2017年2月13日、マレーシアのクアラルンプール国際空港で金正男が若い女二人に襲われ、毒物を掛けられて病院へ搬送される途中で死亡した。毒物を使った暗殺事件と疑いが出ている。
2017年2月16日付「産経ニュース」記事は、2000年頃から中国当局の庇護下に入って北京とマカオ等、東南アジアを行き来する生活を送っていたと伝えている。
庇護の理由を、〈中国にとって、正男氏は対北朝鮮外交の重要な切り札だった。父親の金正日氏が健在だった時代には“人質”的な側面があり、正恩氏の時代になってからは朝鮮半島での有事や中朝対立に備えるため、「いつでも首をすげ替えられるトップ候補」といった存在となった。しかし、正男氏を庇護していることは正恩氏の対中不信を募らせ、中朝関係悪化の一因ともなった。〉と解説している。
記事は金正男が中国から海外に出る際は、〈中国は護衛チームを送り、万全の態勢を敷いてきたといわれる。〉と伝聞形式で庇護の様子を伝えているが、中国は関係悪化よりも身代わりとしての価値を優先させていたことになる。
ところが、〈マレーシアメディアが掲載した殺害当時の空港内の写真には、警護要員らしき人物は見当たらなかった。〉
確かに中国当局の護衛チームが金正男の身辺警護に当たっていたら、女たちは正男に近づくことさえできなかったはずだ。この理由を記事は推測している。
〈中国当局にとって正男氏を守る意味が小さくなり、警備が手薄になったのか。暗殺情報を知りながら、中国が北朝鮮との関係修復のため正男氏を見捨てた可能性さえ否定できない。〉――
この推測を補強する事実を挙げている。〈北京で取材した中国の北朝鮮問題専門家に「金正恩氏の訪中実現には2つの障害物を取り除かなければならない」といわれたことがある。一つは北朝鮮が核実験をしばらく実施しないこと、もう一つは正男氏に消えてもらうことだった。〉
この二条件は共に中国による北朝鮮に対する要求であるはずだ。
と言うことは、中国は身代わりとしての価値よりも中朝関係改善を優先させる方向転換を図ったことになる。
この方向転換を記事は解説している。〈米軍の最新鋭迎撃システム「高高度防衛ミサイル(THAAD)」の韓国への配備決定で、昨年から中韓関係が悪化し、中国共産党内で北朝鮮との関係修復を求める声が高まっている。このタイミングで起きた正男氏暗殺は偶然なのか。年内に正恩氏の訪中が実現するか注目したい。〉――
もし中国の方針転換によって正男に消えてもらうことを意図して中国当局の護衛チームが離れていったとしたら、正男はあまりにも無防備だったことになる。
韓国の情報機関「国家情報院」の情報に基づいた2017年2月15日付「時事ドットコム」記事によると、金正男は金正恩の暗殺指令を知っていたことになっている。
「国家情報院」は2017年2月15日、「金正恩政権発足後(暗殺の)継続的な指示があった。5年前から暗殺を試みていた」と国会情報委員会に報告したと記事は伝えている。
そのために金正男は2012年4月に「私と家族を助けてほしい」と暗殺指令の撤回を求める助命嘆願書を金正恩に送っていたと、同じ「国家情報院」の情報として伝えている。
と言うことは、金正男は金正恩の暗殺指令を知っていた。にも関わらず、今回はその暗殺指令が実際の効力を持ち、暗殺に成功したことになる。
この成功はやはり中国当局の護衛チームが金正恩の身辺警護から抜けたことが要因と言うことになる。
だとすると、同じ疑問に立ち返らなければならない。金正男はなぜこれ程までに無防備だったのだろう。
2017年2月15日付「NHK NEWS WEB」記事は暗殺の背景を推測する三人の人間の発言を伝えている。
鄭成長(チョン・ソンジャン)世宗(セジョン)研究所統一戦略研究室長(NHKとのインタビュー)「金正男氏は北のほかの幹部とは違う。暗殺は金正恩朝鮮労働委員長の指示や黙認がない限り行うことはできない。
(生金正男の北朝鮮の世襲に反対していた過去の発言を挙げて)「北の人間で公に国家を批判できるのはキム・ジョンナム氏しかおらず、キム委員長としては邪魔な存在だった。北から亡命した人々の間で、金正男氏を中心とした亡命政府を作るべきだとする話が出ていた」
記事は後段の発言を、金正恩にとって無視できない存在になったため、殺害を指示したのではないかという見方を示したものだと解説している。
西岡力東京基督教大学教授「後継者に選ばれず、北朝鮮内部で力を持っていなかったジョンナム氏を、テロのような形をとってでも殺害し除去しなければならない事情があったと考えられる。
キム委員長は改革開放派のジョンナム氏が中国と組み、いずれ新しい政権を樹立しようとするのではないかと疑惑を持ち続けていたと考えられ、それが事件の背景にあると見られる。
