1月4日午前、安倍晋三が首相官邸で年頭記者会見を開いた。
安倍晋三「この3年間で雇用は110万人以上増えました。17年ぶりの高い賃上げも実現し、景気は確実に回復軌道を歩んでいます。昨年は、青森、秋田、徳島、高知、福岡、熊本、沖縄の7つの県で有効求人倍率が過去最高を記録し、地方創生も着実に進んでいます。
東北では次々と住宅が完成し、被災者の皆さんの入居が進んでいます。新しい産業の芽も育ち、一歩一歩復興は進んでいます」――
「この3年間で雇用は110万人以上増えました」といった自身の経済政策アベノミクスの成果を得々と誇るのは毎度のこと、お馴染みの光景となっているが、《2015年7~9月期平均(速報)》によると、正規社員3329万人に対して非正規社員は1971万人。正規社員と非正規社員の割合が2人に1人を割って、1.689人に1人となっていて、非正規の割合が増え、「17年ぶりの高い賃上げ」にしても大企業の正規社員中心の賃上げであって、その分賃金格差を受ける非正規が増加していることになる。
だが、そういった自身の経済政策の成果を損なう情報は決して表に出さない。出さずに成果を得々と誇ることができる神経は相当なものである。
この都合の悪い情報は隠して都合のいい情報のみを表に出して得々と吹聴する自己宣伝手法は冒頭発言の最後の方で紹介して、自身に擬(なぞら)えさせようとしているエピソードにより象徴的に現れている。
安倍晋三「300年前の丙申(ひのえさる)の年、暴れん坊将軍として皆さんも御存じの徳川吉宗が8代将軍となりました。財政の建て直しを始め、様々な改革に挑戦した将軍として有名でありますが、それだけではありません。
江戸の各地に桜の苗木を植えました。幕府では、反対の声もあったそうでありました。しかし、将来花が咲くようになれば貧しい村々にも人々が集まり、豊かになるに違いない。その信念の下に、未来への投資を行った。苗木を植える『挑戦』を続けたそうであります。
そのおかげで、300年後の私たちも花見ができる。春になれば、桜の名所は人でいっぱいになります。
昨年、岩手を訪れた際、津波の被害を受けた沿岸部に桜の苗木を植える活動を行っている若者たちと出会いました。苗木はすぐには花をつけません。しかし、その努力を続けることで、数年先には花をつけ、10年後、20年先も人々が満開の花の下に集い、津波の教訓を語り継いでいってくれることでありましょう。
私も、日本の将来をしっかりと見据えながら、『木を植える』政治家でありたい。それが如何に時間がかかり、いかに困難な挑戦であったとしても、「一億総活躍」の「苗木」を植える挑戦をスタートしたいと思います。「一億総活躍・元年」の幕開けであります」――
「『木を植える』政治家でありたい」という言葉が示すとおりに名君と名高い徳川8代将軍徳川吉宗に自身を擬えさせようとしているのだろうが、自身に都合の良い情報のみを取り扱おうとする性格的傾向が都合の悪い情報にも触れなければならない意思を失わせて、情報提示に関して狡い立ち回りを習い性としてしまったに違いない、徳川吉宗が行った享保の改革にも負の面があり、それが国民の生命・財産に悪影響を及ぼした失政を含んでいる以上、調べ上げて公平に扱わなければならない情報であるが、そのような公平を図ろうとする態度は決して取らずに自己宣伝に努める。
例え年頭記者会見発言がスピーチライター作であったとしても、自身が目を通して内容として込めてある情報の的確性を判断しなければならないのは安倍晋三自身であるから、発言の妥当性の判断の全責任は安倍晋三が負っている。
私自身は享保の改革に詳しいわけではない。物事にはプラス・マイナス、長所短所があると思っているから、ネットで調べてみた。
先ず「Wikipedia」から在任期間の1716年から1745年の享保年間にどのような改革を行ったか見てみる。
定免法や上米令による幕府財政収入の安定化、新田開発の推進、足高の制の制定等の官僚制度改革。公事方御定書を制定しての司法制度改革、江戸町火消しの設置、悪化した幕府財政の立て直し、大奥女中の4000人から1300人への人員整理改革、庶民の声を聞く目安箱の設置、小石川養生所の開所、洋書輸入の一部解禁(のちの蘭学興隆の一因となる)等々。
「足高の制」とは、江戸幕府の各役職には各々禄高の基準を設けられていたが、それ以下の禄高の者が就任する際に在職中のみ不足している役料(石高)を補う制度とのこと。
