南スーダン:安倍・稲田の“法的意味・解釈”を振りかざした現地自衛隊部隊との感覚のズレは隊員の命の軽視

2017-02-11 12:03:44 | 政治

 以前もブログに書いたが、安倍政権は「テロ対策特措法」を法的根拠とした2002年2月5日の政府答弁書に基づいて、〈「国際的な武力紛争」とは、国家又は国家に準ずる組織の間において生ずる武力を用いた争いを言〉い、〈「戦闘行為」とは、国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為を言う。〉と定義づけて、それを以って「戦闘行為」の意味・解釈としている。

 裏を返すと、国家又は国家に準ずる組織の間に於いて生ずる〈国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為〉でなければ、それがどのような大量破壊兵器を用いようと、どれ程に過激な攻防であっても、「戦闘行為」ではないという意味・解釈となる。

 あるいは、〈国家又は国家に準ずる組織の間において生ずる武力を用いた争い〉でなければ、「国際的な武力紛争」とは言わないと言うことになる。

 そして南スーダンに於ける大統領派と反大統領派の衝突を〈国家又は国家に準ずる組織の間において生ずる武力を用いた争い〉とは認めていないから、その衝突を、例え戦車を用いようと、バズカー砲を発射しようと、戦闘ヘリを飛ばそうと、その衝突を以てして法的には「戦闘行為」ではないと規定することが当然の意味・解釈となる。

 一昨日、2018年2月8日の衆院予算委員会で民進党の小山展弘が稲田朋美に対して安倍政権が廃棄したとしていた南スーダンPKO派遣自衛隊施設部隊の昨年7月の日報の存在を認め、公表した資料に基づいて、日報を読んだ上で昨年の国会で大統領派と反大統領派の衝突を「戦闘行為ではない」と答弁したのかと問い質すと、直接読んではいないが、日々説明を受けていた状況に基づいて、「国際的な武力行使の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為と定義されるところの法的な意味に於ける戦闘行為ではない」と解釈したといった答弁をしている。

 小山展弘は日報が描いている現場の状況と稲田が答弁で示している「法的な意味では戦闘行為ではない」としている状況との違いに驚いて、「何に基づいて戦闘行為ではないと答弁したのか」とさらに追及した。

  以下、右翼防衛相の稲田朋美が南スーダンの衝突の状況は「法的な意味では戦闘行為ではない」と答弁した発言を一部取り上げてみる。

 稲田朋美「南スーダンの状況について国又は国準(くにじゅん・国家に準ずる組織のこと)、そして国対国の間の国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し、又は物を破壊する行為と定義されているようなものではないということを答弁させていただいたのです」

 稲田朋美「当時(昨年9月・10月等)の国会に於いて7月の状況も踏まえて、南スーダンの状況、武力衝突による衝突の状況は戦闘行為に当たるかどうかと言うことが議論になって、7月の状況も踏まえ、当時の状況も踏まえた上で国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し、又は物を破壊する行為、これは法律上定義をされている法的な用語でありまして、それとの混乱を避けるために戦闘という言葉ではなくて、戦闘という言葉を使わないということを後藤(祐一)委員に繰り返し申し上げたところでございます」

 稲田朋美「何度も申し上げて恐縮でございますけども、法的な意味に於ける戦闘行為というのは国又は国準、又は国準との国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し、又は物を破壊する行為でありますが、この点一般的な用語に於ける戦闘と法的な意味に於ける戦闘行為、これが混濁することがないように私は戦闘という言葉は使わないと言うことを繰返し申し上げて来たということを今答弁させて頂いているところでございます」

 小山展弘「そしたら、この戦闘という言葉が今回の日報、あるいはモーニングレポートにも、今回公開されたものに出ています。戦闘があったことはお認めになるんでしょうか」

 稲田朋美「法的な意味に於いて意味があるのは戦闘行為かどうかでございます。そういう意味に於いて戦闘行為、法律に定義されているところの戦闘行為ではないと言うことになります。

 いくらそこ(日報)の文章で戦闘行為という言葉が一般的な用語として使われたとしても、それは法律な意味に於ける戦闘行為、即ち国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し、又は物を破壊する行為ではないということでございます」

 以後も同様の答弁が繰返される。埒が明かないから、この辺で切り上げることにする。

 繰返しになるが、要するに大統領派と反大統領派の衝突は国際的な(=国際間の)武力紛争ではなく、一つの国内に於ける二大勢力の争いに過ぎないから、どのような武力衝突であっても法的には戦闘行為と言えないんだと繰返し答弁していることになる。

 だが、武力紛争を“国際的”と“国内的”で分けることによって紛争の程度に差別をつけていることにならないだろうか。

 異なる国内勢力による武力紛争であっても、国際間の異なる国同士の武力紛争よりも苛烈な抗争を出現させる場合がある。「Wikipedia」を参考にすると、例えば1990年から1993年にかけてアフリカのルワンダで勃発したルワンダ紛争はフツ族とツチ族との部族間の衝突、異なる国内勢力による武力紛争でありながら、政府軍のフツ族によるツチ族に対する虐殺によって100万人が犠牲となっている。

 このような例を見ると、武力紛争を“国際的”と“国内的”で分けることによって紛争の程度に差別をつけることはできないことになる。

 南スーダンにしてもキール大統領は南スーダン最大部族であるディンカ族の出身で、反大統領派の元副大統領のマシャールは2番目に大きな部族のヌエル族の出身だそうで、部族間同士の相手部族に対する憎悪に発した虐殺も起きているという。

 昨年7月11日の全56ページの日報には「戦闘」という単語が11回出てくると、2017年2月9日の「日経電子版」は伝えている。    

 現場の自衛隊の感覚ではそれがまさしく“戦闘”に当たる兵器を使った激しい衝突だったからだろう。稲田朋美がその言葉を「一般的な用語」だと退けている感覚は武力紛争を“国際的”と“国内的”で分けることによって紛争の程度に差別をつけていることがそのまま現場の自衛隊の感覚を低く見る意識へと繋がってはいないだろうか。

 何、いくら戦闘と言っても、国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し、又は物を破壊する行為に当たらないのだから、法的な意味・解釈に於ける戦闘とは言えない、一般的な用語で言っているに過ぎない大したことのない戦闘だと。

 このように南スーダンで武力衝突が起きたとしても、大したことのない戦闘だと一律的に見ることになる一連の論理は、その論理を裏切る激しい戦闘が勃発しない保証は何一つない以上、例えば国連等のスタッフが自衛隊の現場感覚で激しい戦闘に巻き込まれ、駆け付け警護を要請されて駆け付けた自衛隊部隊までが激しい攻撃を受けて戦闘を交える事案が発生して死傷者が出る場合も否定できないことを考えると、自衛隊員の命の軽視を前提とした思考の組み立てをしているとしか見えない。

 この大したことはない戦闘だと一律的に見る論理はまた、南スーダン自衛隊PKOを継続させることを優先させるために参加5条件のうちの「紛争当事者間で停戦合意が成立していること」という状況を無理やり虚構化する思考の組み立てなくして成り立たない。

 このような思考の組み立ても、自衛隊員の命の軽視を前提とすることによって可能となる。

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