6月10日コメントへの回答/いじめや児童虐待の抑制は学校での人間学・人間関係学の学びから

2012-07-09 10:12:43 | Weblog

 編集画面にログインして最初のページの右側に「新着公開コメント」欄があり、新着のコメントがないか日々気にかけているのだが、トラックバックもコメントも「ブログ作成者から承認されるまで反映されない」という形式にしてあったことを忘れていて、「新着公開コメント」欄の最終コメントがいつまでも変化なしだから、新着はないと思っていたら、公開を承認しないままのコメントが別ページに溜まっていることに気づいた。

 アダルト関係を除いて全て公開承認としたが、その中に投稿から大分日時が経ってしまったが、回答を寄せなければならないコメントがあった。

 併せて遅くなった謝罪も兼ねることにした。

 対象記事――《中2虐待死に見る過去の児童虐待死を相変わらず何ら学習しない児童相談所の不作為とも言える危機管理 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》(2011年10月25日)

 〈2012-06-10 19:54:02(投稿日時)

どうしたら、いいか? もりかな 中2虐待死に見る過去の児童虐待...

じゃあどうしたら、最小限のキズで済むのですか?
どうしたら、1日も早く親が過ちに気づいてくれるのですか?
教えて下さい!
私たち大人はどこで、虐待について対策を
教えてもらえるのでしょうか?〉・・・・・

 上記記事は親の子どもに向けた虐待に対して過去の虐待にも現れている各種事例を学習せずに見逃し、役に立つ対応ができないままに子どもを殺させてしまう児童相談所の不作為を扱ったものだが、コメントは親自身が自らの子どもに対する虐待にどうしたら気づくことができるのかにテーマを置いている。

 難しい問題だが、何か答えなければならないという思いに駆られて、役に立つかどうか分からないが答えることにした。

 虐待には様々な事情があると思う。一例を上げると、会社に入っても、自分の力を発揮できず、上司から無能だと罵られる。他の会社に移って自分の能力を試すだけの自信はなく、我慢して務めるしかないと思い決めていたとしても、無能だと罵る上司に対する怒りや不満を内心に抑圧する一方で、その怒りや不満のはけ口として他人にその怒りをぶつけてしまうといったことがある。

 勿論、その他人とは人間は常に自己保存本能が働いているから、怒りをぶつけても逆襲を受けて自己の体面を維持できない恐れのある対象は選ばず、いわば自分よりも弱い存在――低い地位の人間、下の年齢の人間、男の場合は女性等々――を対象としがちとなる。

 そのような自分よりも弱い存在が会社で見つけることができたなら、相手は一応大人だから、その人間にとっては迷惑であっても、少しは救いを見い出すことができるが、抑圧させていた怒りや不満のはけ口として自身を傷つける心配のないごく弱い存在である自分の子供に暴力の形で攻撃して精神の浄化を図るのが児童虐待という形を取ることになる。

 会社での日々続く終わりのない怒りや不満の抑圧に対応してその浄化作用としての子どもに対する虐待も終わりなく日々繰返す慣習化に陥り、エスカレートしていったとき、最悪の事態を迎えることになる。

 育児が思うようにいかない若い母親が自分の子供を虐待する行為も育児の苛々から精神的余裕を失って手近な弱い存在に対する攻撃となって現れた一つの例であるはずである。

 高収入を得て、常に穏やかな満ち足りた表情を浮かべていた人間がひとたび返し切れない多額の借金を抱え、日々返済を迫られるようになると、すっかり変わった険しい顔つきとなることがある。目ばかりをやたらと動かして落ち着きなく他人を窺い、下卑た感じさえ漂わすことがある。

 身近に反撃を食らう恐れのない、当たることができる人間がいたら、攻撃を加えることで比較対照的に借金の返済に追われている弱い存在ばかりではない強い存在に自身を位置づけ、その確認によってひと安心するといった屈折した心理――精神的浄化を得ることもあるかもしれない。

 金銭的余裕が極端にないことからの精神的余裕の喪失が子どもに対する虐待となって現れることもあるはずである。

 少なくとも児童虐待には何らかの精神的余裕の喪失が関係しているように思う。

 大体が怒りは精神的余裕を喪失したときに起きる。

 要は例え物事がうまく行かなくて精神的余裕を失った状態に陥っても、その抑圧を自分よりも弱い存在に対する攻撃の形で浄化してしまう程に精神的余裕を失わない忍耐が児童虐待を自ら防ぐ手立てとなるはずである。