「公事方御定書」(くじかたおさだめがき)とは、「江戸幕府の刑事関係成文法規。8代将軍徳川吉宗のとき,寛保2 (1742) 年,三奉行が中心となって作成。上巻に司法警察関係の法令 81通を収め,下巻に刑法,刑訴,民訴など実体法,手続法103条を収めてある」 (ブリタニカ百科事典)とのこと。
「上米令」とは上米(あげまい)の制のことであり、〈江戸幕府8代将軍の徳川吉宗が享保の改革の際に出した制度。 大名に石高1万石に対して100石の米を納めさせる代わりに、参勤交代の際の江戸在府期間を従来の1年から半年に短縮した。〉(Wikipedia)とある。
だが、年貢を家宣・家継時代の四公六民(4割)から五公五民(5割)に引き上げた上に「定免法」の導入によって農民の生活を圧迫し、百姓一揆の頻発を招いたと言われている。
「定免法」とは、田畑の作物の出来高に応じて年貢高を決める検見法を廃止し、〈過去数年間の平均収量を基準にして一定期間の貢租を豊凶にかかわらず定額にする〉(コトバンク)年貢制度のことを言う。
また、吉宗採用の「五公五民」について、〈建前上は1割の上昇だが、四公六民の時期において実質は平均2割7分6厘程度の負担だったため、引き上げの際の再計算で実質的に5割の負担が課せられたため、2倍近い増税となった。あわせて定免法が採用された時も、特に凶作時においての負担増につながった。この結果、人口の伸びは無くなり、一揆も以前より増加傾向になった。次の家重時代には、建前上は五公五民の税率は守られたが、現場の代官の判断で実質的な減税がなされている。〉という記述が「Wikipedia」にある。
「近世の百姓一揆について」なるネット記事から享保年間(1716年から1745年)と宝暦期を含む50年間の一揆の発生件数(赤文字個所)を見てみた。ワード文書であるために、アドレスを引き出すことができなかった。
その記事には、〈上記の表のとおり、各時代によっても各形態によっても発生件数にかなりのばらつきがあるように思える。全体を通していえるのは、江戸期の発生件数は時代を追う毎に増加しているが、④享保期を境として前後に二分されている点だろう。また、蜂起が一度は減少しているのに再度増加しているというのも面白い点といえる。〉との解説が載っている。
但し1732年(享保17年)夏の梅雨からの長雨が約2ヶ月間にも及び冷夏と害虫発生をもたらし、餓死者12000人も出した享保の大飢饉が一揆の数に影響もしているだろうが、影響の背景として四公六民から五公五民へ実質5割増しを課すことになった重税と定免法があったことは無視できないはずだ。
一揆だけではなく、農村から集団で計画的に田畑を捨て、江戸などの都会に逃げる「逃散」が跡を絶たなかったと言うし、年貢を満足に払えず、借金をこしらえて、その借金も満足に返済することができずに個人的に土地を捨てて村を逃げ出す「逃げ百姓」、あるいは「走り百姓」も跡を絶たず、松平定信が寛政の改革に際して寛政2 (1790) 年に無宿人収容所として江戸石川島に人足寄場をつくらざるを得なかったのも、享保等の以前の時代から生活苦のために農村を逃げてきた百姓、その他が積み上がってきたことの証明でもあろう。
松平定信は無宿人収容の人足寄場をつくる一方、人返しの法(旧里帰農令)を出して金子を与えて農村に戻るよう促しているが、効果がなく、都会に流れてくる農民の数は減らなかったと言われている。
要するに享保の時代と言えども江戸時代に於いて人口の8割をを占めていた農民のうち、豪農と言われている豊かな農民が存在する一方で農業で食うことのできない農民、さらに収穫物の殆を年貢に取られて食うや食わずでカツカツの生活を強いられている農民が数多く存在する、そういった状況の格差社会であった。
それを安倍晋三は徳川吉宗が桜の木を植林するエピソードを持ち出して享保の時代を色鮮やかに眩すといった自分に都合の良い情報のみで自己政策の宣伝に努め、なおかつそのような都合の良い情報でつくり上げた徳川吉宗という人物像に自己を擬えようとしてさえしている年頭記者会見であった。
こういったエピソードに騙される国民はどれ程存在するのだろうか。ゴマンといて、秋の参院選では自民党にそれぞれ1票を投ずることになるのだろう。
民主党がモタモタしているから、安倍自民党の大勝利は間違いない。