生するということですね。
保護者だけではなくて、保護者だけじゃないとこがミソなんですがね」
恵俊彰「実際、いらっしゃったんですか、皆さん、図書館に」
藤原和博「和田中ではもう8年に亘って図書館の方は地域社会に任せてやっていますから。教師ではなく、ちょっと司書の資格のあるおばちゃんだったり、本好きのおばちゃんだったり」
恵俊彰「学校関係者以外の人が来ている?」
藤原和博「だから、芝生の管理も地域の人。地域の人が教師と同じくらいの人数、毎日毎日、2~30人の人が来ている。地域社会の目は教師の目とはちよっと違う働きをする。
地域社会の人が学校に入っていると、震災が起きたときも救援の立ち上がりも早い。地域社会と教師がツーカーの関係であった方がいい、
大津中学校の場合、地域社会との開き方についてどうだったのかと非常に疑問に思っている」
2.いじめを考える授業
過去に自殺した中学生の遺書を題材にした授業。
自殺と安楽死の是非をディベートする授業
藤原和博「『世の中科』と言うのですが、総合とか道徳の時間を使って行なっていた。86年の鹿川君の事件、そして94年の大河内君の事件を行なっていまして。
今回は遺書がないようでしたが、大河内君の遺書なんて、本当に最後まで読めないくらいに激しいものなんですね。本当に心打ちます。
遺書を読ませても、普通の学校はただ単に感想を書かせて終わっちゃう。感想を書かせると、子どもって、大人が書いて欲しいように書きますので、可哀想だと思ったとか、こういうことはしてはいけないと思ったとか、そうじゃなくて、理性の方に働きかけなければいけないので、意見文を書かせるようにした。
同時に3年生になったら、自殺と安楽死については是非ディベートをするっていう授業を行う。
何が大事かと言うと、いじめもそうなんだが、自殺についてもタブーになったら一番いけない。学校では先生はそういった臭い物に蓋をしたいんですが、議論してしまえば、そういう気分になったとき、話せるはずです。
タブーになっていると話せなくなっちゃうので、子どもを追いつめてしまう」
藤原氏は前のところで、「本人が非常に言い難いと言うことについてはちゃんと育った子であればある程、親とか教師とかに自分がいい子でいて欲しいと思っていると知ってますから、一旦いじめられる側に回っちゃった場合、そんな格好の悪いことは好きな人に言えないですよ」と言っている。周囲の生徒が見ているであろう自身の活躍する姿を裏切る無様ないじめを受けて屈辱にまみれていたとしたら、自殺や安楽死のディベートは果たして役に立つのだろうか。
いじめを受けて自殺する生徒の場合、極端ないじめを受けているケースが多いと考えると、極端ないじめに無力な情けない自身の姿の記憶は強く、その記憶に一旦取り憑かれると、情けなさだけが募って、益々無力感に陥り、それを終わらせる手段としてディベートした自殺や安楽死を自ら実行するということはないだろうか。
恵俊彰「ある種のモンスター化と言うか、何人かが集まると、考えられないようないじめが行われる。どうやってそうなるのか分からないぐらいで、集団心理の怖さ。そこをどうやって摘み取るのか」
尾木直樹「健康な世論みたいなものを学級とか学校の中にどれだけつくっていけるか。
藤原先生がおっしゃってるナナメの関係とか、地域の方の目を借りるのも物凄い有効です」
いじめは何らかの威嚇を利用して相手を恐怖させ、その恐怖を以って相手を支配する権力行為である。あるいは何らかの威嚇を権力手段とした行為と言える。この点、基本的には独裁体制と同じ構造を取る。
監視、密告、冤罪等々は何も独裁政治のみが手段としているわけではない。
いじめられる側が一旦恐怖に取り憑かれて相手の自由になると、いじめ側はありとあらゆる狡猾な威嚇を用いて相手を一層恐怖させ、人格と身体そのものを支配していく。