 そのための効果的な方法は人間を学ぶ勉強や人間関係を学ぶ教育だと思う。

 人間がどういった生き物であるかとか、人間関係が引き起こす様々な状況を学ぶことによって、誰もが自分という人間に対して自分はどういった人間なのだろうかという自己省察心を教えることになる。

 だが、家庭教育も学校教育も日本人の行動様式である権威主義に則って、上(=教師あるいは親)が下(=生徒あるいは子ども)に対して自らの知識・情報に従わせる暗記教育のみで占められていて、人間学や人間関係学を無縁としている。

 家庭教育の場合、「教育の原点は家庭である」とか、「小学校入学までの幼児期に必要な生活の基礎訓練を終えて社会に出すのが家庭の任務である」などと偉い政治家や偉い教育学者が宣っているが、現実の家庭教育は親がああしなさい、こうしなさいと命令・指示し、子どもが親の命令・指示に機械的に従う暗記教育形式の躾となっているに過ぎない。

 それが厭で、中学生ともなると親に反抗するようになる。

 いわば学校教育の反映として家庭教育は存在している。子どもは生まれてから幼稚園・保育園入園まで親によって権威主義的行動様式・思考様式を刷り込まれ、入園以後、小中高大学と刷り込まれて、立派な権威主義人間に成長、その人間が家庭を築き、設けた子どもに権威主義的躾を行うのであり、その循環から抜け出れないでいる。

 当然、その循環を断ち切るには学校教育自体が権威主義性を排して考える教育の導入を図らなければならないはずだが、断ち切らなければ、この循環は永遠に続くことになり、人間学や人間関係学を学ばないままに精神的余裕を失った親がそのことによって見舞われることになった精神的抑圧の浄化を目的により弱い存在に向けた暴力としての子どもに対する虐待がなかなか少なくならないことになる。

 人間学や人間関係学を教えたとしても、学ぶことができない人間は存在するだろうから、虐待をすべて無くすことはできないだろうが、それでも誰もが人間という生き物を考える機会を持つことは必要なはずである。

 人間学、人間関係学といっても何も難しくはない。小学生のときから学校で人間関係や人間を学ぶことのできる、例えば同級生同士や友人同士の友情の破壊や修復、構築、家庭の親兄弟の絆の危機や再確立等をテーマとしたテレビドラマを見せたり、物語・小説・マンガの類を読ませたりして、事後、単に感想を述べさせるのではなく、一旦は壊れかかった友情をどういったふうに築いていったか、あるいは最初はよそよそしい関係であった人間関係を友情の形にまで高めていったのか、何がきっかけになったのか、親兄弟の絆の変遷等を生徒同士で議論させることによって、自ずと人間学、人間関係学に代えることができ、省みて自分がどういう人間なのか、自己省察心の育みの機会となるはずである。

 中学生・高校生になったなら、親の子どもに対する虐待や児童同士・生徒同士のいじめの事例を取り上げ、どのような人間関係によってもたらされるのか勉強するのも悪しき人間関係学としての学問となると思う。

 尤もいじめは精神的余裕の喪失からの行為ではなく、いじめる側の生徒がいじめられる生徒を暴力や威嚇で支配し、その上下の支配を以って自身の強さの証明、自身の存在証明、自己活躍証明とする行為を言うはずだが、そこにあるいじめ特有の人間関係学を学ぶことができ、いじめを働いている生徒は否応もなしに自身の人間性やいじめ対象の生徒との人間関係を振返らざるを得なくなるはずである。

 一般的に言うと、日本の学校教育は教師が尋ねた質問に対する生徒の答を一つの答として終わらせてしまうことが多く、その内容の正当性を他の生徒に尋ねて議論させ、異なる考えの存在を炙り出して、生徒それぞれの考えを広げる、あるいは多様化させる、あるいは深めるといったことが少ない。
 
 議論が多い程、考えは広がり、多様化し、深めることができる。

 いわば単に教師が伝える知識・情報を生徒が考えるプロセスを経ずに機械的にそのままに受け止めていく従来型の暗記式の思考習慣ではなく、自ら考える思考習慣が自然と身につけていくことが期待できる。

 例え何らかの事情で精神的余裕を失ったとしても、人間学や人間関係学を学んで身につけただろう考える習慣によって抑圧された怒りや不満や苛立ちのはけ口としていじめや虐待を精神の浄化とすることの抑制を期待する以外に何か有効な手立てがあるだろうか。

 参考までに。

 2006年6月22日当ブログ記事――《愚かしいばかりの“愛国心”教育 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

コメント
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