(北朝鮮内部への影響について)キム委員長が権力を掌握しており、権力構造に変化が生じることは考えにくいが、儒教的な倫理観が強い北朝鮮社会の中では、兄を殺害した指導者への求心力は低下するのではないか」
楊希雨政府系のシンクタンク中国国際問題研究院研究員「ジョンナム氏は長い間、単なる一般人であり、北朝鮮内外での影響力はほとんどなかった。そのため、今回の暗殺は北朝鮮の政治に基本的に影響を与えないだろう。
(キム・ジョンナム氏が中国政府に保護されてきたとされることについて)政治的な影響力はほとんどなかったと思うが、北朝鮮のトップリーダーの息子であったため、中国当局が彼を安全に保護してきたと推測される。
キム・ジョンナム氏は体制内にはおらず、他国との外交交渉で権限を与えられてきた人物でもなかったため、中国は彼を利用しようとはしていなかった。今回の事件は中国と北朝鮮の関係にほとんど影響しないだろう」
楊希雨研究員は中国の保護がなぜ解かれたのか、何も話していない。もし解かれていないとしたら、中国の保護下にありながら、なぜ暗殺されたのか、何も話していないことになる。
なぜ金正男は金正恩の自身に対する暗殺指令が出ていると知っていて、なぜこうまでも無防備だったのだろうかという最初の疑問に立ち戻らなければならない。
あくまでも推測に過ぎないが、金正男は中国当局の身辺警護のメンバーが秘密裏に自身を守っていると思っていたから、無防備でいられたのではないだろうか。
だが、そのときは身辺警護役としてではなく、暗殺の確認役として金正男を見守っていたとしたら。
中国も陰で一役買っていた暗殺ではなかったかという推測である。
では、何のために。
金正恩の手による政権内の幹部や朝鮮人民軍幹部に対する粛清が止まらないのは粛清対象の幹部の動きが信頼できず、疑いを持つからで、その疑いを粛清という強権で晴らすことで自らの支配力を満足させていた。
だが、その支配力は部下との間の信頼関係に基づいていないことに変わりはなく、粛清を恐れて金正恩の権力に萎縮することになる周囲の人間の日々の緊張感、刻々の緊張感が積もり積もって生じることになる抑圧状態が臨界点に達しない保証はなく、達したとき、その反動としての暴発という形を取ることはままある。
しかも世界各国からの経済制裁・金融制裁によって北朝鮮は経済不況下にあり、国民は食糧難に喘いでいる。暴発が国民の不満や怒りを煽って、糾合しないとも限らない。
いわば、強権で抑えつけている支配や統治は逆に脆さを内部に孕んでいることになる。
もし金正恩体勢が内部からの暴発によって瓦解するようなことになったら、替え玉としての金正男は必要な玉となる。
中国がその役目を捨ててまで金正男暗殺に一役買い、北朝鮮が暗殺を実施したとしたら、単に中長関係改善が目的だろうか。
北朝鮮は2017年2月12日午前8時近くミサイルを発射した。対してトランプは翌日、2月13日のカナダのトルドー諸将との会談後の共同記者会見で「極めて重要な問題で、より強力に対処していく」と発言したとマスコミは伝えている。
トランプの言う「より強力に」がどの程度の対応なのか分からないが、強権主義の金正恩から見たら、トランプの強気な性格も考えて、同じ強権を考えるはずである。少なくとも最悪の事態を考えなければならない。
最悪の事態とはアメリカの北朝鮮に対する先制攻撃であろう。
中国にしてもトランプは大統領選では「一つの中国」政策を見直す考えを示し、中国を為替操作国に認定すると主張してきた。但し習近平中国国家主席と2017年2月10日(中国時間)に電話協議した際、「一つの中国」政策を尊重していくと表明している。
だが、米国と中国は中国の南シナ海領有権問題で鋭く対立している。状況次第でトランプは「一つの中国」政策を外交カードとして持ち出さない保証はない。
また、中国の一部の製品に対して中国政府の補助金を受けた不当廉売であり、アメリカの企業が損害を受けていると認定、高率の反ダンピング税や相殺関税を掛けて中国への経済的な敵視政策を取ろうとしている。
要するに中国や北朝鮮に対してトランプは歓迎せざる人物として立ちはだかる危険性を抱えている。
もしこの点で中国と北朝鮮が利害の一致を見たなら、大統領になったばかりであるゆえに強め牽制に打って出たとしても不思議はない。
それが金正男の身辺警護に当たっていた中国当局の護衛チームが護衛の役目を密かに放棄して、その隙に金正恩の暗殺指令を受けたチームが暗殺を実行、成功させたと考えると、金正男の無防備も説明がつく。
要するに金正恩を相手が半分血を分けた腹違いの兄であろうと国のためには暗殺でも何でもする危険人物と思わせることで、トランプ暗殺の可能性も仄めかした威しと見るのは推測に過ぎるだろうか。
少なくともトランプはシークレットサービスの身辺警護の万全を期す必要性を自覚したはずだ。