そのような支配に太刀打ちできる「健康な世論」とはどんなものなのか、どうしたら形成できるのか、具体的説明がない。ナナメの関係をすり抜ける狡猾さ・巧妙さぐらいはいじめ側は備えている。
もしクラス全体が恐怖に支配されていた場合、その恐怖が大きければ大きい程、「健康な世論」どころか、アンケート調査にはいじめの影さえも現れない可能性が生じる。
単に悪質で陰湿ないじめが和田中に起きなかっただけのことかもしれない。
3.居場所を作る
校長室を開放する。校長室に漫画等を置いて、いつも生徒が来ることができるようにする。いわば保健室のような場所を増やす。
藤原和博「生徒が保健室へ行くのは養護の先生は成績の評価はしないから、(成績の評価をする)学校モードとは異なる時間と空間がもっと必要。
校長は直接成績表を付けない。マンガを置いといて、給食の後とかに来る。どういう子が来るかというと、教室にちょっと居場所がなかったり、休み時間にワァッーと校庭に遊びにいけないような子が来る。
校長の前でマンガを読んでいる分には絶対安全。保健室であったり、校長室であったり、緑の芝生であったり、土曜の寺小屋だったり、学校のモードではない時間をつくった方が子供たちにリラックスして、色んなことを言う。
居心地よく守られるから、来る。いじめっ子が来ても、僕の目の前でやらないから、僕はすべての校長室を開放すべきだと思う。
マンガを置くかどうかは議論の余地はあると思うが、弱い子同士、友達同士でマンガを見せ合って、色んなことを話し合っている。僕はたまに、『どお?』とか声をかけるくらい。学校というのは弱い子に対する対処が少ない」
尾木直樹「溜まり場になるからと言って、保健室に鍵をかける学校が多いのよ。逆。子供たちにとってオアシスだから、逃げ場として確保する必要があるんです」
確かに居場所づくりは必要であろう。だが、学校社会が用意した場所であって、もっと能動的な社会参加の形の居場所づくりの提供が望ましいのではないだろうか。
和田中でいじめが起きた場合
一人の教師に負担をかけないために教員がチームで行動→いじめ情報を確認→いじめに関わった生徒をいじめ側もいじめられ側も何人もの教師それぞれが1対1で生徒の話を聞く。複数の教師が1対1で生徒の話を聞くのは聞き手が変わることで、生徒から新しい情報を引き出すことが出来る場合があるから。
時間が残されていなかったのか、具体例に関する言及はなかった。
注意すべき夏休みの変化
フリップを掲げる。
藤原氏
部活でもないのに頻繁に出かける。
携帯電話を必要以上に気にする。
尾木氏
携帯電話を見なくなった。
カネ遣いが荒くなった。
短時間の外出が多くなる
携帯電話の違いについて聞かれると、お互いに譲り合って、「同じことです」と言っていた。藤原氏の場合は呼び出しの電話が掛かってこないか気にする。尾木氏の場合は、「いつも携帯を見ている子が見なくなる」と言っていたから、携帯自体がかかってくることを恐れて携帯を見ないようにしているということなのだろう。
だが、いじめ側が卑劣な場合、呼び出しの電話に相手が出なければ出なかったで、そのことに因縁をつける。
いじめは相手の人格・身体・行動を支配する。支配に応じない人格・身体・行動は常に攻撃の対象となる。攻撃することによって、相手の人格・身体・行動に対する支配を確認する。
また両氏とも外出を取り上げているが、大河内くんのいじめの場合も大津中の場合も、いじめ側が両君の自宅に押しかけて、部屋を荒らしたり、カネを盗んだりしている。事はそう簡単ではない。
大河内くんの場合は、家に押しかけ、母親のネックレスまで盗んでいる。
和田中の取り組みはそれなりに有効なのだろう。
平野文科相はいじめ防止対策組織の設置を検討、大臣直轄の常設組織にしたいと言っているそうだが、具体的には、〈児童生徒の自殺があった場合に原因究明を含めて教育委員会や学校を支援するチームと、全国でいじめの情報を収集し再発防止策を講じるチームの発足〉(毎日jp)の検討だという。
面談やアンケート調査等の従来どおりの方法を手抜きなく的確に行うよう監視しつつ支援すると同時にアンケート調査で得たいじめ情報を収集、学校任せではない再発防止策の支援を行うということなのだろうが、大人が手助けのいじめ防止策であって、生徒自身による能動性を持ったいじめ対策はないだろうか。
いじめは一種の自己実現である。いじめを自己活躍の手段とし、いじめによって、自己存在証明を果たしている。
そのような自己活躍と自己存在証明の上に自己実現を完成させている。
その自己実現たるや、いじめる人間にしたら、他者の人格・行動・身体を支配するまでの権力の発揮を演じているのだから、これ程の自己活躍はなく、これ程の自己存在証明はなく、当然、最たる自己実現の部類としているはずである。
他者たる一個の存在全体を支配すること程甘美な蜜の味がする権力行為はない。いじめという毎日の活躍が楽しくて仕方がないに違いない。
男が女を支配したくなるのはこの点にある。だが最近の女性は強くなって、簡単には支配させてくれないばかりか、逆に簡単に支配されてしまう。
尤も男の女に対する支配欲が行き過ぎて思うようにいかないと、ダメスティックバイオレンスに陥りかねない。
誰もが何らかの才能や能力によって自己実現を図ろうと欲求する。
和田中の自殺や安楽死のディベートもいいが、常に何らかの自己実現の衝動に衝き動かされている人間の存在性を授業で教えるべきではないだろうか。それが社会的に正当性を得る自己実現であるかどうかを学ぶ。
小・中学校でいじめられていた子どもが成長して作家になったり、芸能人になったり、あるいはスポーツ選手になったりと自己実現を優れた形で図っていった例が数多くある。かつてのボクシング世界一の内藤選手も中学時代だったか、いじめられっ子だったというが、社会に出て、正当性を持った見事な自己実現を果たした。
このことは学校での自己実現が必ずしも一般社会に出てからの自己実現とは一致しないことの教えとなる。
犯罪を犯して、長年刑務所暮らしをすることも結果的にその人間自身がつくり出した一つの自己実現である。同じ自己実現を果たすとするなら、社会に役立つ自己実現を目指すべきであると。
真面目に働いて、税金を収め、平凡な社会人として生きるのも一つの立派な自己実現であろう。犯罪者から比べたなら、社会に役立っている大いなる自己実現と言える。
いじめ行為に働いている自己実現のメカニズム、それが社会的に正当性を持ち得ない、如何に歪んでいる行為性であるかを教えることで、いじめ人間の自己省察心に働きかける。
自己実現教育をすることによって、周囲の生徒はいじめ生徒に対して例え恐怖を感じていたとしても、学校社会に於ける情けない自己実現だと蔑むことができる客観的態度を期待できるかもしれない。
その一抹の蔑み、一抹の冷ややかさがいじめ生徒をして自身の行動を振返る契機となる可能性も期待できる。
また、例えいじめられても、社会に出てから自分なりの自己実現を図ろうと耐える心を自らに誓う生徒も出てくるかもしれない。
但し、自己実現教育を行うなら、学校社会をテストの成績とスポーツの成績を最大の価値観、最大の人間価値として、テストの成績かスポーツの成績に恵まれない生徒は排除するのではなく、学校社会を一般社会と同様にすべての生徒に生存機会を平等に与える得る多様な可能性に応えることのできる制度としなければならないはずだ。
このことは206年10月2日アップロード――《市民ひとりひとり 第128弾 中学校構造改革(提案)》に書いた。
そのような制度にしなければ、テストの能力とスポーツの能力、いずれにも恵まれない生徒の自己実現は学校社会では非常に狭い場での困難な技となる。
いじめる生徒も学校社会でそれなりに正当性ある可能性を試す自己実現の機会があったなら、いじめに走らないこともあり得る。